どこまでも飛んでいこうか(1)
やっぱり聞いてみようか。
青木が再びそう思ったのは事件が終わった後、県警の仮眠室に向かおうとする自分に「僕も仮眠室に忘れ物がないか確認しに行きます」と言って益田がついてきた時だった。
益田と関口のいたという予備の仮眠室は、鉄格子がついていないだけで留置場にしか見えなかった。だが二人きりになれるなら何処でも良いのが本音で。
身を寄せてきた身体を久しぶりに抱き締めると気持ちが和らいだ。疲れが溶けていく。益田の髪、首、背と上から順に手を這わせて細い体に触れた。言葉も交わさずに、ただ抱き合っていたのは時間にすれば短かったのだろうが随分長く感じた。深い息がふぅと吐き出されるのを聞く。腕の中の身体から力が抜けていくのを支えながら、その首筋へと軽く歯をたてて吸った。
昨日は風呂に入ってないからやめてください、と小さく異議を唱える唇を塞ぐ。
だが、そうした密やかな時間は、益田が突然青木の腕を振りほどいたことで途切れ、そしてその理由はすぐに知れた。扉の向こうに廊下を歩く、カツカツと鳴り響く足音が聞こえる。近づくにつれて大きくなるその音を二人立ちつくした状態で聞いた。
足音が部屋の前をとっくに通りすぎて行っても、じっと耳をすまして警戒を続ける彼には、それを笑うことすら咎める、ピンと張りつめた気配が漂っていた。
「…もう大丈夫だから、こっちに来なよ」
空気を変えたくなって、青木は靴を脱ぎ、四畳しかない畳の上へと上がった。そのまま二人突っ立っていても仕方がない。壁に凭れて座り、手招きする。気をまわしすぎるなと言っても彼には無意味だから、ただ微笑んだ。
益田は外を気にして、しばらく迷っていたようだった。それでも結局互いの腕が触れあうほど寄り添って座ってくるものだから。
前髪は長い癖に後ろ髪はきちんと切った頭に左手を廻して抱き寄せた。
勝った、と思った。周囲の目をあまりに気にする益田の臆病さに。
それに、部屋に来てからも、益田には忘れ物がないか確かめるような仕草が一切ない。やはりあれは自分についてくるための言い訳だったのかと思うと笑みがこぼれた。いつだって詰めが甘い。
そこで湧きあがった感情が、もう一度、やっぱり聞いてみようと思わせた。
「そういえばさ、君、沈んでたろ」
なんでもないことのように装う。真剣に訊ねるよりもそうした方がいいのは既に学んでいた。
捜査の最中、中禅寺宅で益田がいつもの調子じゃないと偶然聞いていたのに、会わず仕舞いであったことが頭の隅でずっと気にかかっていた。昨日顔を合わせてからも本調子ではないのが伝わってきた分、余計に。なんとかしてやりたいと思いながらも捜査に手一杯になっている間に、益田はいきなり調子を取り戻していた。
何故沈んでいたのか気になる。調子を取り戻したあとだから、これはもうただの詮索なのだけれど。
「事件の間くらい大人しくしてますよ、僕だって」
「その割には、途中からいつもの調子を取り戻せてたじゃないか。いきなり調子良く話し出したから、びっくりしたよ」
問いから逃れようとするのを捕まえる。それでも益田は黙ったままであったから、青木もそれ以上重ねて聞くのはやめにして、でも待った。
「…榎木津さんがね、言ってくれたんです。分相応のことをしろって」
しばらくしてから、ぽつりと呟かれた声は、素直なものだった。
「だから僕ァこそこそ卑屈に適当なことをすることにしたんです。それだけですよ」
さっぱりとした口調で、それだけです、ともう一度言って益田が体重を預けてくる。その重みは信頼へと直結しているような気がする。手を伸ばせば届くところどころか、こんなにも近くに居る。
笑ってくれればそれでいい、なんて思えた瞬間が過去にはあったなんて、今では驚きだ。欲望に際限がない。何もかも全てを手に入れたかった。自分勝手だと分かっていても。
何故沈んでいたのかは分からないが、元気になった理由は知れた。内面に関わる話を中々してくれない彼が、迷いつつも話してくれたことが嬉しい。
だが、それだけでは満足出来ない自分がいた。
榎木津が羨ましかった。益田にさっぱりと語らせるまでに救い上げる、その力と余裕が。自分には出来なかったことを、いとも簡単にしてしまう。そりゃあ弟子入りしたくもなるというものだ。
「…敵わないなぁ、榎木津さんには」
溜め息と一緒になって本音が転がり出る。
「えぇ?嫉妬ですか、青木さん」
「…まぁ、少しはね」
揶揄する声にも正直に答えると、益田が瞠目しながら真意を疑うように見てくるものだから。
なんだか、自分ばかりが好きでいるような錯覚に陥った。
――――案外、的外れな考えでもないかもしれないな。
そんなことを考えるのは疲れてるせいだ。
そう自分に言い聞かせる。
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