運転手は死に物狂いで明日葉のいる方向に駆け寄ってきた。きっと助けを求めているのだろう。
野次馬はそれを見て恐れるように明日葉と運転手から距離を置いた。それでもまだ逃げない。この獣がどういう結末を迎えるかを見届けたいのだ。

「あ、アンタ、あいつの知り合いなんだろ!? 殺されるんだ、止めてくれよ・・・・・・!!」

運転手はまだ若そうに見えた。横断歩道は確かに青になっていた、それは明日葉が自らの目でしっかりと確認している。だからこの運転手が運転していた車が信号無視をした、ということになる。
そして仄かに酒のにおいもする。もしかしたら飲酒運転かもしれない。
酒は飲んでも飲まれるな、という昔からの言葉があるが、この運転手は今きっと酒などという気持ちの良いものではなく、獣の剥き出しな殺気に飲まれそうになっているに違いない。もちろんほろ酔いどころではないだろう。
助けたいのは山々だが、明日葉はどうすればいいかわからなかった。
大きな行動を起こさない明日葉を見て、運転手は自分の苦痛を少しでも和らげるためか、それともただ話したいだけなのか、自分の身に起こったことを震えながらも話した。

「奴は俺の乗っていた車のフロントガラスを素手で勢いよく割った―――そして運転席にいた俺を無理やり引っ張り出してきたんだよ・・・・・・!」
「ガラスを、素手で」
「最初は何かと思った、でも何かが変形するような音、つまり俺の車がへこむ音だったんだろうな、俺はそれで奴の存在に気が付いたんだ・・・・・・、人間を轢いちまったのかと青ざめた瞬間、俺は既に奴に胸倉を掴まれていた」
「・・・・・・」
「奴が言葉を発したのはたった一言だけ、『キリコニアヤマレ』だった。もしかしてあんたか、そのキリコってのは」
「!」

キリコニアヤマレ―――桐子に謝れ。
自分のことを桐子と呼び捨てで呼ぶのは、血縁者がいなくなってからは彼くらいのものだった。

「あんたにならいくらでも謝る、・・・・・・だから頼む、あの『オオカミ』を止めてくれ!」

運転手は幼馴染のことを『オオカミ』と呼んだ。あの尋常じゃない血眼と牙が、運転手にそう呼ばせたのかもしれない。
自分のほうが年下でありそれに加えて非力な女性のはずなのに、そんなことはお構いなしに運転手の男はプライドと意地を捨てて小柄な明日葉の肩に縋ってくる。それは傍から見ればどれだけ滑稽極まりなかったことであろうか。
勿論明日葉はそんな加害者を許すつもりもなかったし、蔑む暇もなかった。

明日葉はその運転手の懇願を受け入れるつもりは無かったが、私情では彼には帰ってきてほしかった―――何より自分が引き金になって彼はあんなものになってしまったのだ、自分が責任を持って戻さなければならない。
ゆっくりと、静まった夜中の街並に、大勢の視線と共に明日葉の履いているヒールの音と彼の唸り声が響き渡る。野次馬は今となっては声すら出さないただのハリボテだった。

彼は未だ車の上で依然と立っている。その真紅の目は暗闇でよく光って見えた。
落ち着いてみると、彼の様子はそれ以外にも変わっているところがあった。普段は真っ白のピン止めが、今となっては真っ黒に染まっている。どういう仕組みだろうか。
そして先程運転手が証言していたガラスを素手で突き破った―――どうやらその通りらしく、彼の利き手からは瞳と同じような色をした液体が垂れ流れていた。
明日葉が見たあの赤い液体の正体はおそらく、ガラスを割ったことによる彼の腕からの出血。確かに血液ではあったが、それが自然の摂理であるかのように彼は怪我に見向きもしなかった。

明日葉は、臆すことの無いようにと深呼吸をし、彼のかたちをした獣に声をかけた。

「大丈夫、あたしはここにいる。だから降りてきて。あの人も謝ってるから」

いつもはいつまでも幼さが抜けない自分が世話焼きな彼に諭される立場なのに、今となっては綺麗なほどに立場は逆転していた。
しかし彼女の台詞に、獣は答えなかった。血走った目で辺りを見渡しているところを見ると、もしかしたらまだあの加害者を探しているのかもしれない。

「お願い、あたしの言うことを聞いて」

いくら彼に話しかけても、獣は明日葉の方を向こうとはしなかった。まるで元から彼女が存在していないかのように、獣は動いていた。

最初から自分のことなんて歯牙にもかけていなかったのではないか。
ぐるぐると、普段はそんなこと思わないような悲観的な思いばかりが未だに状況すら整理されていない明日葉の頭の中で渦巻いている。



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