五月雨柏手
『天国の場所』


肩から背中にかけて感じていた心地よい重みが、ふと遠いのていく。

―――まだ、行かないで。

離れていくそれに一抹の寂しさを覚えた風華は、ふるりと睫毛を震わせて、乾いた喉から声を絞り出していた。

「ん、あさ…?」

「ああ、スミマセン。起こしちゃいましたね」

一糸纏わぬ風華の柔肌を抱き込んで眠っていたはずのその男が、まだ夢現な彼女の前髪をそっとかき揚げて「まだ早いよ」と額に唇を寄せてくる。
触れる唇の擽ったさに視線をあげると、彼は片肘をついて何やら紙の束を眺めていた。

「それ、昨夜のですか?」

「そっス」

昨夜―――と言っても、既に月が高く昇った頃に―――急ぎの書類があると言いながらも彼女の私邸に押し掛けた喜助は、こともあろうか、あっさりとそれを放り投げるなり『さて。とりあえずシましょっか♪』と有無を言わせぬままに彼女を横抱きにして褥に潜り込んだのだった。

「また、ひよ里ちゃんに怒られますよ」

「大丈夫ですよ。ボク、こういうの誤魔化すの得意なんで♪」

止められなかった自身も共犯なのだろうと思いつつも、主犯の男を非難してみるが、全く気に止めていないらしい。
それどころか『勿論、風華サンが密告しなければ、ですけどね』とゆるりと視線を流されてしまい、彼女に出来たことと言えば、頬を染めつつ「仕方のない人ですね」と掛布に潜り直すことぐらいだった。

「ねぇ、知ってます?」

「何をですか?」

そんな彼女の様子をしたり顔で眺めていた男は、また視線を紙の束に戻しながら一人ごとのように問い掛けてきた。

「天国って、‘二人の国’って書くんですよ」

―――“二人の国”・・・

言われた言葉を脳内で文字として反芻してから、「本当ですね」と頷く。
それが、何か?というように彼の横顔に視線を送ると、喜助は空いた手で彼女の髪に手の伸ばす。

「だから、アナタと居ればどんな場所だって、それに為り得るんですよ」

「それは・・・とても、素敵なことですね」

「ええ。ボクも、そう思います」

障子の向こうから、白く目映い光が射し込んでくる。
慈しむように、浄化するように、輝く陽光に包まれゆく中、風華はその光に眼を細めながら、くすくすと笑う。
しゅるりしゅるりと彼女の髪を鋤いていた男が“何を笑っているのか”と怪訝そうに一瞥してくる。

「喜助さんがそんなこと言うなんて思わなくて」

「どういう意味?」

「だって、私達の仕事柄、そんなことを考えること自体否定しそうだから」

余程意外だったのだろうか、彼は眼を丸くして驚いていた。

「そんなことしませんよ。なんなら、誓ってもいいぐらいだよ」

「なら、永遠もあると思いますか?」

「アナタが信じるのなら」

ばさり、と紙の束を畳の上に放り投げた彼がひたりとこちらを見据える。

「ボクは知っての通り、科学者なので、先ずは“可能性を信じること”を信条にしています」

「“可能性を信じること”、ですか?」

起き抜けの脳を懸命に稼働させて彼の話に意識を向ける。

「ええ。どんな事柄でも、先ずはそれがある、それが出来ると信じることから始まるんですよ。自分が信じたその結論に辿り着く為の可能性を探ることが、科学の一歩ですから」

彼はそこで一度言葉を切って「まあ、大抵千里どころか万里の道なんで挫折する人も多いんですけどねぇ」と敷布に突っ伏した。
眉尻を下げて苦笑いを浮かべる彼の言葉に、「近道なんてないのに、つい結果を急いてしまうのでしょうね」と頷けば「全くもって、アナタの言う通りっスよ」と嘆息してから、また肩肘をついて上体を起こす。

「だから、アナタのその“永遠があると信じる想い”を大事にしてください」

“ボクはそんなアナタの想いごと、丸ごと信じていますから”

彼が語ったその言葉が、すとんと胸に落ちる。

今、分かった。
彼女の願う天国の場所は―――。
彼女が願う永遠の世界は―――。

「それなら、私も信じてみます」

「おや。永遠は信じてなかったんですか」

またも意外そうに瞳を丸くする彼の言葉に、ゆるりと首を振る。

「いいえ。でも、私一人だけの永遠なんて要らないから。だから、なくてもいいって思ってたんです」

たった一人で授かった永遠など何の意味があろうか。
常に見送り、置いて逝かれ続ける永遠など。
そんなもの望みたくもない。
だから、要らないと思っていた。
けれど、そうではなかった。

「貴方と二人で過ごす永遠の世界なら、信じたい」

―――ずっと、貴方と二人で。

その場所こそが、彼女が願う場所になるのだから。
差し込む陽光を受け、まるでお伽噺に詠われる天上の宝玉のように煌めく翡翠の瞳を、見つめ返す。
髪を撫でていた彼の手をとり、その彼女が望む世界を与えてくれるはずの掌に頬を擦り付ける。

「いつまで経っても、ボクはアナタに敵いそうもないですね」

はあ、と大袈裟に嘆息しつつも、その目尻は柔らかく下がっている。
喜助は風華の前髪をかき揚げて額にそっと唇を寄せてくる。額を擽る優しい感触に身を捩りながら、風華も目尻を下げて微笑む。

「ねえ、喜助さん。いつか、天国へも一緒にいってくれますか?」

「貴女となら、何処へなりとも」


――――――天国の場所。

――――――それは貴方と二人、永遠が約束された場所。



********************


「―――結局、“貴方となら何処へなりとも”と言って、ついてきたのは私の方でしたね」

そう言って、困ったように眉尻を下げながら、けれど、嬉しそうに頬を染めて笑う妻の隣で、喜助はぷかりぷかりと浮かぶ煙を春の風に遊ばせていた。
返答に窮した喜助に気付かない振りをしているのか、彼女はそのまま独り言のように語り続ける。

「私ね、ここに初めて来たときに思ったの。“ああ、ここが私達二人だけの天国なんだわ”って」

長い仮初めの夫婦生活を続けてきた。
彼女に罪を犯させ、挙げ句の果てには彼女の力まで奪った。
すべて、喜助と共に居たが故に、彼女に強いてきたこと。
それら全て抱えた上で、彼女は―――。

「此処は、アナタが願った場所になっていますか?」

問い掛ける唇が震えていた。
その答えを訊くことを、否、拒絶されてしまうことを、何よりも恐れて。

けれど、そんな喜助の心中を笑い飛ばすかのように、風華は心底呆れたと言わんばかりに唇を尖らせて「当たり前でしょう?」と詰め寄ってきた。

「だって、此処には貴方が居るじゃない。ううん、貴方と私の、二人で居られているのよ?世界中、何処を探したって私が願う天国は此処以外に存在しないわ」

躊躇うことも、疑うこともなく告げられたその言葉に、身体の芯を何かに掴まれたように、強く、もどかしく、締め付けられていた。

「・・・有難う、風華」

「有難う、だなんて。お礼を言うのは私の方よ」

琥珀の瞳が慈しむように柔らかな弧を描いて、こちらを見つめていた。

「こんな素敵な天国に連れてきてくれて、有難う」

生あるものに行くべき道を照らす陽の光よりも、
孤独に耐えうる者を癒し包み込む月の光よりも、
燦々と優しく輝く微笑みでもって、彼女の深い愛情が喜助のすべてを抱き締めてくれる。

嗚呼、彼女に、なんて答えればいいのだろう。

答える代わりに彼女の体を抱き寄せた。

―――僕にとっても、此処以上に天国と呼べる場所なんて、存在しないんだ。

音として表現できなかったそれの代わりに彼女の体を抱き締めた。
ありったけの、想いを込めて。




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