リピカの箱庭
23

船は嫌いだ。馬車と同じくらい好きではない。しかし海を渡ってダアトに行くには船に乗らなければならない。控えめに言って、地獄だ。
とはいえ地獄も仕事なので、愛想を振りまきながら船に乗って、一通り使節団の他の面々や乗組員に挨拶を終えた私は似たような仕事があるとき以外は死にそうな気分で与えられた船室に引きこもっていた。今回は皇太子殿下の使節団なので乗り物は船ではなく第五音素で推進する軍事用装甲艦なんだけど、まあ似たようなものだ。ぬいぐるみを抱いて何度目かのため息をつく。
波の音が、潮の匂いが嫌だった。グランコクマの海は平気だったのに、船の上で感じるとどうしてか泣きたくなる。ベッドの上でうずくまりながら逃げることもできずに耐えるしかなかった。
結局、私はグランコクマの屋敷をエドヴァルドに任せることにして、メイドも一人しか連れてこなかった。私はまだ子どもなので着替えなどにそこまで手間取らないし、一人でやろうと思えば問題なくやれる。ホドグラドの騎士団からは二人借りて来たが、伯爵家の騎士と言うよりは街の騎士なので馴染みが薄い。今更人見知りなんかはしないけれど、心細い気分になるのは確かだった。
そんな環境がグランコクマに連れて行かれたときと似てるせいでこんなに気分が落ち込んでいるのかもしれない。言いようのない疲労は知恵熱を出したときともよく似ていた。
連れて来たメイド、エヴァンジェリンはこういうとき、私にほとんど関わってくることはない。食事をするかどうか聞くだけで基本的には待ちの姿勢だ。今はむしろそれがありがたいけど、どんどん自分の殻にこもってしまうのも自覚していた。
「ガイラルディア……」
広い船室は貴族に与えられるだけあって上等だけれど、装甲艦の機構が見えているところもある。そんなものを見上げながらぬいぐるみの手を取ってふにふにと握った。新調したドレスと同じ色合いの礼服を着せたぬいぐるみの瞳を覗き込んで、ガイラルディアが見たら喜ぶかななんて考えた。あの、なんと言ったか忘れたけれど、作中に出てきた装甲艦を見たときもガイ・セシルは喜んでいたはずだ。ガイラルディアがいたら、艦内を見て回っていたのだろうか。二人で手を繋いで、ヴァンデスデルカが心配そうについてきたかもしれない。
コンコン、と部屋に響いたノックの音でそんな心地よい夢に浸っていた意識が現実に引き戻される。億劫になりながら「はい」と応えるとドアが急に開いた。
「レティシア、体調はどうだ?」
「……へ、殿下」
びっくりしすぎて思わず陛下と呼びそうになってしまったが、無遠慮にドアを開けたのはピオニー殿下だった。取り落としそうになったぬいぐるみを慌てて抱きしめる。それを殿下が意外そうな顔で見ていたのには気がつかなかった。
「どう、なさいましたか」
「どうって、だからレティシアの様子を見に来たんだよ。他の奴らも心配していたしな」
「それは……お手数をおかけいたしました」
必要な場には出るようにしてたつもりだったけれど、殿下や他の人が気になってまう程度には閉じこもってしまっていたらしい。ようやく我に返った私はぬいぐるみをどこに置くべきか迷いながらとりあえず殿下を見上げた。
「申し上げました通り、大事ではありませんのでどうかお気になさらず」
それよりも、私の部屋のドアを勝手に開けるのは勘弁してほしい。というか殿下直々に私の部屋に来るってどうなんだ。ドアから心配そうに騎士たちがこちらを覗いていたけれど、頼むから仕事をしてほしい。
「ピオニー殿下!」
とか思ってたらそのドアがまたいくらか乱暴に開けられた。今度はなんだと呆れた気分で顔を向けると、立っていたのは使節団に随行する佐官の人だった。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「おいおいマクガヴァン中佐、女性の部屋に勝手に入るなんて失礼だろう」
そうだ、マクガヴァン中佐だ。確かマクガヴァン元帥の息子だったか。私は今度こそ何食わぬ顔でぬいぐるみをテーブルの陰に隠してマクガヴァン中佐に視線を向けた。
「これは……失礼いたしました。ガルディオス伯爵」
「そうですね、マクガヴァン中佐。殿下を探していたのですか?」
「はい」
顔を上げたマクガヴァン中佐の顔を見るに、私のような小娘に頭を下げるのはあまり好ましくない事態らしい。とはいえこの小娘は伯爵位を賜っているのでそのへんはどうにか折り合いをつけてほしいところだ。
「それでは、殿下にも女性の部屋に勝手に入るのは失礼だとお伝えください」
「レティシア、俺はノックをしただろう?」
「名乗りもせずドアを開けたのは殿下ではないですか。それとも、私が存じないだけでこの艦ではそのように決まっているのです?」
首を傾げて微笑んでみせると殿下は「弱ったな」と髪をかき混ぜた。マクガヴァン中佐は私とピオニー殿下をなんとも言えない顔で見比べている。
「俺が悪かった。次からは気をつけよう」
次があるのかと思ってしまうけど、そう言われてしまえば許すしかない。別に、ピオニー殿下が艦の女性の部屋に勝手に出入りして何をしていようと構わないけど、私の部屋だけはそうであっては困るのだ。特に、海の上では。
私が頷くと、見計らったようにマクガヴァン中佐が咳払いをした。
「それでは殿下、用事は済みましたかな。他の者どもも殿下の長い休憩をお待ちしております」
「わかったわかった、そろそろ戻るさ」
どうやら、殿下は打ち合わせか何かを抜けてここに来ていたらしい。マクガヴァン中佐を部屋から押し出してからピオニー殿下は私を振り返って囁いた。
「ところでレティシア。彼の名前はなんて言うんだ?」
視線の先にあるのは、私が隠そうとしたぬいぐるみだった。なぜそんなことを訊くのかわからない。私は戸惑いながら、それを見せまいと笑みを貼り付けた。
「時が来れば、殿下にもご紹介いたします」
「……では、その時を待つとしよう」
ドアが閉められる。私は頭を下げたまま、扉が閉まる音を聞いていた。


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