リピカの箱庭
幕間05

セシル伯爵家に降りかかった災難はその家の血を継ぐ限り払いのけることなど敵わない類のものだった。
和平のために嫁いだ娘は戦争の手引きを拒否し、家族共々殺された。キムラスカに残っていた本家は国賊と見なされ没落させられた。ジョゼットの生活はその日から一変したのだった。
使用人はほとんど辞めていき、屋敷には石を投げつけられた。しばらくすればそれも収まったが、戦時中は数え切れないくらい命の危険を感じた。国に仇なす不敬な貴族は国民の鬱憤の捌け口になっていたからだ。
母は家族を見切って実家に戻り、父はそれをこの国らしいやり方だと皮肉った。そうしていれば姉は、ユージェニー・セシルは殺されることはなかったのだからといびつな笑みを浮かべながら言った。たとえその裏切りが預言に記されたものであろうと選ばなかった伯母が正しかったのだと、ジョゼットは母に見捨てられた事実を抱いて幼心にそう思った。
そんな母親が戻ってきたのは休戦条約が結ばれてから数年経った後だった。その頃にはもうセシル家に残っている使用人はたった三人で、古くから仕えていた母と娘二人のみだった。そしてその妹のほうとジョゼットの兄は駆け落ちをしてセシルの名を捨てた。父が兄を責めることは一度もなかった。
母は父と長い話をして、最終的にジョゼットはマルクトのガルディオス伯爵家に亡命することになった。伯母の娘、つまりジョゼットの従妹であるレティシアが継いでいる家だ。彼女の噂はキムラスカにも届いていて、父はその話を聞くたびに苦しげな顔をしていた。そして亡命することになったときも同じだった。
「……ジョゼット。すまない。父様はもうお前の未来を保証してはやれなんだ」
「お父様……」
疲れたように父が言うのにジョゼットは何と言えばいいのか分からなかった。本当に亡命することが正しいのかもわからず、でも父がそう言うのならそうすべきだとも考えた。
「レティシアはかわいそうな娘だ。まだ幼いのに、伯爵家を背負っていかねばならん。お前に同じ思いはさせたくない」
「どういう……ことですか?」
「キムラスカにいる以上、お前はもっと苦しむだろう。そう考えるとガルディオス伯爵の庇護を乞うのは悪い考えではないかもしれん」
もっと苦しむ、という言葉にジョゼットは拳を握った。恵まれた幼少期から一転して、すべてを失う恐ろしさをジョゼットは知っている。それでも家族は一緒にいてくれた。マルクトに行けばもう二度と会えないことくらいは分かっていた。
「これをレティシアに渡してくれ。他の人には決して見せたり、このことを話してはいけないよ。母様にも、だ」
父が差し出した封筒をジョゼットは戸惑いながら受け取った。母に言ってはいけない――その言葉が深く突き刺さる。やっぱり、とジョゼットは心の中で思った。もう母はあの頃の母ではないのだ。家族四人で過ごしていた時間は永遠に失われて、父と兄と耐えた時も今手放そうとしている。
――せめて、と考える。せめて、この先の時間は自分で選び取らなくてはいけない。
「いいかい、ジョゼット。自分で考えるんだ。誰が正しいのか、間違っているのか。きちんと考えるんだよ。私たちを裏切った国のことは忘れてしまいなさい。父様に胸を張って言えるとお前が考えた道を選びなさい」
「はい。お父様」
「愛しているよ、ジョゼット。これからもずっと、お前は私の娘なのだからね」
「はい……」
抱きしめられてジョゼットは涙を零した。
それが父と過ごした最後の夜だった。

マルクトに渡ったジョゼットは、母の傍若無人ぶりに肝が冷える思いをし続けることになった。家にいた頃は伯爵夫人として振舞っても使用人がなんでも言うことを聞いてくれたものだったが、今は違う。二人が滞在しているのはマルクトのグランコクマにあるガルディオス伯爵の屋敷だ。正確には別邸なのだが、そのことを知るのはもう少し先だった。
とにかく家の主導権を握ろうとする母にジョゼットはひやひやしながらどうにか諫めて、従妹の様子を伺った。病弱だったと記憶しているレティシアはやはり健康とは言い難いようで、席を中座することも何度かあった。それでも彼女はただの子供でないとジョゼットは直感していた。母を見る冷ややかな瞳は貴族そのものだった。
その瞳が自分に向けられていないことにジョゼットは安堵したが、間もなくレティシアが仕事で家を数週間も留守にしてしまうとそんなことを言っている場合ではなくなった。レティシアがジョゼットに向けるのが親愛でも、騎士や使用人たちがそうとは限らない。彼らにとってはジョゼットは紛れもなく敵国の人間なのだ。
母はまるで屋敷の主のようにふるまい、ジョゼットの忠告は無意味だった。屋敷にいるのがあまりに苦痛で、逃げ出したいとさえ願った。でも逃げ場などどこにもない。
悩んだ末、ジョゼットはロザリンドに相談することにした。彼女はずっとセシル家に仕えていた家系の娘で、マリアンヌの従妹であると知っていたおかげでまだ話がしやすかった。少なくとも、常に鋭く目を光らせるナイマッハの騎士よりは。
相談を持ち掛けられたロザリンドは想像よりもずっとジョゼットに親身になってくれた。いつの間にか戦時中からのセシル家の状況をすっかり話してしまったほどだ。話を全て聞き終えたロザリンドはにこりと微笑んだ。
「それではジョゼット様。しばらく、別のお屋敷で暮らしてみませんか?」
「別の?」
「はい。レティシア様は元々難民街だったホドグラド区を皇帝陛下から任されておられて、そこに伯爵家本邸があるのです」
「本邸……?そうだったの?」
ここが別邸だったとは思ってもいなかったジョゼットは目を丸くした。母を放置することに躊躇いはあったが、結局はロザリンドと、ついでにナイマッハの騎士にも押し切られてジョゼットは本邸へ移動することになった。
ホドグラド区は元々難民街だったとは思えない綺麗な街並みをしていて、そしてその街並みは記憶の中におぼろげにあるホドの街とそっくりだった。これを自分よりも年下の小さな従妹が作っただなんて信じられなかったが、騎士たちや文官たちは皆口をそろえてレティシアを称えていた。ホドの真珠、と誰かが呼んだ。戦争で何もかもを失った人たちの希望なのだと誰かが言った。あんなに小さな双肩に、一体どれだけの重荷を背負っているのだろう。ホドの海と同じ色の瞳はどれほど遠くを見据えているのだろう。空恐ろしくなるくらいだった。
――本当に、お父様。
ジョゼットは父の言葉を思い出して心の中で呟いた。
レティシアはかわいそうな子です。でも同情することなんてきっと許されません。ここに居場所を得られるのなら、この街の人が皆願うように、いつかレティシアの役に立たなければならないと思うのです――。

ジョゼットはセシル家の娘であることを隠して騎士の見習いをすることになった。騎士と言っても街に仕える騎士と家に仕える騎士の二種類があって、ジョゼットは後者だ。つまりナイマッハの騎士、エドヴァルドと同じような立場だった。最初は街の騎士と同じように下積みをするのは変わらない。ジョゼットの仕事はほとんど雑用と、勉強だった。
勉強をするのは本邸のすぐそばにある塾だった。そこには騎士見習いだけではなく、孤児を含む街の子供たちも通っている。一週間に一度は通うようにというのがガルディオス伯爵の方針らしく、塾にはさまざまな年齢の子どもがいた。
そしてきちんとした教育を受けてきたジョゼットは子どもたちよりもずっと進んでいたせいか、それに気づいた子どもたちに質問攻めにされて教える側の立場に立つことが多かった。一方で譜術に関してはジョゼットの出来は同年代の子どもたちよりもはるかに下だった。
「ジョゼットさあ、勉強はできるけど譜術はダメダメだな〜」
「そ、そんなことないわ。はじめたばっかりだからよ。それに剣だって私の方が上手いでしょ」
からかわれながらも、同年代の子どもたちと何のてらいもなく会話できるのがジョゼットにとって嬉しかった。友達なんて、キムラスカにいた頃はできると想像したこともなかった。
レティシアが帰ってくるまでの短い間にジョゼットはすっかりホドグラドに馴染んでいた。だから、意図的に考えないようにしていたのかもしれない。起こると知っている恐ろしい出来事について。

ガルディオス伯爵が帰還した翌日に、ジョゼットは別邸へ戻った。
そこは己の母を断罪するための場だった。レティシアが、ガルディオス伯爵がジョゼットを冷静な瞳で見つめる。その足元には血だまりに死体が転がっていて、少女の持った剣は血にまみれていた。
少女は静かに告げる。人生の岐路だと、その瞬間に分かった。

「――さあジョゼット。選びなさい」


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