92.近づく(銀千) | |
千歳はんは、不思議な人だ。 誰にでも笑いかけるのに、誰にも心を開いていない。 もちろん、ワシも例外ではないだろう。 「おっ、師範今日も早かねぇ」 朝練が始まる一時間前。 誰もいない部室で着替えを済ましたと同時に、いつものこの時間帯には珍しい人物の声がした。 静かに振り返れば、扉に凭れている千歳はんがいた。 「今日も…ってことは、いつもこの時間に来とるんか」 「いや、たまーに」 「ほんならたまにでも、朝練に来いや。ワシらは千歳はんのこと待っとる。 千歳はんと一緒にテニスしたいんや」 この人には、朝練に来いと言葉だけを伝えるんじゃなくてその裏側にある意味も、教えないといけない。 多分、未だに自分はここにいるべきではない…とでも思っているんだろう。 彼はそう思っていても、他のみんなはそうじゃない。 みんな素直に言えなくて、すれ違ってしまっているだけなんや。 「師範が、そう言ってくれるなら…」 少し目を細めて微笑む。 その表情だって、本心からくるものなのか分からない。 「千歳はん」 「なん?」 「ワシは、いつだって千歳はんのことを仲間やと思うとるからな」 ぱたんとロッカーを閉めて彼がいる扉へと歩き出す。 通りすぎる時に少しだけ顔を伺ったら、驚いて目を見開いていた。 みんなして、とんだ片想いや。 だけど、ワシにとってのそれは寂しくて、切なくて、それでいて少しだけ、心のどこかで安心していたと思う。自分も含めて、他の誰も彼と心を通じあっていなかったことに対して。 (せやけど、これでも十分や) コートへと向かう足を早める。 本当は、ちょっとだけ恥ずかしかった。 自分は、二人きりであんなことを正面きって言ってしまったのだ。あとからジワジワと湧いてくる、よく分からない感情に混乱しながらも、逃げるように去ってしまった。 「………師範!」 「……っ」 もう大分離れてしまった後ろにいる彼に、名前を呼ばれ思わず立ち止まってしまう。 躊躇いながら振り返ってみれば、遠くてあまりよく見えなかったが、千歳はんは笑っていた。 「師範、さんきゅっ」 それだけを言って、彼は部室へと入っていった。 近づく (ほんの少しでも、誰も知らなかったその心に) 130328 |