深海に月
01

わたしの世界はせまい箱庭の中だけだった。
おかしいなあ、と思っていた。わたしには「前」の記憶があって、そこでは世界はもっと広かったから。でも今のわたしはこの街から出られない。だって「外」なんてないのだとみんな言う。ここが世界の全てなのだと誰もが言う。ただ一人を除いては、「外」を知らなかった。
知っているのは、姿のない人だった。この街の長で、オーマといった。オーマはたまに、他の人とは違うことを言う。
許さない、裏切り者に復讐を。物騒なことを言うなあと思った。オーマ曰く、ずっとずっと昔にわたしたちをここに閉じ込めた人たちがいるらしい。そんな昔のことをどうしてオーマは知ってるんだろう。姿がないから幽霊なのかもしれない。みんなは興味がなさそう、というより理解してなさそうだったけど、わたしは外の話が聞きたかったのでオーマによく話をしてもらっていた。
べつに復讐とかには興味はない。ずっとずっと昔のことだもん。でも、外には出てみたかった。「前」の記憶に映る空を見てみたかった。
その願いがきっと通じたんだと思う。
街が揺れてから幾日か経ったあと、わたしは「外」へ通じる道を見つけた。道と言ってもせまい亀裂だ。わたしみたいな子どもじゃないときっと通れなかっただろう。射し込む光があまりにあたたかくて、わたしはその先を求めてしまった。
その道を登っていくと別の建物に出た。下の街と似てるような、似てないような。人は住んでいなさそうだ。きょろきょろと辺りを見回しながら光の強いほうに進んでいく。「外」だ。建物には外があって、わたしの住んでいた街よりもずっとずっと広かった。「海」が広がっている。そして空は私の知っているよりも澄んだ青色をしていた。
やっぱり「外」はあったんだ。そう喜ぶ前にわたしは空を裂いて顔を覗かせる「それ」に固まってしまった。
見ているだけで悪寒がする。あれはなんだろう。あの、恐ろしいものは一体なんなんだろう。唇を噛みしめる。空に気を取られていたわたしは人がいることに気がつけなかった。
「何者だ!」
急に大きな声が聞こえて心臓が飛び跳ねる。空から視線を戻すと、そこには青い服の人たちがいた。
「親衛隊の者ではないのでは?」
「いや、怪しい。どこから出てきた」
「子どもじゃないですか」
なんだか変な喋り方をする人たちだ。わたしはフードをぎゅっと握った。街の人たちとはあまりに雰囲気が違う。こわい、と思った。
もしかしたら、と考えが駆け巡る。わたしが街から来たと知ったら殺されてしまうのだろうか。だってわたしはむかしむかしに閉じ込められた人たちの子孫なのだ。出てきたらいけないから、閉じ込められたんじゃないのか。
「何か言ったらどうだ。喋れないのか?」
青い服の人が言ってくる。やっぱり変な喋り方だけど、わからなくはない。
「……しゃべる、できる」
「君、どこからきたんだ?」
「……」
口を噤むと青い服の人が怒ったように声を荒げた。「やっぱり怪しい奴だ。船に連れて行こう」
そう言って私の腕を掴む。その力が強くて、ますます怖くなった。このままだとやっぱり、殺されてしまうのではないか。
「いや、いや……!」
「大人しくしろ!」
最終的には抱えられてしまって、わたしは「船」に乗せられた。船には青い服の人がたくさんいた。青以外の服の人もたくさんいる。髪の毛の色が桃色の人はいなかった。街の人はみんな桃色だったのに。
連れていかれた船の部屋には金色の髪の人がいた。その人は「何事だ?」とわたしを抱えた人を見て言う。
「はっ!不審者を発見しました!」
「不審者?……その子どもが?」
金色の髪の人は眉を寄せる。ようやく降ろされて、でも逃げ場はどこにもなかった。金色の髪の人も喋り方が変だ。外の人はみんな喋り方が違うのかもしれない。
「確かに、こんなところに子どもがいるのは不審だな」
「質問にも答えませんでしたのでこちらに連行しました」
「ふむ。君、名前は?」
金色の髪の人が聞いてくる。答えなきゃいけないと分かっていても声が出ない。怖くて体が震えていた。やっぱりわたしは外に出てはいけなかったんだと、そんな気持ちだけがぐるぐると渦巻いている。
「……そういえば、行方不明者の捜索の方はどうなっている?」
「は、いえ、まだ見つかってはいませんが」
「この子は私が対応するから、君たちは戻ってくれ」
「分かりました!失礼します!」
頭上で会話が交わされて、ドアが閉まった。青い服の人は行ってしまったらしい。そしてやさしい声がかけられる。
「怖がらせてごめんね。君に聞きたいことがあるんだ。答えられるかな?」
金色の髪の人の声だった。わたしは俯いていた顔を上げる。その人の瞳はさっき見た空のように綺麗で、空のばけもののような恐ろしさはまるでない。わたしはつい見とれてしまった。
「僕はフレン。君の名前は?」
名前。その問いかけにわたしはなんとか声を絞り出した。
「レティシア……」
「レティシアだね。君はアレクセイに連れてこられたのかな」
「アレクセイ?」
誰かの名前だろうか。知らない単語かもしれない。外の人の言葉は違うみたいだったから。
「アレクセイ、なに?」
「帝国の騎士団長だった人だよ」
「テイコク?」
うーん、金色の髪の人――フレンの言葉は難しい。でも、アレクセイというのが人なら、知らないのは確かだった。
「アレクセイ、知らない」
「じゃあ、どこからきたのかわかるかな?」
「……」
言うべきなんだろうか。フレンはいい人のように見えるけど、でもさっきの青い服の人の仲間だ。迷っていると、頭にぽんと手を置かれた。
「君を傷つけたりはしない。約束するよ」
籠手をつけた、でもやさしい手が頭を撫でる。わたしはそれだけで、すっかり安心してしまった。
「わたし、きた。街から」
「街?どこの街だい?」
「街、ひとつ。下ある」
外には街がたくさんあるということを思いつかなくてわたしは首を傾げた。フレンは「下……?」と訝しげに呟いた。
「下って、南の街ってことかな。ここから南だと……ノードポリカとかかな?」
「?」
フレンの言葉にわたしはますます首を傾げた。ミナミ?ノードポリカ?何の話だろう。外の人の言葉はもしかしたらわたしの言葉と似てるようで違うのかもしれない。フレンは困ったように眉を下げた。
「僕たちは一度帝都に戻らなくてはならないから、ノードポリカだとすると方向が別だな。ギルドに依頼するか……?」
フレンがテイトから来たというのは何となくわかった。テイトというのはどんなとこなのだろう。ここみたいに、周りが海で囲まれてたりするのかな。それとも街みたいにずっと下にあるのかな。
そんなことを思っていると部屋のドアがノックされた。フレンが返事をする前に慌ただしくドアが開けられる。
「隊長!親衛隊の生き残りが暴れ出して――」
「何!?すぐ向かおう」
フレンは大きな剣を持ってドアから飛び出して行った。呼びに来た人も出て行って、わたしは一人取り残されてしまう。なんだか心細くなって、わたしも部屋から外に出た。
フレンの声が聞こえる方に走ると、フレンは剣を振り回していた。ひっ、と自分の喉から引きつった声が出るのがわかる。血が、フレンの剣についていた。フレンの血じゃない。その剣が突き立てられた相手の、真っ赤な血だ。
フレンはあっという間に色の違う服を着た人たちを斬り伏せてしまった。何か指示を飛ばしているのが聞こえる。フレンはえらいんだろうか。
指示を出された人はしゃがんで怪我をした青い服の人に治癒術をかけていた。外の人も、治癒術は使えるんだ。
「レティシア!」
急に名前を呼ばれて心臓が飛び跳ねた。「部屋で待っていなかったのかい?」と声をかけられるけど、わたしは見上げたフレンの顔に傷が走っているのに気を取られていた。
「レティシア?」
「フレン、」
血で汚れた籠手を引っ張るとフレンはしゃがんでくれた。頬の傷に手をかざす。
「……"聖なる活力よ、ここに集え"」
唱えると光が集まって傷が巻き戻るように消える。わたしはホッとして手を離した。
「治った。けが」
「……え?」
フレンは目を丸くしてわたしを見る。何か変なことをしただろうか。治癒術は普通だと思ったのに。
「君は、魔導器を持っているのかい?」
「ブラスティア?」
「……まさか、エステリーゼ様と同じ……」
よくわからない。いけないことをしたのかと不安になる。ぎゅっと服の裾を握りしめていると、フレンはわたしの頭に手をかざして――一瞬ためらって、籠手を外した。そしてもう一度、あたたかい手をわたしの頭に乗せる。
「傷を治してくれてありがとう。ここは危ないから、部屋に戻れるかな?」
「……ん」
やさしい瞳にほっとする。フレンが立ち上がって怪我をしている人たちのところに戻っていったので、わたしも言われた通りに先ほどの部屋に戻ることにした。


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