君の抱いた背徳
「マスヤマならいないぞ」
探偵事務所に入るなり開口一番そう言われて、青木は苦笑した。他の用事で来たかもしれないではないか、と言いたくなるが、事実益田を迎えに来ていたから、これはもう、ぐうの音も出ない。
榎木津は青木の方には視線を向けてこないまま大きな机に足を乗せた姿勢で、カップを傾け何かを飲んでいる。部屋に僅かに残る香りからして珈琲だろう。
「そうなんですか。あの、ソファに座って益田くんを待っていても構いませんか?今日は鳥口くんと三人で飲みに行く約束なんですよ」
「ふーん」
生返事を寄越す榎木津は、カップを机の上のソーサーに置いて新聞を大きく広げてしまったので、顔がまったく見えない。だが、何も言われなかったということは、良いということなのだろうとなんとなく当たりをつけて、青木は着ていた外套を畳んでソファへと座った。
夕陽が射し込んだ探偵社は、穏やかな橙色に包まれていた。探偵と書かれた三角錐が光を反射させる。風はもう冷たくなっていたけれど、日差しはまだ少し暖かい。
ゆっくりと視線を探偵の方へと向けた。
この事務所で榎木津と二人きりというのは初めてで、さて何を話したものかと悩む。自分から世間話の話題を振ったことがないということに今更ながらに気づかされた。
どうも自分は安和や益田が何かを話している所に混ざっていただけだったらしい。そういえば安和はどうしたのかと事務所の中を見回してみたが、炊事場から音も聞こえない。
「安和くんも居ないようですが、どうしたんです?」
「覚えてないね」
「…そうですか」
自信に満ちた声とは真逆な答えに茶々を入れてみたくなったが自粛した。
そのうちに榎木津は新聞で視界を遮るだけではなく、長い脚を床に下ろすと、椅子をくるりと回す。もう青木の位置からは、椅子からはみでている栗色の髪しか見えなくなってしまった。他に話も思い付かず黙っていると、そのまま沈黙が続く。嫌な沈黙ではなかったが、この事務所に居て静かだったことがないせいか、妙に落ち着かない。
榎木津がこちらの顔を見るのを避けるような様子が連続していることに、はたと気がついたのはその時だった。
何か不快にさせてしまったのでは、と考えると心当たりもない訳でもないのがまた悪い。一番の有力候補は自分が、益田を迎えに何度も当然のように事務所を訪れているということだ。
この緩い空気感ではあるが、一応事務所だ。私事を持ち込み過ぎてやしないか。
極力待ち合わせを外にすることを避けるのは、益田が遅れて酷く心配した日の想いまで思い出されて、もう待つくらいなら自分から行く、という下らない理由なのが、またどうしようもない。自分が榎木津の立場であるなら迷惑だと感じるだろう。
それにこの事務所だけでは知らぬうちに互いにあまり遠慮せず振舞っていたけれど、そもそも男二人で何をしょっちゅう一緒に居るのかと思われている可能性もある。
「榎木津さん、すみませんでした」
自身の行いを省みて青木が謝ると、はぁ?と不思議そうな声が返ってきた。顔をあげると、また正面へと椅子をくるりと回してくる榎木津と目があった。その表情には呆れに似たものさえ混じる。
「何をいきなり謝ってるんだ?バカオロカのオロカが移ったのか?」
のんびりとした声でコケシオロカめと言いながら新聞が机に置かれて、紙の擦れる音をたてた。
「僕はそのコケシ顔を見飽きてるだけだ。マスヤマを見るたび、こっちまで毎日視界がコケシ祭りなんだぞ。そうだ、その詫びとして何か面白いことをしろ」
悠然と前に向き直った椅子から榎木津がまっすぐ指を差してくるのを青木は事態を飲み込めぬまま見た。
―――コケシ祭り?
頭の中が疑問符で埋め尽くされたが、ゆっくりと考える。
コケシというのは僕のことだろう。で、榎木津さんに見える記憶というのは、その時相手が頭に思い浮かべているものが大半だという印象がある。その榎木津さんが益田くんを毎日見るたびに僕が見えるというのは。
それはつまり益田くんが―――。
笑みがこぼれてくるのを止められず、青木は口元を手で覆った。
「…面白いことは出来ませんが、次に来るときには美味い酒を持ってきますよ」
そりゃあ良い、と言って榎木津が笑って手を叩く。
「ついでに豆腐男も連れてこい」
「えぇ、わかりました」
目の前の麗人は、どこまで自分と益田の関係を知っているのだろうかとふと気になったが、つんと顎を反らして青木を見やる視線は愉しげであったので、聞くのをやめた。
背後でカランと扉の音が鳴った。どちらかが帰ってきたらしい。
息をきらしているから、きっと彼の方だ。
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