キラルの背骨




 求めよ、さらば与えられんって一節があるじゃない?
 求めれば与えられるし、探せば見つかるし、門を叩けば開かれるって?
 何でもかんでも報われれば世話ないよ。
 願え、動け、どちらもしないと見つからないけど。
 どこにも保証がないのに言い切っちゃうのはずるいよねぇ。














 傾いた陽光が目の奥を焼いていた。
 昼の陽は暖かくとも、夕刻ともなれば吹き抜ける風の冷たさが身に染みる。白衣の襟を掻き合わせ、余暉はまだそこそこの人通りを残した市場の入口に立っていた。
 ちらほら店仕舞いを始めている店も目に付くが、通りの両側には所狭しと露店がひしめき合っている。そこかしこで客を呼び込む濁声が飛び交う、忙しの無い日常の寄せ集め。吹き溜まりのような喧騒の只中を、するりするりと足から離れた影のように抜けながら、余暉は浮足立つ気分のままに歌を口ずさんでいた。
 短い。進んではまた頭へ戻りを繰り返す永遠のループをなぞり続ける。

 大きな町がどこも好ましいと思えないのはこういった猥雑さと密度だろう。掃いて捨てる程の人と物で溢れ返っている様には、この世の醜さが凝縮されている。
 青果の屋台の隣に衣服を吊るした屋台があり、そのまた隣にはもはや何屋という看板を掲げることも不可能であろう店もある。履き古された靴や、高額な値札をぶら下げた埴輪に、胡散臭さがこれでもかと詰め込まれた壺、どうやら抽斗を幾つか紛失したらしい箪笥。
足を止めた露店には、もはや粗大ゴミとの区別も付けられぬ品々が、元はそこそこ豪奢なものであったろう、今や所々に染みを浮かせカビ臭ささえ漂わせていそうな敷物の上へ、てんでバラバラに並べられていた。無秩序至上主義でも謳っているのか、この世に順序や法則と言った類の言葉が存在することを真っ向から否定したいと言わんばかりの有り様だ。
 売り上げも見込めないだろう真っ先に閉店していないことが不思議なその店先で、余暉は木彫りの人形を手に取り眺め回す。どうやら首が胴から外れる仕組みになったその人形は、取れた頭の方に物を詰められるようになっているらしい。
薄く笑って悪趣味な小物入れを置き台へと戻し、余暉は隣の青果を並べる店へと足を向ける。通り過ぎ様、山と積まれたオレンジの一つをするりと掴み取った。客との雑談に興じている店主が気付いた様子はない。
 着古した白衣から取り出した折り畳み式ナイフ。その刃を、無数の油胞が点在する果皮へと突き立て刃を引けば、分厚い皮が裂け、白いワタのさらに奥、覗く果肉から溢れ出した果汁が肌を伝い落ちていく。

「垂れてっぞ」

 降って湧いた声に顔を上げると、髪と瞳に炎の色を写し取った青年が呆れ顔で余暉を見下ろしていた。
ぶっきらぼうに忠告を投げて寄越した声の主へ向け、余暉は皮の裂けたオレンジを差し出す。

「食べる?」
「…いや、ねーわ」
「なーんだ、美味しいのに。食べてないけど」

 言えば、食いもしないのにどうのと小言らしきものが返って来る。立ち話をしようというのでもないだろうに、彼は傍らに留まり何故か煙草に火まで点け始めた。気だるげに突っ立った長い体躯の頭から爪先までをざっと眺め、余暉は口の端を歪めた。

「珍しいね」
「そーか? どっちかってーと珍しいのはお前の方だろ。こんな時間に起きて来るなんてよ」
「そーかな。変化があって良いでしょ」
「やけに機嫌も良さそーだし?」
「ん?うん。そーだね。今日は割合良い日かな。でっかい収穫もあったしね」
「ほー…。まぁその収穫が何かは気かねーケド」
「なんで? 聞いてくれていーのに」
「どうせロクでもねー事だろ」
「分かんないよ。試してみないと」
「経験則だ」

 それはそれはと気の無い風に返し、余暉は腕時計へ目をやる。そうしてそろそろかなと呟くと、持っていたオレンジを彼に手渡した。

「っておい、べったべたじゃねーか」

 素直に押しつけられておきながら文句を洩らす彼につと小首を傾げ、余暉は随分高い位置についたその頭を見上げた。

「ねぇお兄さん。落ちて壊れたら二度と元には戻らないものって、何か知ってる?」





*******





 取り立てて言う事のない日だった。
 風も穏やかで、地面は昼の陽光の名残を残し、心なし並ぶ露店の軒先で足を止める人間も多い。いつもとなんら変わる所のない夕暮れの町は、今日もひっそりとした賑わいに満ちていた。
 けれど何でも無い日ほど落ち着かず、時々言いようのない胸騒ぎを覚えるようになった。全て失ったあの日を取り返そうとするかのように、或いは、日常は呆気なく崩れ去るものだとの危惧が、蜃気楼のような警鐘を鳴らし続けているのか。
 心配性を極めんばかりの考えを振り払い、八戒は今目の前に在る事柄へ目を向ける。
目下、考えるべきは今晩の献立についてだ。三蔵の所へ顔を出すまでに、ある程度の下拵えは済ませておきたい。
 ここ数日のラインナップと冷蔵庫の中身、それらを踏まえた上で、最近は毎晩のように顔を出す彼女がそれを胃に収めてくれるか否かを考える。
 食べること自体に興味を示さないというのはすこぶる厄介だった。
 これがただの偏食であればまだやりようがある。生命維持等に必要な最低限の量を摂取しているというだけで、彼女にとっての食事は楽しみどころか煩わしいものですらあるらしい。
 彼女の何かを口に入れようという気まぐれは、大半が珈琲もしくは酒類によって消化されてしまう為、そこへ何かを滑り込ませるのは至難の業だ。以前苦言を呈した時には、こうして動いて喋ってもいるのに一体何の問題があるのかと返ってきた。
 栄養のバランスも何もあったものではないが、何を言っても屁理屈ばかりが返って来ることは目に見えるので、騙し騙しあれこれと少しずつ口に入れさせている毎日だ。
 手の焼ける度合いは悟浄を遥かに凌いでいる。
 人に溜め息を吐かせる事を趣味の一環にしているに違いない、ねばついた例の薄笑いを思い浮かべた時だった。
 流れる人波の向こう側に、今まさに脳裏を占拠していた顔が覗いた。
 着古され全体に灰色がかった白衣。陽に当たった事など無さそうな病的に青白い肌と、一切の混じり気を排した黒の瞳。隣には悟浄の姿がある。
 余暉、と。出かかった名が喉の奥で止まった。
 棒きれを思わせる彼女の腕が、白衣のポケットへ伸びていた。声が届いた筈は無いのに、スッと動いた暗い瞳がぴたりと八戒の上で止まる。

「悟浄ッ、離れて!!」

 叫ぶと同時に、割れんばかりの轟音が背後で鳴り響いた。





*******






 寺院だとか教会だとかは、いつ来ても薄ら寒さに満ちている。
 俗っぽさに神聖と書かれた薄汚いシーツ一枚を被せ、所々に開いた穴すら見逃しながら誰も彼も気味の悪い笑みでそれを拝んでいるような。
 自然と肌が粟立つそんな異空間の一室、彼が日々書類の山と奮闘しているらしいその場所で、あまりの退屈さに余暉は欠伸を洩らしていた。
 どれだけ欠伸をしてもしたりないのだ。きっと空気中に欠伸を促す成分が多大に含まれているに違いない。

「腕やら足やらの一部を吹っ飛ばしたことは否定しないけどさァ。疑いの余地もなく正当防衛だってば」
「それも過ぎれば過剰防衛になるっつってんだ。当然だろう」

 真面目に聞けと、眉間に深い皺を刻みこんだ彼が言う。
 聞いてる聞いてると返事を投げつつ、視線は弱々しい暮れの陽が差す窓へ。
退屈な場所に、退屈なお説教。こんなのは拷問に近い。救いがあるとすればあの金目の少年が、話の邪魔だと早々にこの部屋を追い出されたことくらいか。
 呼び出しを受けてから中四日を空けただけだというのに、顔を出せば開口一番に遅いと怒鳴られた。こんな面白味一つない場所まで出向いたという点は、ただの一つも評価されていないとみえる。

「もーいーじゃん、一部だよ一部。ほんのちょっと。九割無くなった訳じゃないんだから」

 のらりくらりと質問を躱す余暉が片手を振れば、彼は忌々しげに手元の紙きれへと目を落とした。

「てめぇのせいで無駄な仕事が際限なく増えやがる」

 紙の山をいくつも侍らせ眉間を押さえるその姿に、余暉は薄っぺらな肩を竦めてみせた。

「同情しちゃう。それでこんな時間に引っ張り出される私もすっごく可哀想だけど」
「やかましい。自分で蒔いた種だろうが」
「好きで蒔くならもっと面白い種にするよ。大体さぁ、こんな聴取に意味ってあるの? どうせ道で伸びてたヤツだってロクなもんじゃ…、」

 言いかけ、余暉はふと入り口へ目を向けた。扉の向こう、荒い足音が執務室の方へ駆けてくる。そうして体当たりをかまさんばかりの勢いで転がり込んできたものに、余暉は片眉を持ち上げた。あちらはあちらで、そんな余暉を見るなり紅の瞳を目一杯に瞠ってみせる。

「お、前っ何でここに…ッ」
「どこぞの最高僧様からのラブコールが止まなかったもんで」

 小首を傾げ答えるも付き合ってくれる気はないらしい。困惑を舌にのせながらも、その腕は余暉の襟を掴み乱暴に引き寄せた。
 身体に置いて行かれそうになった頭を元の位置へ戻すなり、青筋を浮かべた顔がドアップで目前に現れる。

「市場に居たろ」
「…いつの話?」

 こめかみで脈打つ太い血管をしばし眺め、余暉は尋ねた。
 残念ながら、脳内に当てはまりそうな事象はない。

「ついさっきだ。側の屋台が吹き飛んで、八戒がそこのクソ坊主に知らせろっつーから俺は真っ直ぐこっちに、」

 喋りながら矛盾に気付いたか、徐々に勢いが削がれていく。目だけで振り返る先、視線が交わるよりも早く鋭い声が飛んだ。

「そのまま押さえてろッ!!」
「クソッなんだってんだ、どいつもこいつも!」

 言いながらも、頑丈そうな腕が即座に余暉を抑え込もうとする。逃がすまいと抑え込む力に抗う事はせず、余暉はただ右手の人さし指を持ち上げてみせた。先にぶら下がるのは上部がリング状になった細い鉄のピン。

「残念。肉体派じゃないんだよ」

 にたりと笑い、見せつけるようにピンを振ったと同時、ぼふん、と白衣の下から煙が噴き上げた。
 嘘だろと顔を引きつらせた彼が咳込んだのも束の間、腕を掴んでいた手から力が抜ける。瞬く間に部屋を埋め尽くした白煙の中へ屑折れ消えてゆく体躯を見送り、余暉は煙が赤みがかる方を目指して進む。
 タイミング悪いなー。
 この辺りかと伸ばした手が窓枠を探り当てた。窓を開くと滞留していた空気が一挙に流れ出る。その後を追うように肺に留めていた息を吐き出した。不純物の混じらぬ空気を求め地面へ下り立つ。そんな余暉の腕を掴む者があった。

「待ちやがれ…ッ」
 
 薄い煙幕の向こう、鋭い紫暗が余暉を睨み据える。
 辛いだろうに、息も絶え絶え窓枠から這い出ようとする姿には敬服せずにいられない。手が自由であれば惜しみの無い拍手を送ったところだ。

「頑張るねぇ。諦めちゃった方が楽だよ、何でもさ」
「うるせぇ…、それでテメェが戻る保証が…どこにある…ッ」
 
 余暉の腕を握る手に、より一層の力が籠る。余暉が消えれば、同時に彼の雑務も大幅に量を減らすだろう。戻らなくても当人は然程困らない。どころか万々歳だと言っても過言では無い筈だが、何をそうもムキになるのか。
 揺らぐ気配の無い瞳に、息の塊を吐き出し、余暉は笑う。

「つくづく損な性格してるよねぇお兄さん。ま、ゆっくり休みなよ。悪いようにはしないから……って、もう聞こえてないか」

 それでもまだ腕を離さずにいた意固地な指を一本ずつ解いてゆく。
 意識を手放した彼を置き去りに、煙でまだしぱしぱとする目を幾度も瞬きながら余暉は敷地の外を目指した。
 ポケットをまさぐる指で大まかに手持ちを数える。けして多くはないが、ねぐらにしていたあの建物にわざわざ帰る必要も無さそうだ。
 厳めしい切妻造りの屋根を冠する正門まであと一息という所で、そんな余暉を呼び止める声があった。馬鹿みたいに明るいその声音。脳内に浮かぶ無影灯に、少し躊躇った後、余暉は出所を振り返った。
 夕景の中、黄昏を背負った人影が真っ直ぐこちらへ駆けてくる。

「もう帰んの?」

 言って、磨き上げられたガラスのように曇りのない瞳が余暉を見上げた。
 どこで遊んでいたものか、服のみならず鼻の頭まで泥で汚した子犬のようなその様に、余暉はくっと喉を鳴らして笑う。

「たまんないよね。毎日こんな目に曝されてるんだからさ」

 今も干された布団のように窓枠から垂れ下がっているだろう身体を思う。
 まったく同情を禁じ得ない。当人は余計な世話だと舌を打つだろうが、毒気の無い純真さは圧でしかない。正しくいなさいと口でどれだけ説かれるよりも、こちらの方が余暉には余程耐えがたい。

「余暉」
「ん?」
「何かあった?」

 何がそんな事を言わせたものか。不思議そうに小首を傾げ尋ねてくるのに、余暉は同じだけ頭を傾けた。

「なーんにも?」

 傾いた世界の中、真っ直ぐに余暉を見つめる少年は「そっか」とすんなり頷く。
 小さな太陽はやはり目には毒である。
 まだ何か言いかけたのを遮り、余暉はもさもさとしたその頭へと手を伸ばした。

「じゃあね、少年」

 つむじを軽く叩く余暉に、金色の瞳が不思議そうに一つ瞬いた。
 そうしてさっさと立ち去ろうとすれば、無影灯が後を追ってくる。

「余暉ー!!」

 肩越しに振り返る先、片手を口にあてもう片方を頭上で振り回す少年が、また明日と絵に描いたような無邪気さで叫ぶ。それに軽く片手を上げて、余暉は門を潜った。





*******




 頬の下、薄い膜の向こうに底なし沼のような眠りがあった。抗い難い眠気が泥濘の奥へ引きずり込まんと手招いている。
 夢と現の狭間をさ迷い続け、ふと浮かび上がった意識に重たい目蓋をひらけば、薄暗い水底のような色が広がっていた。
 持ち上げようとするも、鉛のように重い両腕はぴくりともしない。いや、縛られているのかと、靄がかったような頭で考えた。腕だけでは無い。動かせないのは足も同じだ。起き上がる事も出来ない身体に、床からはシンシンと冷たさばかりが滲みてくる。
 やがて意識がはっきりしてくるにつれ、壁と床の境界さえ判然としなかった視界が徐々に変わり始めた。
 窓の無い空間に、ぶら下がった裸電球が心許ない明りを投げていた。
 床にはくすんだグレーのタイルが敷き詰められ、壁は濁りぼやけた青緑色だ。鼻をつくのは古びた水の臭い。冷たく澱んだ空気の中に生き物の気配はなく、物音一つしない。まるで巨大なシャワー室のように無機質なその部屋の床に、八戒は無造作に転がされていた。
 窓どころか扉すら見当たらないのは、丁度背を向けた側の壁に出入り口があるからだろうか。身体の向きを変えようと身を捩ったその時、背後で錆びた音が鳴った。

「あれ、思ったよりも早いお目覚めだね」

 僅かにスモークをかけたようなベタつきのある声音。ここのところ嫌というほど耳にしてきた声だった。

「もうちょっとゆっくりしててくれても良かったのに。ついでに言うなら返事もしてくれていーよ」

 軽い足音が刻む小さな歩幅。かつりかつりと床を打っていた音が、頭のすぐ後ろで止まった。
 顔の上に暗い影が落ちる。
 逆光の中、影よりも余程黒々とした瞳が八戒を見つめていた。
 聞こえてるんでしょと、身を折って覆い被さるように覗きこんでいたのは、これまた毎日のように目にしていた顔だ。
 半ば予想はしていた筈が、改めてその精巧さに息を呑む。
 瓜二つなんて生ぬるい。まるで複写のように、余暉の顔をそっくり写し取った人物がそこにいた。
 フラットで、そのくせスライムのような粘り気も合わせ持つという、多大な矛盾を孕んだ声はやはり彼女のそれで。別の声帯から発せられているなんていうのは、悪い冗談だとしか思えなかった。

「貴女は…?」
「それっていちいち聞く意味あるの?」

 余暉。その名を口にすれば、ほらねやっぱり、そう言いたげに彼女の瞳が細くなる。

「……驚きました、僕の知ってる余暉とは随分違う」
「お兄さん、私の事知ってるの?」
「いいえ。でも、余暉の事は知っています」
「あはっ、何それ。言葉遊びみたいだね」

 市場で目を合わせた瞬間に直感した。彼女は余暉じゃない。三蔵から聞かされていたもう一人だ。
 近くにあった屋台が吹き飛んだと同時に身を翻した彼女を、反射のように追いかけた。確信があった訳でも、何か考えがあった訳でもない。ただ予感めいたものが身体を突き動かしていた。けして小さくはない爆発だ。怪我人も出ていたかもしれない。それでも足は止められなかった。
 集まり出した野次馬の合間を、彼女は持ち前の小さな体躯でするすると抜けて行く。徐々に暮れ出した空の下、溢れ返る色を薄闇に浸した市場の中で、彼女の纏う白衣の白だけが鮮やかだった。
 すみません。通して下さい。繰り返し口にしながら、明滅のように人波に消えてはまた現れる白を懸命に追う。
 このまま彼女を追って行くのは危険だ。火の気のない場所、それもあんなタイミングで起こった爆発が偶然であるはずがない。わざと自分を追わせるように仕向けておいて、彼女が何の罠も用意していないとは思えなかった。これは仄暗い穴を目指して走っているのと同じなのかもしれない。少女が兎を追って深い穴の底へ落ちて行ったように。
 花喃を失ったあの日、ちらりとも掠めなかった虫の知らせのことがずっと頭を回っていた。
 彼女と余暉の繋がりも、追いかけてどうしたいのかも考えないまま、ただあの日を取り返そうとするかのように走り続けた。
 夕闇に浸食された路地へ飛び込んだ彼女の腕を掴んだ所までは覚えている。けれどそこから先は全くの黒一色に塗り潰され、気がついた時にはもうこの部屋に転がされていた。

「ま、ゆっくりしていってよ。なんならお茶でも出そうか?」

 言い回し。表情。視線の投げ方や何気ない仕草の一つ一つまでもが余暉を彷彿とさせる。
 三蔵から事前に聞いていなければ、やはり自分も気付かなかっただろうか。
 それともいま目の前にいる彼女が八戒の知る余暉なのか。
 見れば見るほど際限なく疑念が湧き上がってくるのに、八戒は一度ゆっくりと目蓋を閉じる。そして開いた先にある彼女の目を見つめた。
 余暉はいますかと訊ねれば、「ここに」と彼女がチェシャ猫の顔でにたりと笑った。






********





 開いた扉の向こうに巨大な鏡。かと思えば余暉がそこに立っていた。
 仕方なく役目をこなしてでもいるようにぽつぽつと疎らな光を落とす白色灯と、それに対抗して下から煌々と明りを投げるモニターの画面。それらを背後に従えた彼女の目が、余暉を認めて細くなる。

「や。久しぶり」

 来訪者である余暉へ向け、余暉は軽い調子で片手を上げた。
 食卓代わりの作業台を挟み、用意されたコーヒーへほぼ同じタイミングで口をつけた。椅子などはなく立ったまま、一方は身を乗り出すように台へ肘をつき、もう一方はわき腹を押し付けるようにして台にもたれている。

「来てるかなって思ってんだけど、やっぱりね」
「あれ?ばれてたんだ。ひっそりこっそりしてたつもりなんだけど」
「ゴロツキが騒がしくてね。そこまで恨みを買った覚えもないもの」
「ま、何はともあれようこそ私の城へ。来てくれてうれしーよ」

 所在は知っていたが実際にこの場所を訪れたのは初めてだった。元が何かは知らないが、打ち捨てられ朽ちるままとなった施設の中には、まるである日突然人だけが消え失せたように、埃を被った書類やら実験器具やらが置き去られている。
 そんなごそりと中身の抜け落ちた空間で、改めて余暉は向いに立つ彼女を眺めやった。
 ため息を吐きたくなるほど、自身と寸分違わぬ姿がそこにはあった。
 まるで鏡像。数年の時が余暉にもたらした変化を、余暉もまた同じだけ身に纏っている。
 二つの秒針が、狂いもせずに同じ時を刻み続けている証明のように。
 長く時間を共有してきた結果ではない。始まりから同一なのだ。
 生まれ落ちた瞬間に真逆の環境へ放り込んだとしても、自分たちはこのように育っていた。
 余暉は自分であり、彼女もまた余暉である。
 それは純然たる事実であり、どこをどう切り取った所で疑いようもなかった。
 誰が初めにこの名を呼んだのかは知らない。見も知らない両親か、それとも自分たちを拾った者達の中の誰かではあるのだろうが、考えるのが面倒だったのか、それとも見分けがつかなかったか。どちらにせよ小汚い子どもが一人だろうが二人だろうが大して違いはなかったのだろうし、特に興味もなかったに違いない。
 与えられた名は一つきり。それで特に不自由はなかった。
 同一の遺伝子を持った一個体。自分の思考は彼女の延長線上にあり、彼女の思考も自分の延長線上にある。境目は判然とせず、口をつく言葉はどちらのものか分からない。どちらでもよかった。どちらのものでもあったから。

「それで、本題なんだけど」

 形ばかりの近況報告を二言三言。せめてものお愛想であるそれを終わらせ、余暉はさっくり切り出した。

「いるでしょ?」
「いるね」

 答えながら、質問の意図するところを即座に読み取り、余暉は鍵を取り出す。けれど鍵は伸ばす余暉の手から、スイと逃げてゆく。

「見に行くの?」
「もちろん」
「寝てるけど」
「それも一興かな」

 返る答えがお気に召さないか、ふうんと些か不満げな呟きを零し、「そういえばさ」と一度逸れた目が探るような一瞥をくれる。

「私は知ってる余暉じゃないってさ」

 今度はこちらがふうんと気のない返事を返す番だった。

「ずるいなぁ。抜け駆けじゃん」
「そっちが大々的にのぼりでも立ててくれてれば違ったのにね。とばっちりもとばっちり、こっちもそれなりに面倒だったし窮屈でもあったんだからさ」
「それはそれは。ところで提案なんだけど」

 くつくつと喉で笑いながら余暉は鍵を差し出した。

「共有しない?」
「共有?」

 受け取ろうと手を伸ばすも余暉は鍵を手離さず、それぞれが両端を掴む形で二人は顔を見合わせる。鏡像のようなその口元が描く弧をなぞるように、余暉もまた口の端を歪めた。

「それって生きたままってわけじゃないんでしょ?」
「もちろん。逃げ出したりしたら面倒だからね。それに物と違って動くし喋る。声や自由を奪っても良いけど、かかる手間やコストもある。感情があるならどうしたって偏りは生まれるけど、そうでないなら完全に平等だ。超平和的かつ合理的な答えだよ。後は私達が上手く共有すればいい。もう取り合って壊すのはごめんでしょ?」

 自信に満ちた口調。余暉にとって最善の解決策を提示したに違いない。
 戯言も戯言だと薄く笑って、余暉はその手から鍵を引き抜いた。

「私は取り合ったつもりはなかったけどね」

 答えに、余暉の目が細くなる。
 意見の相違などないと信じているのか、それとも理解が出来ないのか。あるいは頑なに理解を拒んでいるのか。きっとそのどれもが正解なのだろう。息をするように何もかもが同じで当然だったのだ。このズレは不可解であると同時に不愉快でもあるに違いない。

「ならなんでまだ怒ってるのさ」

 不貞腐れたような声が追ってくるのを拒むように、余暉の後ろで扉が閉じた。



 




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