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54
 涼宮が逃げた。

「え? 涼宮さん?」
「悪い、俺と涼宮の荷物に頼んだ!」
「てか伊月?! おい!」
「日向! 先生に適当に言っといて!」

 ここで涼宮を逃がしちゃいけない。走り込みしている運動部をなめるな。バスケや自主練以外で全速力で走るなんて、久しぶりだ。

 涼宮の逃げ足は速い。でもそれは瞬発力だけで、持久力があるわけじゃない。ましてや運動部でもない。

 屋上のドアを抜けたところで彼女が1つ下の階の階段を降りきったのが見えた。2段飛びで追いかける。手を伸ばして、次の階段を降りて廊下へと足を進める涼宮の右手を捕まえた。
 振り返った涼宮は、泣きそうだった。本当、俺は彼女にこんな表情ばかりさせている。

「……なんっでっ……はぁっ」
「そりゃ涼宮さんが逃げるから。――ハイ、ストップ」

 納得していません、と顔に書いてあるけれども、黙って俺を見上げる涼宮。彼女の右手をつかんだまま、下りたばかりの階段をゆっくりと上る。涼宮は息が上がっていて、頬が赤い。

「さっきは悪乗りしてごめんね」
「……わす、れてっ」

 忘れられるわけないけど、正直にそう返すのは涼宮をいじめすぎることになるかな。そのまま階段の裏手の陰になっている空きスペースに涼宮を引っ張り込んで、彼女の方を振り返った。
 一旦涼宮の手を放して、両手でそれぞれ彼女の手を取る。廊下の窓ガラスから差し込む光が、涼宮だけを照らしていた。階段が作る影に立つ俺には、少しだけ、まぶしい。

 こうして涼宮の手をちゃんと握ったのは、これがたぶん、初めてだ。俺より体温の低い手。柔らかくて、白くて、細い手。俺はこの手を、放したくない。

「逃げるのはしょうがないとして、バスケ部のこと、考えてくれた?」

 涼宮に拒絶されたらと思うと返事を聞くことを先延ばしにしたくなる。きっと俺のお願いなら、彼女が聞いてくれることがわかっていても。逃げたとして、それが拒否じゃないとわかっていても。

「嫌?」
「……じゃなくて、」

 俺から視線を外して、言葉を探しているようだった。人見知りだとか、逃げることだとか、そういったことが理由でマネージャーが務まらないとか、うまくいかなかったらどうしようとか考えているんだろう。

 涼宮の手を握りなおす。涼宮のテンパりも人見知りも、俺だけじゃない、バスケ部全員が知っている。毎日顔を合わせているんだ。気付かないわけがない。

「何考えてたか、当てようか」
「……え?」
「人見知りのこと、気にしてただろ?」

 息を飲み、目を丸くする彼女の表情を見るに、図星だったようだ。彼女が転校してきてからたった1カ月半。涼宮との日々を思い出す。短い期間だけど、彼女を知るには十分足りる。

「何かをするときに必要な情報や物事を洗い出す。その障害も、対策も。そして優先順位を付ける。そういう能力が今うちの部で必要なんだ」
「急に、言われたって」
「だれでもできることじゃない。正直カントク一人だとそこまで手が回っていない」
「だけど……!」
「人間一人でできることって、限界があるだろ。なあ、お願いだよ、涼宮さん」

 事の重要性を、きっと涼宮は理解している。だからこそ余計に首を縦に振らないんだろう。すぐに頷かない、その慎重さを知っているからお願いしているのに。
 どうしたら、俺の言葉を信じてくれる?

「できるだろ、涼宮さんなら。本当はいつだってすぐ逃げたいのに、俺にちゃんと気持ちを伝えてくれた。今だって、こうして聞いてくれている」
「買いかぶりすぎ、だよ」
「何も最初から完璧じゃなくたっていい。ただ、支えてほしいんだよ。日本一を目指す、俺たちのチームを」

 発破をかけたってそれは涼宮には意味が無いのは知っているけど、これが俺の本心だ。それに涼宮は、ひいき目なしに今うちの部で必要な能力を持っている。

 それでも首を縦に降らない涼宮に無意識のうちに詰めていた息を吐き出す。俺も、腹をくくるしかない。とっくに分かっていたはずだ。涼宮を部活に入れようとしたら、外堀を埋めて、それでも上手くいかなかったら、こうなることぐらい。元から、もう後には戻れないんだ。

 ……わかってるさ。この後甘い言葉でお願いすれば、涼宮がきっと、頷くだろうことも。俺は、涼宮が欲しい。俺個人としてだけじゃない。バスケ部の副キャプテンとしても、彼女の能力が必要だ。

「涼宮さんと出会ってから1カ月半経つね……。今まで一度でも、俺が涼宮さんに対して、嘘ついたことあった?」
「……うん」
「今まで一度でも、俺が涼宮さんに対して、無理な後押しをしたことあった?」

 涼宮が首を振る。涼宮が俺と近しい感情を俺に対して持っているのも知っているし、涼宮が押しに弱くて、特に俺のお願いに弱く、俺の目を細めた表情に弱いことを、知ってる。全部、知ってる。

「実現不可能なことを言ったことは?」
「……ない」
「じゃあ、俺が嘘をついたことは?」
「……無かった。一度だって」
「実現不可能なことを言ったことは?」
「じゃあ、それでいいだろ。俺を信じて頷いてよ」

 涼宮が目を見開いた。信じられないという顔をしている。だけど、知っている。本当は彼女が、誰かにすがりたいぐらい、弱い部分があること。

「―――上手くいかなかったら、俺のせいってことにすればいい」

 相変わらず自然光に照らされた涼宮はまぶしすぎて、つないだ手を引っ張った。たたらを踏んだ涼宮をぐっと引き寄せる。先ほどまでは1メートルほどあった涼宮との距離が、半分ほどになった。そのまま彼女の手を、俺の手ごと俺の頬に沿わせる。

「俺を見て」

 泣きそうな顔で俺を見上げた涼宮は、俺と同じく、階段の陰に立っていた。
 涼宮が欲しがるものはあげられない。それでも俺と同じところまで落ちてきてほしいと思うことをやめられない。
 もう、逃したくない。


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