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26
 声をかけよう、と、思いを新たにしたところで、それまでノートに向けられていた女子生徒の顔が上がった。そこに浮かんでいた表情に驚く。それまでの険しい表情から想像もつかないほど、彼女はきれいに笑っていた。とても優しげに。花が咲くように。

「え……あれ……うそ、だろ」

 彼女に近づこうとしていた足が思わず止まる。俺のダジャレに対して、そんな反応はいままで無かった。
 どこのクラスの子だろう。
 どのダジャレで、笑ってくれたのだろう。

 やはり彼女に声をかけよう。さっきまでとは、理由は少々異なるが。再び視線を下げ、ネタ帳に目を通しているらしい彼女に向けて歩き出したが、ノートを閉じた彼女の表情を目に入れた瞬間、俺は再び足を止めることになった。

 えもいわれぬ感覚に身体が支配される。小指の先だって、動かせそうにない。視界が無くなって、たった今目にした彼女の表情だけが、目に焼き付いているような。

 なんだ、今の。
 どうして、そんな顔ができるんだ。

 不穏な目で校舎を睨んだかと思えば、俺のネタ帳を見て笑って、そして、再びネタ帳に視線を落としたかと思えば、―――今は、安心しきったような、穏やかな表情を浮かべている。
 先ほどまでの険しい表情からは想像できない、柔和な笑み。

 そんな安堵の表情を見せる女子を俺は見たことが無かった。
 今まで度々ダジャレを披露してきて、俺のダジャレでだれかを笑顔にできたら、とは思っていた。家族以外で、俺が好きなものを、共に好きだと言ってくれる人がいれば、と。
 ダジャレに対して、家族とのネタの披露でも、日向たちのようなツッコミでも、クラスメイトのスルーでもなく。

 今まで閃いた数々のネタが頭をよぎる。あのときも。あのときも。

「そう、か」

 漠然と、理解した。名も知らぬ女子生徒の安心しきったような表情を見て、やっと。俺がダジャレを言ったときに求めていたものは、ああいう反応だったんだと。

 ああ、今度、ぜひとも俺のダジャレを生で聞いてもらいたい。いや、まず感想を聞くのが先か。
 どこのクラスの子だろう―――と、声をかけようとして、目的の人物がいないことに気がついた。視界の情報を処理できないぐらい、気を取られていたらしい。

 声をかけ損なったことは残念だが、誠凛の生徒なのだから学内にいるはずだ。この時間から学校にいるのなら、朝練が盛んな部に所属しているのかもしれない。朝練の前後に探してみれば、会えるだろう。

 ネタ帳を無くしたことに気づいたときとは正反対の気分だ。日向あたりに自慢してみようか。いや、誰かに話してしまうのはもったいない気もするな。

 軽い足取りで体育館に戻る。今ならどんなハードな練習だって出来そうな気分だ。

---


 ふわふわとした気持ちで部室に戻る。手早く着替えを済ませ、未だ弾む心を押さえられないまま体育館に入った俺を待ち受けていたのは、青筋をたてたカントクだった。

「伊月君遅い!」
「ああ。カントク、皆、遅れて悪い!」
「伊月君ネタ帳探しに行ったって聞いたわよ?それで練習に遅れるって、どういうことかしら···?」

 アップをしていたはずが、気付けばカントクにジリジリと壁際に追いやられている。他の部員が体育館内を動き回って派手な音をたてているのとは反対に、俺とカントクの間は静かだ。日向たちがちらちらとこちらを気にしている。
 大丈夫だぞ日向。腕をならしているカントクから壁ドン一歩手前な状況にされているが、空気は甘いどころか絶対零度だ。カントクの後ろに般若が見えるだろ。

 それでも。
 それでも、朝練前にネタ帳を探しに行って良かったと思ってしまうのだから、救いようがない。バスケ部としての俺が、俺を責め立てているのに。試合で泣くことになるぞ、と。もうあんな思いをするのはいやだろう、と。
 バスケより大事なものは、今の俺には無いはずなのに。

「全体の練習に支障をきたすようなことをして、本当に悪かった」
「……反省しているようだから、きつくは言わないわ。気の緩みが試合で泣く一点になるの、分かってるでしょ」
「ああ、」
「だからまあ……今回は、特別に、朝練の間に個人メニュー1.5倍だけでいいわ。わかったらゴー!」
「え、今?! 終わらな……ハイ」

 関節をならしながら俺の台詞を復唱するカントクに黙って頷いた。


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