緋鯉唄 | ナノ


 表の天敵、裏の鯉



けれど、待てど暮らせど月島という名のその人が店にやってくることはなかった。
元々彼が現れる頻度はそう高くないのだ。

一つ、おそらく沙代と八重が帝国陸軍の兵舎を訪れた事が理由だと思われる変化が、あったことはあったのだが。そちらは別段喜ばしくはない。釣銭を返しに行った時の何だかいけ好かない男が、三日置きくらいに店を訪れるようになっただけだ。
店番に当たっている時にその顔を見つけると、八重はいつも大きな溜め息をついてしまう。

…来て欲しいの、あんたとちゃうんやけどな。

むしろそれで月島が余計にやってこなくなっている、という可能性だって充分にある。というより実際にそうなっているのだろう。本末転倒だ。
今日も、店の暖簾をくぐり現れた顔は、期待した人のそれではなかった。
片肘をついて眺める先にある顔は、まずいつもそわそわと店の中を見回し、八重しか店に出ていないのを見るとあからさまに落胆する。
項垂れ、消沈をありありと顔に浮かべたまま、みたらし団子を三本ほど買って帰ってゆく。たまに店の前をうろついている。時々、恨みがましい視線をちらちら向けてきたりもする。
その一切合切を、八重は見て見ぬふりでやり過ごす。
こういうことは珍しくない。配達先や店の周りで沙代を見かけた男がそんな風になるのを、幾度も見てきた。

だからある日を境に、表の店番は八重。裏の雑用は沙代の仕事になった。
沙代を店に立たせると、沙代を目当てにした男の客が一挙に押し寄せるからだ。
もちろん店は繁盛する。売り上げには大貢献で、飛ぶように菓子がなくなる。
大店の時はそれで良かった。でも味で勝負したいとこの地へ来た大将が、一度渋い顔で“あかんな”と呟いてから、沙代は奥に籠っている事が多い。
二人ともまだ店に出す菓子を一から作らせては貰えないから、作業の補佐や洗いものや掃除、配達が主な仕事だけれど、店を開けてからは、そのほとんどを沙代がこなしている。店番なんて楽なものだ。

奥にいる沙代は、時々おせんべいなんかを焼いている。たまに焦がして、その時は店の方にまで香ばしいを随分通り越した臭いが漂って来る。それだけなら単なる失敗談であるし、まぁ笑い話なのだが、何を失敗したか、その白い肌に火傷の跡をつくっているのを見つける度、八重の気持ちは重く沈む。

夏は小豆を炊くので酷く蒸すし、冬場は水が凍てつくように冷たい。どう考えても沙代の方が大変な思いをしているはずなのに、八重はその口から不満が出るのを聞いた事がない。ずるいと思う。立場は同じなのに、八重の仕事の方が何倍も苦労が少ない。なのに、嫌な顔一つせず、沙代は屈託のない甘い声で八重を呼ぶ。
非の打ち所がない。そんな人間がいるのかと思ってしまう程に。なのに、その秀でた容姿ゆえに中に籠る事を余儀なくされる。
見目が良いのも、良いことばかりじゃない。

浮かない顔をする八重の視線の先で、今日もすごすごと丸まった軍服の背がみたらしの包みを手に店を出てゆく。

「ほんま…罪やわぁ…」

ぽつりと呟いた所で、店の奥から八重を呼ぶ声があった。





「堪忍な八重ちゃん。もう、痛とうてどうにもならんで」
「無理せんといて下さい女将さん。言うてくれはったらうちが運びますよって」

最近腰を痛めた女将は重たいものが運べない。大将も出ている所に丁度荷物が届いたのだと言う。勝手口から店の裏へ出れば、粉の袋から木箱から、随分な荷が積み上がっていた。
思った以上の量に怯んだが、眺めていた所で荷が無くなる訳ではない。
襷を結び直し、一つ一つ片づけ始めた時だ。
店と店の間の狭い路地の先に人の顔が覗いた。

「うわ、まだおる…」

思わず本音がついた口を押さえる。
聞こえていたのかは分からないけれど、その人物は八重の姿を見るなり唇をへの字に歪めた。
そういう顔なのか、据わった目をしたままかさこそと距離を詰めてくる。その姿がゴキブリを髣髴させ、背中がうすら寒くなったけれど、近寄って来た男は何を言うでもない。
男の背丈は高く、八重は怯みそうになる気持ちを押し込めてその顔を見上げた。

「兵隊さんてそないにお暇なんですか?こないだも店の前うろうろしてはりましたよね」

沙代が付き纏いに合ったのは一度や二度ではない。あの砂糖菓子の笑顔にあてられると、男というのは前後不覚に陥る生き物らしい。
この兵隊さんだって、見目は悪くない。どころか男前だ。なのにコロリといってしまうのだから、その威力は如何ともしがたい。

つっけんどんな物言いに、彼はつんと顎を持ち上げ八重を見下ろした。
嫌やわぁ…、と居丈高なその態度に眉を顰める。初めて会った時にも感じたが、いちいちこれ見よがしに偉そうなのだ。軍人だからなのかというと、他の人はそうでもないし、むしろ腰の低い人だって多いというのに。

「沙代ちゃんのこと待っとっても、今日は非番やから会われへんと思いますけど」
「―――!!」

ぴしゃりと、人に雷が落ちる様を初めて見たかもしれない。男はカッと目を見開いたかと思えば、言葉もなく八重の足元にくず折れた。

「な、何やの…」

打ちひしがれるその様子に身を引きながらも、何か言おうとするのに耳を傾ける。

「今日こそはと…思うちょった…」
「はぁ…」

どこの訛りか、男は聞き慣れない言葉でぶつぶつと呟いた後、八重を見上げ顎を突き出すと、大きく曲げた口からこれ見よがしに大きなため息を吐きだした。

なんなん…。

不貞腐れているとしか考えられない仕草に、八重は呆れる。まるで大きな子供だ。
ほんまに兵隊さんなんやろか、と胡乱な眼差しを向ける先で、ふいと目を伏せた男がぽつりと零す。

「しかし…そうか、沙代殿というのか」

良いことを聞いたと、思いがけず崩れた相好。嬉しそうな、けれどほんの少し気恥ずかしそうな笑みが色の黒い面を彩った。
思わずそれを見つめてしまってから、半分がた瞼を下ろし、八重は冷めた目で呟く。

「……アホとちゃいます?」
「む…アホとは何だ」

アホはアホやわ。沙代ちゃんのあの顔見てまだこんなんやねんから。
浮かれているその様子を可哀そうだと思わなくもないけれど。
眉根を寄せむくりと立ち上がるのを無視して、八重は荷の片づけへ戻る。男は黙ってそこに佇んでいたが、ふと何を思ったか、路地に詰まれた木箱の上を手で払った。最後にふうと息を吹きかけると、団子の包みを割れ物でも扱う様に慎重にそこへ乗せる。

その様子を横目に黙々と片づけを進めていれば、近づいて来た男は、八重の抱える団子粉の詰まった袋へ手を伸ばした。八重がようやっと抱え上げていた大袋を、なんてことはなさそうにひょいと取り上げてみせる。

「どこへ運べばいい」

急に空っぽになった両腕を持て余し、八重は驚きに目を瞬いた。反応を返さないことを聞こえていないととったのか、再度どこへ運ぶと男が尋ねる。
我に返り、慌てて八重は男を止めた。

「…よ、よしてください…!お客さんにそんなんさせられません」
「おなごの手にはあまるだろう。この量を一人で運ぶ気だったのか?」
「…今動けるんが、うちしか居りませんので」

なら私と合わせて二人になったと告げる口元から、白い歯が覗く。
みたびどこへ運ぶのかと問われ、戸惑いつつも八重が店の中だと答えると、戸を開けてくれと当たり前のように口にする。
放っておけばそのうち立ち去ると、そう思っていたのに。少し意地が悪かったかもしれないと自省しつつ、八重よりも余程早く荷を中へ運び入れてゆくその横顔を見やる。
正直、全くと言っていい程良い印象はなかったのだけれど。

「…ええとこ、あるやないですか」

背伸びのように上から物を言い口を尖らせた八重を、切れ長の目が見下ろす。

「そうだろう?」

その目を少し細くして、男は唇の端を持ち上げる。かと思えば急に落ち着きがなくなるので何かと首をかしげれば「沙代殿に話してくれても良いのだぞ…!」とちらちら期待の眼差しを向けてくる。

「…それはどうぞご自分で」
「………」
「けど、おかげさんで助かりました」

おおきに、と最後の荷を中へと運び込み口にした八重に、男が目を瞬く。

「今のは礼を言ったのか?」
「そう…ですけど」
「そうか」

私の生まれ育った地でも同じ言葉を使う、と喜色を浮かべるその様子に、つられて八重も頬を緩めかけたのだが、

「沙代殿も同じ言葉を使うのだろうか?」
「………」

乙女のように頬を染め瞳を輝かせるのに、もう一度アホちゃうかと内心で呟いた時だ、さっと小さな影が八重の横を抜けた。
一匹の黒猫が木箱へ飛び乗る。その口に咥えられた紐を見て「あ、」と上げかけた八重の声をかき消し、奇声が路地にこだました。


大よそ人のものかと疑うそれに耳を塞ぎ、出どころである男を振り返る。聞き取れぬ言葉を叫び飛びかかった男が勢い余って木箱へ突っ込むのを尻目に、猫が地へ下り立った。

「あかん、逃げる!」

追って駆け出そうとした八重を止める声があった。崩れた木箱の間に身体を突き込んだまま、男はいいのだと口にする。

「無理に追う必要はない。団子はまた新しいものを買えば、」
「……こんの、」

ドあほう!!とただでさえ焦る口が火を吐いた。

「追っかける前に諦めなや!!大将が丹精込めて作った菓子、猫にやってどないすんねん!!猫かて体に悪いわ!!のどに詰まらせたらえらいことやろ!!」

ここで放っといたら二度と団子は売ったらんと、尻を引っ叩きかねない勢いで捲し立て表の道へ駆け出た八重に、男が思わずといった風に追随する。

「お、お前はさっきから人の事を阿呆阿呆と」
「アホやからアホや言うてるんです!!そんなことより猫と団子や!」
「そんなこと…」

第一猫に包みが開けられるものかとぶうぶう言う男に構っている暇などある筈もなく、八重は道行く人に猫を見ていないか尋ねて回る。あちらだそちらだと駆けまわるうちに、男が指さし叫んだ。

「いたぞ!」

確かにあの黒猫だ。その口にはまだしっかりと団子の包みを咥えている。
向かう先にはお誂え向きに良く知った魚屋の軒が見えた。

「おっちゃんイワシ一匹!」

裾が乱れるのもかまわず駆けながら八重が声を張り上げると、店主が表まで出てくる。

「おう八重ちゃん、今日も忙しそうだね!」
「せやねん!急いどるからそんまま貰ってええ!?」
「いいけど、素手で持ってくのかい?」

驚きつつも店主が差し出してくれた魚を受け取る。丸々したイワシは手の中でぬめりと重い。

「おおきに!悪いけどつけといて、非常事態やねん!」

殆ど足を止めないままに振り返り告げる八重に店主が応じる。後ろを走っていた男が追いついてくると、呆れともつかない声がかかった。

「…あんな買い物の仕方があるのだな。しかし臭いぞ。魚臭い」

そう言って男が鼻を摘むのを、やかましいやっちゃな、と胸の内でぼやき、見やる。

「…しゃあないやないですか、こうでもせんと、」

いくらものを咥えて動きが鈍っていようと猫は猫だ。人よりも余程すばしこい。
滑るように駆けていた猫が角を折れる。けれど息を切らせた二人が角を曲がった時には、猫は忽然と消え失せていた。そんな、と並ぶ家々の間に目を走らせる。

「あちらだ。それを渡せ」

言われ掴んでいたイワシを手渡すと、男が民家の石塀へと取りついた。身軽に身体を引き上げ塀の上を駆けて行く姿を、八重はぽかんと見送る。気付けば塀だけでは飽き足らず、男は屋根の上を走っている。
だがその先で黒い影が逃げて行くのを見て、八重もまた駆け出した。猫が向かった方向へ民家の間を縫って走る。体を横にしてようやく抜けられるような隙間をいくつか抜け、この辺りに出たはずと飛び出た先で、同じく姿を現したものがあり、たたらを踏んで立ち止まった。矢のごとく飛び出していった黒い影に続き、唐突に垣根から人の半身が突き出てきたのだ。

「しまった!尻がつかえた…!!」

幅を大きく取られた四つ目垣。その目の一つにすぽりと嵌った男が、摘まれたミミズのように地の上をのたくった。言葉もなくその様子を見下ろし、はっとなって八重は叫ぶ。

「そうや、猫は…!」
「待て、まず私の心配をしないか!おい!!」

男の側に落ちていたイワシを拾い上げ駆け出そうとした八重だったが、ふと真っ直ぐに近づいて来る人影があることに気付いて足を止めた。
軍服を着こんだその人は、垣根からはみ出した男を見下ろし、にたりと口の端を歪めた。

「また妙な遊びをされておいでですね鯉登少尉殿」
「…尾形百之助」

抜け出そうと地面を引っかいていた手を止めた男の顔が、苦いものでも口に詰めたようになる。
どうやら二人は知り合いであるらしい。尾形と呼ばれた男の腕に追いまわしていた黒猫の姿をみとめ、八重はあっと声を上げた。

「その猫、」
「なぜ貴様がそれを…!」
「とんだ泥棒猫のようでしたので」

猫が咥えていた団子の包みは既に彼の手にある。
とん、と猫は軽い音をたてて腕から飛び降りた。惜しむように男の持った包みを振り返る猫の目前に、結局見せ場の無かったイワシを差し出せば、ふんふんと臭いを確かめてからぱくりと咥え走って行った。
その尻尾が消えてしまうのを見送った八重が振り返ると、まだ垣根に挟まっていた男が右手を伸ばした。引けということらしい。

そういやそんな名前やったなぁと、仕方なく骨の太いその手を掴みながら思う。思い返せば以前に釣銭を届けに行った折にも、鯉登という名を聞いた気がする。すっかり記憶の彼方へ捨て去っていた。
その鯉登が、握る八重の手を見やり眉をひそめた。

「ぬめっているではないか」
「…お互いさまや、思いますけど」

あんたもイワシ掴んどったからや、と喉元まで出かかったのを呑み込み別の言葉へすげ替える。
八重の手助けもあり、何度か身を捩ってようやく垣根から這い出した鯉登は、まったく災難だったとぼやきながら軍服の土を払った。

「でも、よう捕まえてくれはりましたね」

あんなにすばしこかったのにと包みを受け取りつつ声をかけた八重に、こちらも服についた毛を払っていたらしい尾形が、猫の方が目の前で足を止めたのだと答えた。

「まさかそんな所へ尻を突き込むほど熱心に探されていた猫とは、思いもよりませんでしたが」
「よもや貴様の差し金ではないだろうな」
「これはまた面白いご冗談を」
「白々しい嘘をつくな!!貴様まったく目が笑ってないではないか!!」
「笑うような内容でもなかったもので」

カッと血が上った様子で、飄々とかわす尾形へ向け鯉登が何かを叫びだすが、耳をそばだててみてもやはり何を言ってるのか全く聞き取れない。
魚臭いのとは逆の手で団子の包みをぶら下げながら、八重は火花を散らす二人を眺めていた。






手近な川で手を漱いだ後、まだ魚の臭いがするとぼやく鯉登を連れて、八重は急いで店へ戻った。暖簾を潜るなり、すぐさま女将へ黙って抜け出ていた事を詫び倒し、もう少しだけと頼み込んで、手早く作業を終わらせ勝手口から外へ出る。
そこには待たせていた鯉登の姿があった。これを渡す訳にはいかないからと結局買い直した団子の包みを手に、壁に寄り掛かっている。

此方へ向き直るその人へ向け、包みを差し出す。猫に奪われた方は仲間内で分けて食うと言うので、せめてきれいに包み直そうと預かったものだ。
手渡せば、受け取った男が怪訝な顔をする。

「おい、はねっかえり」
「…誰がはねっかえりですか」

眉をひそめた八重の言葉には構わず、鯉登は包みを持ち上げた。

「ずいぶん大きくなっていないか?」
「手伝ってもろたお礼です。皆さんで召しあがって下さい」
「しかし…」
「気にせんとって下さい。思ったより時間もとらせてもうて…あ、でももし美味いて言うてくれはる方がいてたら、お店の宣伝、しといて下さい」

八重がそう言えば、きりりとした目元がふっと緩む。

「分かった。しっかり売り込んでおこう」

みっちり重たいそれを手に、「喜ぶに違いない」と鯉登が目を細めて笑った。


/



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -