リピカの箱庭
33

船が向かった先はケテルブルク港だった。もちろん私が選んだわけではない。とはいえ到着してしまえば文句を言っても意味がないし、私は大人しく一面の銀世界を眺めながら馬車に揺られていた。
そうしてホテルにたどり着き、私はエドヴァルドたちとは別行動をすることにした。だって新婚旅行は新婚旅行で楽しんでほしい。幸いガルディオス伯爵代理の私がここに来たことは限られた人しか知らないだろうし、目立つことさえしなければ狙われることもないはずだ。
という言い訳が半分、もう半分はやっぱり初めて来た場所が興味深かったからだ。こんな寒いところに来るのも、こんな積もった雪を見るのだって初めてだ。グランコクマも冬は降ることは降るけど、銀世界と言うほどではない。準備されていたコートを着てざくざくと深い雪を踏みしめて歩く。息を吐くたび白く凍って宙に消えていった。
迷子になってはかなわないので、ちゃんと案内板を確認しながら街を散策する。リゾート地だけあっていろんな店があって見ていて飽きない。
そうやってうろうろ歩いていると向こうから悲鳴が聞こえてきた。「引ったくりよ!」という叫びと共に不審な男がこちらに走ってくる。
参ったな、目立ちたくはないんだけど。私はつまづいたふりで男にぶつかった。
「邪魔だこのガキ!」
「痛っ!」
男が鞄を持った手で振り払おうとするので手首に手刀を落として鞄を抜き取った。そのまま鞄を胸に抱いて道に転がる。男が気づかず走り去って、それを兵士が怒号を上げながら追いかけていくのを見ながら起き上がる。
「あなた、大丈夫?」
と、声をかけてきたのは鞄を盗まれた女性だった。眼鏡をかけたその顔立ちに、なんとなく既視感を覚えて瞬く。いや、知ってる人ではないはずなんだけど。
「はい。ええと、これ、あなたのですよね」
「まあ!そうよ、取り返してくれたのね。ありがとう」
思考を振り払って鞄を渡すと女性は顔を輝かせた。大切そうに鞄を胸に抱く女性に取り返せてよかったと息をつく。
「大事なものなんですね。よかったです」
「……ええ、そうね。そうなの。大事なものだわ、とても」
女性はなんだか切なそうに微笑んで、けれどすぐに私を見下ろしてハッとした顔をした。
「いけない、コートが濡れてしまったわね。お礼もしたいわ、よければ私の家に来てくれるかしら」
「そんな、大したことじゃないです」
「もしかして急いでいたかしら。クリーニング代だけでも」
女性が財布を取り出そうとするのを私は慌てて止めた。まあ、時間もあることだし、だったらお招きにあずかろう。流石に彼女がなんらかの罠ということはないだろう。
「わかりました。ではお言葉に甘えて」
頷くと女性はあからさまにホッとした顔をする。そんなに気にしなくてもいいのに、どうにも緊張しているように思えた。
しかし、家ときたか。ということは彼女はケテルブルクの住人で、見てみれば服装も観光客と比べて浮いている感じもしない。観光客を狙った引ったくりではなかったのかと先ほどの男を思い出す。きちんと捕まってくれればいいんだけど。
「私の家はすぐそこなの。甘いものとか好きかしら」
「はい」
「よかった。あなたはケテルブルクの人じゃないわよね?こっちでは紅茶にジャムを入れて、とびきり甘いクッキーと食べるのよ」
そう聞くと胸焼けしそうだ。そんな私に気がついたのか、女性はころころと品良く笑った。
「もちろん、そうしなくってもいいのよ」
「安心しました。ところで、私がケテルブルクの外から来たとどうしてお気づきに?」
「訛りが違うもの、気がつくわ。グランコクマの方かしら?」
「ええ、そうです。そこまで分かるんですね」
「そうね」
彼女はまた一瞬切なげな表情を浮かべた。うーん、何だか気にかかる。私が気にするのは野次馬根性みたいな好奇心だからやめたほうがいいかもしれないけれど。
そんな会話をしているうちに、本当にすぐにたどり着いた民家――といってもかなり立派な一軒家の中に案内された。なんとなくわかってはいたが、良家のお嬢さんらしい。
コートは脱いで乾かしてもらい、私は暖炉の前のソファを勧められた。すっかり手足も冷たくなってしまっていたので思わず指先をこすりながらありがたく座らせてもらう。女性はシュンシュンと鳴る薬缶からポットにお湯を注いで紅茶を淹れると、お茶請けにケーキを出してくれた。む、これはホテルのケーキだ。随分といいものを常備しているんだなと思わず考えてしまった。
「ごめんなさい、名乗るのをすっかり忘れていたわ。私はネフリーというの。あなたは?」
「レティシアです」
「レティシアさんね。本当にありがとう。すごく助かったわ」
「いいえ、当然のことです」
答えながら私は内心首を傾げていた。ネフリー?聞き覚えがある。ケテルブルクで、聞き覚えのある名前か。いや、そんなまさか。内心の動揺を抑えきれずに甘い紅茶を口にする。ほっとする甘さだった。
「……本当は捨ててしまおうと思っていたの。燃やして、灰にして、なかったことにしてしまおうって」
そんな私の内心に気がつくことなく、ネフリーさんは睫毛を伏せて呟いた。ほとんど独り言のようだった。
「でも、引ったくられて絶望すら覚えたわ。失くしてはいけないものなんだって気づいてしまったの」
「そうなんですね」
「だから、本当に……感謝してもしきれないくらい。こんなことを言われても困るかもしれないけれど」
そんなことを言われたら我慢できない。私は好奇心を抑えきれずに尋ねていた。
「不都合でなければ教えてほしいのですが、一体何が入っていたんですか?」
「恋人からの手紙よ」
私の質問は想定していたのだろう。ネフリーさんはゆっくりと瞬きをして、まるで泣いているように見えた。
「もうすぐ結婚するの。彼でない人と」
「……」
「預言で、そう決められていたのよ。私の運命の人は彼ではなかったのだって。だから、忘れてしまいたかったけれど……駄目ね。きっともう無理だわ」
なぜネフリーさんが私をわざわざ家に招いたか分かった。彼女はこの感情を――鞄を失いかけたときに溢れた感情を誰かに伝えたかったのだろう。この話をしたって問題ない、見知らぬ誰かに。預言で定められた結婚に従うしかないと思っていても、こうやって胸の内を打ち明けることだけは許してほしいと願っている。
「忘れられないことは……きっと苦しいですね。でも、忘れたくないことも本当なんですね」
私は呟いた。預言に見殺しにされる感情を否定したくなかった。ネフリーさんは少し安心したように口元を緩める。
「そうね、ごめんなさい。こんな話をして……」
「いいえ。お礼もいただいたので気にしないでください」
ケーキの最後のひとかけらを口にするとネフリーさんは目元を赤くしたまま微笑んだ。迷惑だとは思っていない。預言に苦しむ彼女を救ってあげられないのは心苦しいけれど、それでも少しでも気が楽になるならよかった。幸せな花嫁は泣いてなんていられないだろうし。
ふと、家の奥から足音が聞こえてきた。ドアがおもむろにあけられて「ネフリー」と声がかけられる。
「そういえば明日の……おっと、お客さんですか」
聞き覚えがある声に私は顔をひきつらせた。もしかして、呪われてるのかもしれない。向こうも私を見て二つ瞬きをした。
「……なぜあなたが、ここに」
「それはこちらの台詞です、カーティス少佐」
「あら?」
ネフリーさんは悪くない。悪くないのだが……名前に聞き覚えがあったのはカーティス少佐の実の妹だからだったのかと思い出して、私は思わず天井を仰いでしまった。


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