忍足/君の始まり。僕の終わり。2
「名無し」
「榊先生」
音楽の授業が終わり、教室に戻ろうとしていると名無しは榊に呼び止められた。
「なんですか?」
「部活で皆それぞれ目標設定をしただろう」
「はい」
大会が近くなり氷帝テニス部一団となるため、すべての部員が目標設定をしたのだ。
マネージャーの私ももちろん書いた。
全国制覇。
それが中学生の頃からの夢だった。
頑張るみんなをサポートして日本一になりたい。
今年は高校3年生。
このメンバーでやれるのも最後かもしれない。
だから、私は自分の出来る限りのことをやる。
「その用紙を忍足だけ取りに来ていないんだ。悪いが、今日中に渡して明日提出するように言っておいてくれ」
今日は部活がない日。
ということは、自分から会いに行かなくてはならない。
これはマネージャーとしての仕事。
公私混同はもってのほか。
「はい、わかりました」
一人、教室への道を辿る。
「大丈夫」
その言葉を自分に言い聞かせるように口にした。
放課後になると騒がしかった教室も生徒が一人、また一人と出て行き、最後に名無しだけが残った。
机の上には、鞄と用紙。
ずっと自分の席から立ち上がることができない。
ただ、用紙を渡すだけ。
言葉を交わすことをしなくても通じる。
だけど、会うのが怖い。
部活ではいつも同じ空間に居るのに、どうしてみんながいないと怖くなっちゃうんだろう。
付き合い始めた頃は違った。
毎日が楽しかった。
学校に行けば侑士に会える。
部活に行けば侑士に会える。
私の中は、あの時から侑士が中心に周っていたのに。
「どうしてこうなっちゃったんだろう」
突然、後ろ側のドアが開いた。
「あら、名無しさん。まだいらっしゃったの?」
入ってきたのは、同じクラスの海老原美穂。
その傍らには腕を組んで佇む侑士の姿が。
「あまりにも存在感がないものだから」
ごめんなさいね、と言ってグロスで艶やかな口元を綺麗に上げて笑う。
誰が見ても美しい彼女。
二人並ぶと壮観。
彼女こそが彼の隣に相応しい。
「名無し、先に帰ってろ言うたはずやけど」
「わ、わかってる…けど、渡すものがあって…」
机の上に置いていた用紙を差し出す。
忍足は乱暴に紙を引ったくり、さっと目を通すとブレザーのポケットに突っ込んだ。
名無しは早くこの場を立ち去りたくて、鞄を肩に引っ掛け二人の横を通り抜けようとした。
しかし、美穂と肩がぶつかり、倒れそうになった体を支えようとして近くにあった机に手をかけると、大きな音を立てて倒してしまった。
「相変わらずね、名無しさん。その鈍い態度が苛立つわ。ねぇ、侑士?」
「そやなぁ」
「早くこんな子と別れちゃってよ」
「お前が言う『こんな子』と付き合うのも一興やろ?」
「私も彼女の一人でしょ?」
「当たり前や」
「ふふっ、侑士ったら」
そんな会話を聞き流しながら、倒れた机や椅子を直していく。
とにかくここから立ち去りたい。
床に膝をつき散らばった鞄の中身をかき集めていると、制服の中に隠していたネックレスのトップがスッと出てきてしまった。
「そのネックレス、名無しさんには似合わないわ」
「え…?」
「あなた、ぱっとしないし地味な人だから、そういう高価で重々しいアクセサリーのは似合わないと思うの」
「だから私が貰ってあげる」
「そ、そんな!」
「私の方がつけられるアクセサリーも喜ぶわ」
「こないだ、明美さんにブレスレットあげてたじゃない」
明美とは、美穂といつも一緒にいる取り巻きだ。
このあいだ、たまたま学校につけてきたブレスレットを明美に目をつけられ、同じように似合わないと言われ、半ば無理やり取られてしまったのだ。
しかし、明美は今までそのブレスレットをつけてきたことはないし、もしかしたら捨てられたかもしれない。
「明美さんはよくて私はダメなのかしら?」
「…、…め」
「なにかしら。はっきりとおっしゃってくださる?」
「これは、だめ!あげられない!」
これだけは、離したくない。
「侑士も言ってやってよ、この馬鹿な子に。似合ってないから私に譲るように」
美穂は腕を組んで名無しを見下ろす。
「美穂の言うとおりや。お前には似合ってない。ネックレスが可哀相や」
机に腰をかけて気だるそうに言う。
「さっさと渡し」
「……侑士が、…」
「は?」
「覚えてないの…?」
「……ウザったい奴やなぁ」
怖くて顔を上げられない。
怒らせたくない。
苛立たせたくない。
だから、なるべく怒らせないように、苛立たせないように、気をつけてきたはずなのに。
「何とか言いなさいよ」
美穂は足でバンッと大きな音を立てる。
「わ、私が明美さんにあげたブレスレットは…」
その音にびくつきながらも、名無しは一生懸命言葉を紡ぐ。
「……あのブレスレットは、兄さんから私への、最後の誕生日プレゼントだった」
名無しの兄は、一年前にトラックの飲酒運転が原因の交通事故で亡くなっていた。
その数日後が名無しの誕生日で、プレゼントを買いに行った帰りに事故にあったのだ。
「だけど、これはそれ以上に大切なものだから渡せない」
名無しは胸元のネックレスを握り締めながら言った。
静かだがその瞳はゆらゆらと揺れ、怒りが滲み出ていた。
「名無しさんにしては、随分強気な態度ね」
フッと嘲笑い、綺麗に巻かれた髪を指にくるくると巻きつける。
「自分で外せないなら、私が外してあげる」
美穂は名無しの髪を容赦なく引っ張る。
「や、やめっ…!」
あまりの痛さに名無しは頭を抑える。
その隙に美穂はペンダントに手をかけた。
「大人しくなさい!」
「いやあぁ!」
名無しはなんとか逃げようとして手足をバタバタと激しく動かす。
美穂も負けじと名無しを押さえつけようとして、長い爪が名無しの肌を引っ掻きまわす。
「ええ加減にしい、美穂」
抑揚のない冷静な声が響く。
「そないなもん、なんぼでもわいが買うたる。それに、こいつのお古なんていらんやろ」
「……それもそうね、侑士。見苦しいところを見せてごめんなさい」
さっきとは打って変わって、興奮して振り乱した髪を指で梳かし整える。
机に腰を下ろした忍足に近づき、肩に手を置きながら口づけをする。
そして腕に猫のように擦り寄り、名無しに自慢げに見せ付ける。
名無しはどうすることもできない。
私は侑士の彼女じゃなかったの?
その手で、その唇で、愛してるって言ってくれたのはあなたでしょう?
なんでいつも隣にいるのは私じゃないの?
今、あなたの瞳には誰が映っていますか?
「……っ、侑士!」
苦しむだけの恋ならもういらないから、この柵から私を解放してください。
もう何もいらないから。
もう何も求めないから。
「侑士!」
名無しは震える声を必死に張り上げて忍足を呼び止める。
「……なんやねん」
「これは、侑士しか外せない」
覚えてないかもしれないけど、侑士がこれをくれたんだよ?
「捨てるなら、侑士が捨てて」
忍足は何故そんなことを名無しが言うのかわからないように、眉間に皺を寄せた。
「そんなに言うならやってあげたら?」
「……」
美穂の腕はねっとりと腕に絡みついている。
それを振り払って名無しの前に立った。
名無しの真っすぐで縋るような目に、今度は忍足が目をそらしてしまった。
そのまま手を首に回してネックレスの止め具を取ろうとして途中で辞めた。
忍足はチェーンに指を引っ掛かると一気に引きちぎる。
「……ありがとう……助けてくれて」
そう言った名無しの表情は読み取れない。
名無しは手の平をすっと差し出した。
忍足は無残な姿になってしまったそれを上から乗せようとしたが、手の平を擦り抜けて床に落下してしまった。
名無しはそれを気にせずに、足取り軽く教室を出て行く。
「なんなの?あの子」
忍足は床に散らばったネックレスをただ見つめることしか出来なかった。
END
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