壊れてそして | ナノ
■ 焼き付いて離れない

平日の木曜日、天気は曇り。雨が降ると困るので、春瀬はお気に入りの薄紫色の傘を持って歩いていた。さすが雨季なだけあって、湿度が高い。雨といえば、そういえばハットを被ったスーツ姿の男性が雨に打たれながら楽しそうに歌っている昔の映画があったなぁなんてぼんやり思い出す。だからといって自分がそれをやってみたいと思ったわけではないのだが。それにしてもあれは誰と見たんだっけかと思い出そうとすると、目当ての花屋を通り過ぎようとして慌てて戻る。菊やグラジオラス等を小さくまとめた花束を買う。毎年いつも顔を合わせるこの花屋の店主とも、すっかり顔馴染みになった。いつもと変わらない丁寧な対応で美しくまとめれた花束を手渡される。春瀬が今いる場所、ここは、彼女が住んでるアパートから少し離れた街、そして一年に一度は訪れる懐かしい街、
ーー小学四年生まで、春瀬が生まれ育った街。
物思いに耽りながらしばらく歩くと、お寺のすぐ横に密集して立っている墓達が目に付く。住職に挨拶をし、慣れたように自分の目的の元へ進み、貴田家という文字が刻まれた墓前で足を止めた。そしてゆっくりと膝を降り、微笑む。
「来たよ、お母さん。」
今日は彼女の母親の、8年目の命日だった。

墓を綺麗に掃除して、買ってきた花を飾る。「ちょっとちょっと〜他のどの墓よりもピカピカになったんじゃないの〜?ねぇ?」
ふふと笑いながら再度しゃがんでゆっくりと瞼を閉じ、両手を合わせて、色んな話をした。

家に着いて風呂から出ると、空からゴロゴロと音がしてこれは一雨くるなと溜息をつく。通りで偏頭痛が始まっているわけだと棚の中から常備してある頭痛薬を出し、二錠、水と一緒に流し込んでソファに横になった。まだ夕方にもなっていないというのに薄暗いこの感じ。今頃学校で何してるんだろう、今日も来てくれるのかななんて考えたところで、ズキズキと痛む頭に耐えきれず、彼女は目を閉じた。


私のお母さんはいつも朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってきた。いくらかお金をテーブルの上に置いて、寝ている私に行ってくるねと声をかける日と何も言わないで出る日があって。私は声をかけられた日は密かにラッキーディと呼んでいた。学校に行く時にはお母さんとかお婆ちゃんとか、誰かと一緒に登校する子達をよく見かけた。羨ましかったけど私のお母さんは私を育てる為に平日も土日もいっぱい一生懸命働いてくれているんだから、羨ましいって言葉は禁句だなって思ってた。学校から帰ると、カバンを置いて夜ご飯のお弁当を買いに行った。でもたまに自分で作ってみたりもした。前まではお母さんのも作ってたけど、仕事場で食べるから作らないで大丈夫だよって言われたから、それ以来作ってない。宿題をして、食器を洗って、洗濯物を干して、お風呂に入って、テレビを見て。いつも帰りを待とうと頑張って起きようとするけど、結局眠ってしまった。 授業で調理実習があった。作るものはハンバーグ、野菜炒め、お味噌汁。全部作ったことがあったから、私は静かにいつも通り調理していた。それがグループの子や他の子達には凄く手際が良く見えたらしくて、春瀬ちゃんすごい、と目をキラキラさせて頼られた。少し照れ臭かったけど嬉しかったし、先生にも貴田さんは将来素敵なお嫁さんになるわねって褒められた。授業が終わって、ご機嫌な私は軽い足取り。リコーダーを吹きながらアパートの階段を一段一段登っていく。自分の部屋の前に着いていつも通り鍵穴に鍵を差し込むと、あれ?って思った。開いてる。なんでだろうって恐る恐るドアを開けてみれば、お母さんのヒールがあった。もしかして今日は仕事がお休みになったのかな?夜一緒に過ごせる?そうだ、ご飯作ってあげよう、先生にも褒められたんだよってこと伝えなきゃ、あぁ、今日はなんてハッピーなんだろう!そう思って急いで靴を脱いで、ただいまって大きな声で家の中に入った。 ーーーーでも、


部活が終わって黒尾は足早に家へ帰る。彼の母親も父親も、この日だけは息子がいつもより急いで帰ってきても何も聞かない。黒尾は風呂に入って着替えた後携帯と財布と鍵を持ち、行ってくるわと軽く声をかけてまた家を出る。酷い雨だなとは思ったが、どうせすぐ向かいだ、傘は持たない。水たまりに嵌まらないように気をつけながら走り、アパートの階段を駆け上がって春瀬の部屋の前まで辿り着いた。少し上がった息を整えながら、インターホンを押す。一応合い鍵は持っているのだが、いつもすぐ開けてくれるのであまり使った例はない。しかし、今日はその例外だった。
「寝てんのかね」
ポケットに入れていたキーケースを出して、部室の鍵と自宅の鍵、そしてもう一つの鍵を差し込んで回す。ガチャリと解鍵した音が聞こえて、そのドアをゆっくり開けた。真っ暗だ。思わず少しビビってしまう。入ってすぐ横にあったスイッチを押して明かりを点ける。靴を綺麗に並べ、お邪魔しますと囁いて部屋の電気をつけながら中へと入っていく。
「………やっぱり寝てる。つか寒ぃよこの部屋」
リモコンを見ると21度の風速パワフル。まるで冷蔵庫のように冷え切っており、ソファの上で布団にくるまる彼女も寒そうにしている。温度を上げるためリモコンを操作しながら、寝ている彼女にの声をかける。
「ハル、おい」
別に寝ててもこちらとしては全然構わないのだが、一応来たという報告はしておきたい。黒尾は優しく彼女の身体を揺すり、声をかけた。
「ハル、ってうぉっ」
途端、パチと彼女の目が開く。突然開いたものだから黒尾も驚いて思わず声を上げた。
「っつぁー、ビビった……。はよーさん」
「……………」
「………寝惚けてんのか?例年通り黒尾さん、今日お前ん家に泊まりまーー」
そう言いかけて、気付く。寝惚けてるというよりは、何だか様子がおかしい。ハル?名前を呼んで布団を剥がしてやると彼女はゆっくりと身体を起こした。長い髪が顔を隠していて、黒尾が耳にかけてやると彼女は目を開けたままその視線は下に向いていた。よくみると微かに手が震えている。黒尾は立ち上がり、春瀬の身体を横抱きにする。そのままベットがある部屋に向かい彼女を降ろすと、自分も横になった。春瀬は何も言わずただ目を開いたままずっと黙っていたーーいや、ゆっくりと、深呼吸をしているようだった。黒尾は自分の左腕に彼女の頭を乗せ、右手でその身体を引き寄せた。そして背中をポンポンと優しく叩く。
外は土砂降りになっていた。窓を打ち付ける雨音が激しくなっていたし、何度かピカリと光る。雨と言えば、昔の映画で雨の中歌いながら踊る奴があったなぁと黒尾はぼんやり思い出して、自然とその歌を小さく口ずさむ。右手はずっと、春瀬の背中をトン、トン、と優しく叩く。雨の音、雷が光る音、リモコンが稼働している音、周りがそんな音に溢れてる中、黒尾の腕の中にいる春瀬の耳には彼の鼓動の音と歌声が一番大きく聞こえていた。
「……………私も今日思い出した」
初めて春瀬が口を開く。ん?と黒尾は微笑みながら彼女と目線を合わせる。
「今歌ってたやつ?」
「うん。」
「いいよなこれ。………ああそうか。誰と見たんだって思ってたら、あの映画お前と見たのか」
「あ………そっか、そうだね。」
クスクスと2人で笑う。春瀬が笑ったことに言葉には出さないものの、黒尾は少し安心する。歯ブラシしたか?と聞くとうんと一言。じゃあもうこのまま寝ようぜと彼は目を閉じる。春瀬は目の前にいる黒尾のシャツをキュッと握る。

夢を見た。人生のどの場面の中でも一番思い出したくなくて、でも一番覚えている場面。

「…………私」
「ん」
「……私本当に、本当にね、お母さんは恨んでない」
「うん」
「…………でもどうして……」
逞しい胸に、額を押し付ける。自分とは違うけど誰よりも落ち着く匂い。泣くことが出来たらどんなに楽だろうかと何度も思った。でも何故か、自分の目から涙が流れることはない。毎年母の命日に泊まりに来てくれる黒尾の存在が本当に有難かったし、いつもこういう風に過ごすわけではない。しかし今日は、今日はあの日の夢を見てしまったから。早く明日になってほしい、そう思いながら春瀬はギュッと、目を瞑った。

春瀬の寝息を確認して、黒尾は彼女の頬を撫でる。
「お母さんは、か………」
雨はまだ、止まない




ーーおかえりっていうお母さんの返事はなくて。代わりに目にしたのは、ロープが絞められているお母さんの首と、空中を浮いた足だった。
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