リピカの箱庭
24

異様に長く感じた船旅と、ついでに馬車での移動を終えてダアトについたときにはもう疲れ切っていた。これを帰りもするのかと思うと気が重い。とはいえ、地に足を着けて歩けるのが嬉しくてダアトについた瞬間はちょっと、いやかなり、一周してテンションが上がっていた。
私は殿下の事情でねじ込まれたおまけなので、ちょこっと導師に挨拶をして会食に参加すればいいだけで大した役割はない。着いた当日は特に用事もないので、私は疲れたふりをして部屋に閉じこもるとラフな服装に着替えて窓から抜け出した。
ダアトの街は当然だけど、グランコクマと雰囲気が全く異なる。グランコクマはどこか気品のある街並みだけど、ダアトはそれよりも少し武骨なように感じられた。宗教都市だから華美さを全面に押し出すとまずいのだろう。一方で教会はさすが圧倒されるようなたたずまいだ。
観光気分であたりを見回しながらウロウロしていると石碑が目についた。巡礼者が教団の制服を着た人から説明を受けているのが聞こえる。
今更だけどローレライ教団ってユリア・ジュエの預言を守るための組織だから、ある意味彼女が教祖なのか。私はホドにあったユリアの墓を思い出していた。白くて綺麗な雰囲気は石碑とも似ているように思う。
説明していた教団の人が観光客から説法代をもらっているのを横目に石碑を見上げる。そこで聞こえた声に、私は目を見開いた。
「施設外でお布施を頂くのは規律に違反しているだろう。返してこい」
「別にいいじゃないか、聞いてた人も喜んでたし。両親が借金してるのを返さなきゃいけないんだよ。な?わかってくれよ、ヴァン」
振り向くのが怖い。固まってただ石碑のてっぺんを見上げていた私は、次の言葉を祈るような気持ちで待った。
「――次は私のいないところでやるといいさ」
「ちぇっ。わかったよ」
一人が遠ざかっていく。きっと観光客に説法代を返しに行ったのだろう。私は――ようやく首だけで振り向いた。
茶色がかった色の髪を束ねているのは、紛れもなく私の知っているヴァンデスデルカだった。
声をかけるか、迷う前に呼びかけようとしていた。でも声は出ない。喉の奥につっかえたように、その名前だけが出てこない。
「……まって」
私に気がつくはずもなく、歩き去ろうとする彼に、聞こえているかどうか自分でもわからない声をかける。声を出していたつもりだった。でも、届かない。
「まって、いかないで」
遠ざかる。見知らぬ服を着たその人は私を振り向かない。
「おいていかないで、ヴァンデスデルカ――」
背中が見えなくなってしまってから、ようやく足をぎこちなく動かす。弾かれるように駆け出して、私はヴァンデスデルカの背に追いつこうとした。でも人混みに紛れて、細い路地に入っていって、遠ざかっていってしまった彼を捕まえることなんてできなかった。必死に走ったのに、どこにもヴァンデスデルカはいない。
幻覚だったのかとすら思ってしまうほどだった。もうどこをどう走ったのか、どれくらいの間走っていたのかもわからなくて、息を整えて辺りを見回す。初めて来る街では自分の居場所なんてわかるはずもなかった。
頭がさっと冷めて、どうしようという考えばかりが頭をめぐる。とりあえず、宿に戻らないといけない。ヴァンデスデルカに会うことなんて考えてなくって、ただ街を散策するつもりで抜け出してきたので長時間外に出ているとバレてしまう可能性もある。今は使節団の一員としてここに来ているのだから、信頼を失墜させるわけにはいかない。
こうなったら手早く道を聞くしかないか、と思いながら路地を抜けて、広い通りのショーウィンドウを見上げる。どうやら本屋らしくて本がたくさん並んでいた。そして店員さんを見つける前に、ガラス越しにばちりと目が合う。
赤い瞳が、もう一つガラスを隔てた先にあった。
「――」
まさか、と目を丸くしてしまうのを誤魔化せない。そこにいたのは、たしかにジェイド・カーティスだった。
逃げるべきかという考えが頭をよぎる。迷っている間にジェイド・カーティスはベルを鳴らして店のドアから出てきていた。身長差のせいでずいぶんと見上げなくてはいけない。
「……こんなところで何をしているのですか」
「ひ、人違いでは」
声をかけられた瞬間、やっぱり逃げるべきだったという後悔に襲われる。そんなわけで駆けだそうとした私の腕を、大きな手が思いっきり引っ掴んで引き寄せられてしまった。
「っ、離しなさい!」
咄嗟に大声で叫んでしまった。手を振り払って頭上の顔を睨み上げる。人目を集めてしまっていることに気がつく余裕はなかった。
ジェイド・カーティスは眉間にしわを寄せて、ポケットに手を突っ込むと「やれやれ」とどこか呆れたように、もしかしたら困ったように呟いた。
「もう一度訊きます。ここで何をしているのですか?」
「あなたには……関係のないことです。あなたこそ、なぜここにいるのです」
使節団にジェイド・カーティスの名前はなかったはずだ。あったらピオニー殿下のことだから私に告げていたとも思う。しかし彼はこともなげに答えた。
「私用ですよ」
「私用?ダアトに、……巡礼ですか」
「その通りです」
一瞬頭をひねったけど、ダアトに行く理由なんて普通は一つだ。そして私の知っている限り、カーティス家は敬虔な信者である。不思議ではないが、目の前の人と巡礼とが全く結びつかなくて間が空いてしまった。
とはいえこのタイミングだ。それだけではきっとないのだろう。
「さて。伴も連れずに、そのような格好で出歩いているあなたを看過することはできませんね」
気がついてしまったからにはそうなのかもしれない。おそらく、彼は私がダアトを訪れた理由自体は知っているのだ。このまま何かしらのトラブルに巻き込まれて、私が導師に挨拶ができないなんてことになるとマルクト軍人として困るのだろう。
「宿までお送りしますよ、伯爵」
有無を言わせない口調で告げられて、私は仕方なく頷いた。戻れなくて困っていたというのは事実である。こんなところでこの人に出会ってしまうとは全く思っていなかったけれど。
ジェイド・カーティスはそう言ったわりに私に背を向けて歩き始めてしまった。追いかけるか迷って、しかし彼なら殿下や私の宿泊先くらい把握していても不思議ではないと思い直す。
コンパスが違うので小走りで彼について行く。だんだんと歩調がゆっくりになっていくのが分かって、なんとなく情けなく感じた。
無言の時間が気まずい。人ひとり分後ろを歩く私を、ジェイド・カーティスは一度も振り返ることはせず、それだけがいっそ救いだった。


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