涙で世界はすくえない(2)
「久しぶりだね」
飲み屋で青木に何の感情もない声でそう言われた時、もう駄目だと益田は完全に諦めた。
既に何度考えても、その結論に辿り着いてしまっていた。
青木がこんなに怒るのを見たことがない。そもそも怒っているところを見たことがないから、この怒りがどの程度のものなのかも計りかねた。軽いものでは無いのは確かだと思うけれど。それに青木がどうやって怒りを静めるのかも知らない。
込み上げてくる涙をぐっと堪えるので精一杯で、適当な返事をした。
いつ別れることになったとしても大丈夫なように腹をくくっていた筈なのに。
―――どうして、こんなことになったんだろう。
幾度となく考えていたことを、再度考えながら酒を飲み続けた。
自分のせいであるのは確かだ。探偵社に来た時はいつものように笑ってくれていたのに、帰る時には激怒していたんだから、これは猿でも分かる。
怒りに満ちた眼差しを初めて受けて、訳もわからず空気を変えたくて必死にふざけた調子をつくろうとして、怒っている理由を教えてくれと視線を送れば、初めて冷え冷えとした声を聞いて、掴んだ腕を初めて振り払われた。
初物づくしの初めての喧嘩はそうやって始まって、どうすればいいのか分からないまま時間だけが過ぎていった。
謝りに行こうと何度か青木の下宿の前までは行った。電気が点いていたから、居るのは分かっていた。だが、なんと言って謝ればいいのかが分からなかった。
自分がふざけたことで青木をさらに怒らせたことは見当がついている。だから、ふざけずに真正面からぶつからなければならない。
だが、それが自分にとって一番難しいことだった。
想いを告げにぶつかりに行った時はまだ希望があった。今は絶望だけだ。それになにより失うものの大きさが全然違う。あの時は、友人としての立場しか持っていなかった。だが、今は。
愛おしげに細められる目。囁かれる言葉。一度外で繋いだ手。軽口を叩けば、仕方がないなと浮かべられる表情と、なんだかんだで軽口に付き合って返してくれる答え。暗い部分を嫌わずにいてくれる、優しい眼差し。抱き締められる安心感。まだまだ喘ぐ自分への羞恥を捨てきれないけれども存在する抱かれる快楽。そして同時に得られる、求められているという幸福。
気づけば、色々と手に入れていた。
そのすべてが悲しい思い出へとすりかわる恐怖には、耐えられなかった。自分勝手であるのは百も承知であったけれど、先延ばしにせずにはいられなかった。
『それで君はどうしたんですか』
青木の他人行儀な冷え冷えとした声を思い出して、胸が詰まった。
確かに何度も注意をされた。気をつけろと。でも浮気調査だと思って、そのまま依頼を受けて、いつも通りに粛々と仕事を進めただけだ。殴りかかってでもきてくれたなら、まだ逃げようもあるけれど、こんなの気のつけようがない。浮気調査の依頼が来るたびに、相手の身元調査までやれというのか。
だが、これと似たようなことを茶化しながらふざけて言ったあと青木の纏う空気が一気に冷えたのは肌身で感じたから、これは言わない方が良かったんだろう。
でも、これ以外に言い訳が思いつかない。どうしたら許してもらえるのか見当もつかない。青木の部屋に押し入って、押し倒して迫ってみようかとまで思い詰めたけれど、そこまで自分の身体に自信も無かった。
やっぱり手詰まりだ。
同じ結論にまた行き着いて、じわりと視界が滲んだ時、また青木の声が前方から届いた。三人で飲むときはいつだって隣から聞こえていた声が、今日は随分遠い。
「益田くん、こっちを見なよ」
あぁ、怒っている。向いたら何を言われるんだろう。
「…嫌ですよ」
声が掠れた。虚勢をはるのも、そろそろ限界だった。
「…君は今何を考えているんだ」
怒りが滲み出ている青木の声を聞いて込み上げてくる涙を必死で堪えた。
「なんでそんなことを言わなくちゃいけないんですか」
「約束したじゃないか、聞かれたら答えるって」
約束した夜のことを思い出す。強くも優しくもある人が、抱える何かを垣間見ることが出来た気がした夜だった。もっと自分がうまく接することが出来たら、もっと深く知ることが出来た筈なのに。
今、怒っている理由だってすぐに分かったかもしれない。自分だって、青木のように一緒に居るだけでホッとする存在でありたいのに。怒らせているだけじゃないか。真逆だ。それとも聞けば教えてくれるんだろうか。さらに怒りそうな予感しかしないけれど。
多分、心配してくれて、それで怒っているんだろうとは思う。鳥口がそう言うんだから、そうなんだろう。だけど怒り過ぎだ。大体、なんだかんだで怪我が多いのはそっちの方じゃないか。こっちは一応無傷だ。こっちばかり怒られるのは納得がいかない。青木の心配なら、口には出さないだけでいつもしている。それで怒ったことなんてないのに。
ゆっくりと顔をあげた。
「…っ。どうしたら…」
怒った青木の顔を見て、視界がさらに滲む。悔し涙だ、と自分に言い訳をする。
「…どうしたら許してくれるんだって、そればっかり考えてますよ。ここ最近ずっと。良いですか、これで。正直に言いましたよ、僕は」
泣き喚くなんて、さらに嫌われてしまうに決まっているのに、やらかした自分が情けない。深酒をしているせいで感情に抑制もきかない。
これ以上見苦しい自分を見せたくなくて厠へと席を立った。酔いが足にまでまわっていた。
そこから後の記憶が抜けている。目を覚ました時には、青木に背負われていた。
何が起きているのか分からず、きょろきょろと辺りを見回すと青木の下宿近くの景色だった。
「…起きたかい?」
「えぇ、えっと、すみません。降ります、歩きます」
「いいよ、どうせあと少しだし」
青木の顔を見るのは怖かったけれど、声はもう怒ってはいなかった。
「僕が怒り過ぎたんだ。ごめん」
後悔の滲んだその声と何故青木が謝るんだと戸惑いを覚えたけれど、今自分がしなければならないことははっきりとしていた。
ここで謝らずにいつ謝る。
首に腕を回して縋りついた。思いつくだけの理由をあげて謝った。必死に。
「心配させてすいませんでした」
「…本当に心配したんだよ」
「あと怒ってる時にふざけて、すいませんでした」
「うん。あれもかなり腹が立った」
「ちゃんと忠告は真面目に聞きます」
「僕の忠告に限らず大事だよ、それは」
青木が笑う振動が伝わってくる。それが心地好く、ぴたりと身体を密着させた。安堵が身体中を巡る。温かい。我が身を哀れむばかりで謝ることも出来ずに、失いそうになっていたものを確認する。細身にみえてがっしりとした背から伝わる心音を聞いた。
次からはきちんと謝りに行こう。そう反省する。
自然、口から言葉が出た。
「すいませんでした」
「僕もごめん」
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