十二季生誕歌
*水無月『水芭蕉』*

昼間ならば徐々に暑さを増してきた時分であっても、やはり高山地帯の気温は低い。しかもこの日は生憎朝から小雨が続いていて肌寒い程だった。
今は傘を差すほどではなく、水煙のような霧雨が続く中を喜助に手を引かれて歩いていた。睫毛に溜まった水滴が、瞬きに合わせてぽたりと頬に落ちてきて、彼女はふるりを首を左右に降る。歩いてきた木の板の回りは、水と苔に覆われていて、随分と人里を離れてきたのだと知る。

「まだ先なんですか?」

「うん、もう少し」

前を歩く喜助は、一旦その脚を止めて彼女の頭に積もった水滴をぽんぽんと払うと、彼はジャケットの内ポケットから薄手の布を取り出した。「この程度の雨なら傘がわりになるデショ」とふわりと彼女の頭に被せられたのは薄手のストールだった。

「これ、貴方が持ってらしたの?」

一枚あると便利なストールをいくつも持ってはいるが、その中でもお気に入りのもので、彼女が朝から探していたものであった。

「私、ずっと探してたのに。預かってるなら預かってるってちゃんと話してください。それでなくても、貴方はすぐ隠し事しようとするんですから」

「まあまあ、そうカリカリしないで」

彼はくるりと踵を返すとあっけらかんとした様子でまた彼女の手を引いて歩き出す。だが、いくらも進まないうちに立ち止まった男は「・・・もしかしてアレですか?」などと至極真面目な顔を寄せてきた。
肺の奥から深く息を吐き出した風華は、眉を潜め神妙な表情を浮かべた男を一瞥する。

「・・・喜助さん、デリカシーって言葉ご存じですか?」

「知ってますよぉ。冗談ですって!アナタのはまだ10日程あるのぐらい分かってますから」

「もう!そういうところがデリカシーがないって言ってるんです!!」

彼が風華の周期を把握していることは致し方ない。むしろ百年以上の年月を共にしてきて知らない方が可笑しい。だがそれとこれとは話が別だ。

「ごめんってば。機嫌直して?ね?」

もう一度溜め息を吐き出しかけた彼女の背中が、そっと前に押し出された。

「ほら着いたよ、風華」

「水芭蕉・・・!すごい、こんなに一面・・・」

白い花が水面にいくつも乱立していた。
まだ霧雨は続いており、水面付近にはゆらゆらと水煙が靡く。その水面に咲くそれは、雲海の上に白い蓮の花を開いているようにさえ見えた。

ーーーーー蓮、ああ、そうだわ。

「・・・観音蓮」

「ハイ?」

「水芭蕉の別称です。神々しい観音菩薩に見えることから例えられた呼び名なんですって。ほら見て、喜助さん」

特に今日は水煙が雲海のように見えて、天上の蓮池のようでしょう?と前方を指し示した風華に、何故か彼は眉を潜めて薄く笑っていた。

「観音様、ねぇ・・・」

「?どうかしました?」

「いーえ、なぁんでも」

首を傾げた風華の腰がくん、と引き寄せられたと同時に僅かにかさついたものが唇に触れた。それは何度か角度を変えて彼女の唇と合わさり、下唇を食んでから離れていった。

「ありがとう、風華」

柔らかく細められた翡翠の瞳がこちらを見てそう告げた。
しかし、一体何のお礼だろうかと彼女が、睫毛をぱちぱちとはためかせると、その瞳は一層目映げに細くなる。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

今日ほど感謝する日はないよ、と微笑む喜助の言葉へ返す言葉は、また重なった唇の中へ押し戻される。
水煙を避けていたストールが、ひらりひらりと蓮池の上に舞い落ちていった。

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水芭蕉
美しい想い出、変わらぬ美しさ
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