息が、つまる、感覚(2)
「それにしても律儀ですねぇ、青木さんは」
探偵社へと続く階段を先に上る益田が振り向いてきて言う。
「暇だからね」
揶揄するようでいて、どこか嬉しそうな声に、いつかと同じような言葉を軽く返すに留める。安和らに西瓜の礼を、という名目で、事務所へ帰る益田と行動をともにしていた。君と少しでも長く一緒に居たいのだと正直に言えば、どんな顔をするのだろう、とふと思う。
「いや、それにしたって余り物のお裾分けですよ?押しかけといてなんですけど、非番だったら、他にやらなきゃいけないこともあるでしょうに」
益田が笑みを深める。その男にしては長い睫だとか、少しのぞく八重歯だとか。そんなものにも目を奪われてしまう。
「いくら非番といってもさ、明日なんか早番だし、大したことは何も出来ないよ」
「時間が不規則ですからねぇ、公僕は」
なんだか後ろめたくなってきて言い訳じみた言葉を重ねると、階段をまた上りながら益田が適当な調子の相槌をうってくる。
どこか距離を感じさせるその調子が今日は特にもどかしく感じる。軽口を叩きあうだけの関係でいることに満足できない。だが踏み込みすぎて距離をさらに広げるのはもっと嫌だった。
せめて物理的な距離くらいは詰めようか、と階段をさっさと上がって益田に並んで横顔を見ながら軽口を返した。結局いつも通りに。
「君だって警官だった癖に、他人事だなぁ」
「今は探偵助手ですから、そりゃあ他人事は他人事ですよ」
ケケケと笑う声にわざとらしい溜め息をついてやる。もっと、ちゃんと笑ってほしい。
「まぁまぁ、青木さん。いいじゃないですか。溜め息なんかつかなくても。砕けた西瓜を食べたことで今日は我慢しときましょうよ」
願いが通じたのかなんなのか、益田が大切なものでも眺めるかのように目を細め、下を向いて微笑んだ。
その笑みが自分に向けられたものなら、どんなに良いだろう。一緒に食べた、そのことに対するものであったのなら。
気づけば手が伸びていた。尖った細い顎をとらえる。
こっちを見てほしい。その笑顔のままで。
けれどこちらを向かせた途端に笑顔が驚いた顔へと変わる。
そりゃそうだという思いと残念に思うのが混ざり合う。そのまま顔を近づけた。最初からそのつもりだった訳じゃない。だけど、そんなのは言い訳にしかならない。微動だにしない益田の薄い唇に唇を重ねてから、ゆっくりと顔を離す。そうして逃げるようにドアノブへと手をかけて引く。小さく鐘が鳴る。
「…青木さん」
切れ長の目をいっぱいに見開いて、名を呼んで寄越してくる姿に胸が軋む。こんなことする筈がないと思われていたのを裏切った罪悪感と後悔でいっぱいになった。
「なんですか、今のは、…僕は」
益田がさらに何かを言いかけた時、既に少し開けていた探偵事務所の扉が内から開くのを感じて青木は後ろへと数歩下がった。
「どうしたんだね、益田くん。そんなところに突っ立って。あぁ、青木さんでしたか。こりゃどうも」
「…西瓜を有難うごさいました。そのお礼が言いたくて伺ったんです」
扉を開けた安和に挨拶をしながら益田を横目で見れば、呆然としている。友人だと思っていた男に不意討ちを食らえば、そうなるだろう。自分なら、と想像もしたくない状況だ。
「それでは、僕はこれで」
安和に一礼をしてから背を向けて、上がってきたばかりの階段を下りていく。益田の視線を感じたけれど、振り返りはしなかった。
逃げている。その自覚は大いにあった。卑怯だなんだと自称する彼よりも、己の方がよっぽど卑怯だ。
――――やってしまった。
呆然とした表情が短い間に何度も脳裏に甦る。謝ったところで仕方がないが、謝るために振り返ろうとした時。
「じゃあ、青木さん。また今度」
益田の軽い声が踊り場から降ってきた。彼の中では大したことではないのか、と思うとそれはそれで遣る瀬無くなってきて、言葉を返さずに階段をそのまま降り続けた。
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タイトルは「彼女の為に泣いた」様からお借りしました。
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