モザイクロジック


 
おそらくは首につき付けられていた刃が掠めたのだろう。

「深くはなさそうですが…」

余暉を座らせ、洗ったばかりの傷を拭う。
首からだらだら血を流し続けているくせに医者にかかるは断固拒否、せめて手当てをとの八戒の言葉にも鬱陶しげに首を振るのを、どうにか宥めすかして連れ帰った。

「こういう時、すぐ傷が塞げたりなんかしたら便利なんですけどねぇ」
「いーじゃん別に。これくらいならくっつけときゃ治るってば。別に傷なんて残っても構いやしないよ。ていうかさ、お兄さんだって出てるじゃん。色々」

言いつつ余暉が自らの頭を指し、八戒は顔をしかめる。

「……それ、とってもグロく聞こえません?」
「だってとってもグロいもの」
「ご自身の傷を見てから物を言って頂けますか」
「血だけだよ」
「僕だってそうですよ」

改めて深さを確かめてみれば、彼女の言うくっつけておけばが微妙に怪しい傷だ。
眉を寄せた八戒に、いつものような軽口を叩きながら余暉はどことなく冷やかな眼差しを投げ返した。

「痛くないんですか?」
「ん?うん、痛いね。麻酔が欲しいから一杯やって来ていーい?」
「ダメに決まってるでしょう。怪我人なんですから。一応は」

浅いが、傷は控え目に口を開けていた。塞ぎ、再び開く事のないようテープで固定していく。気に入らないらしく、むずがる余暉が八戒の手を払いのけようとする。

「けど百薬の長って言うじゃない、案外どんな薬よりも効いちゃうかもよ。……ねぇ、思うんだけどさ、楽しいに草かんむり足すだけで薬になるでしょ? もしかして究極のお薬って楽しくなれる葉っぱのことなんじゃないの」
「楽になれる草じゃないんですか?」
「それって、つまりは毒ってこと――――ねぇ、わざと痛くしてる?」
「至って普通ですよ。多少イラついてはいますが」
「あー、それかな。原因」

青い静脈が透ける肌を痛々しく分断する傷へ視線を落とし、早くも包帯を玩具にし始めた余暉の手からそれを取り上げた。頭上に冷笑が降ってくる。

「イラつくんならさぁ、さっさと帰してくれれば良かったのに」

その意見は至極もっともだ。
彼女がじゃあねと背を向けた瞬間、多少なり驚きはした。いつもならば例え追い払おうとしたってああだこうだとひたすらに屁理屈をこねながら後をついてくる彼女だ。それが速やかに引き上げようとは思いもしなかった。
怪我を悟られたくない、という野生動物的理由ではないだろうし。収め切れずに持て余した苛立ちをまさか余所へ向けはしないかと、そんな勘繰りも頭を掠めはしたけれど、様子を見る限りはそういった理由でもなさそうだった。なら好きにさせればいい。頭ではそう思いながらも、行き着いたのはこの結果だ。

「あなたがこれに適切な処置をするとは思えなかったもので」

どうせ一人では治療らしい治療もしなかったに違いない。八戒の知る彼女なら、包帯で一巻き二巻きして見えなくなればそれで良しとしかねないし、最悪の場合、傷に接着剤を塗りたくって塞ごうとする可能性だってある。
そんな事を思う自分は結局のところ、彼女がまともだなんて一欠片も思っていないのだ。
無害かと訊かれたなら話を濁すし、扱い易いかと訊かれれば直ぐにも首を振る。
それでいながらこうしてあれこれと世話を焼いているのは、どう考えても矛盾していた。それを矛盾だと知りながら手をかけるのは、自分もまた、まともであるとは言い難いからに他ならない。

「どうしようと私の勝手じゃない。違う? そんな事はさして重要じゃない。お兄さんが思うよりずっとね」

止めなくてよかった、と彼女は言う。

「素通りしてくれて良かったんだよ。路地の前だって」
「―――そうですか。それはお邪魔をしてしまったようで」

最後に包帯の締まり具合を確かめ立ち上がろうとした八戒の脇で、足が振り上げられる。避ける間もなくその足が肩にかかり引き寄せられた。
足癖にも難あり、と頭の中で広げた彼女のプロフィール欄に書き足しながら、八戒は余暉を見上げた。座面に両腕をつき、悠然とこちらを見下ろすその顔は、笑ってはいるけれど穏やかとは言い難い。

「お兄さんまでそっち側に回らないでよ。この身体がどれだけのものかちゃんと分かってる? こーんな傷つけてくれちゃってさ」

額の傷に温度の無い余暉の指先が触れた。痛みがちりりと肌を焼く。

「ま、私のせいなんだけどね。さっさと吹き飛ばしておけば良かったよねぇ」

言って肩を竦めた彼女の足は、いつの間にか腰の辺りへ回っていた。両足で作られた輪は、獲物を逃すまいと後ろで固く閉じられている。
思わず口の端に浮かべた苦笑に、彼女が怪訝な顔をした。

「……何?」
「あぁ、いえ。……怒るんだなー……って。少し意外で」

しかもこんなことで。
怒りも喜びも、関心のある所にしか生まれない。何が起こっても飄々と凪いでいられるのは、執着が薄いからに他ならない。どうでもいいからこそ楽観視もするし、大抵の事は、例え生命に関わるような事だとしても、まぁいっかで済ませてしまう。
八戒の知る黄 余暉は、そういった生命力のようなものを大幅に欠いた人間であった。
殴られ蹴られしていた時も、彼女はいつもの薄笑いを張りつけ、怒りを露わにするでもなくただされるがままになっていた。まるで誰かが痛めつけられているのを傍観しているかのように。どうかすれば私も仲間に入れてとでも言い出しかねない顔をして。
そんな彼女があそこまであからさまな敵意を剥き出しにした原因が自分にあったのだとすれば…、

「…ねぇ、おにーさん」

頬を、まるで壊れものでも扱うような余暉の両手が包みこんだ。

「もういっそ私に殺されない?」

視線の先、顔を近づけ瞳を覗き込んだ彼女は三日月を模した目をして笑う。その目で瞳の奥を窺いながら、薄く開いた唇は薄氷のような言葉を紡ぐ。
小首を傾げ八戒を覗き込む瞳は、絡め取るように心臓へその細い指を巻きつけてくる。
一度ゆっくり目を瞬いてから、八戒は頭の中で言葉を繰り返した。
そんなにも彼女の目には魅力的に映るのだろうか。忌むべきものであるこの身体が。

「終わりにしようよ。ここらでさ」

モノクルの下へ潜り込んできた指は氷のように冷たく、それでいていやに熱っぽく閉じた瞼の上を撫ぜていく。

「優しくするよ? どこも無駄にしないし、どのパーツも綺麗なまま置いといてあげる」

そこに在る義眼の存在を確かめるように。或いは、かつてこの穴を埋めていた片眼を惜しむように。指の腹で、背で、時に爪の先で。彼女は薄い膜の下に収まる柔らかな曲線をなぞっていた。暗い瞳を細め、口説く声音で自分の為に死なないかと囁きながら。
残る片目も閉じ、八戒は小さく息を吐いた。

慣れとは恐ろしい。この提案に動揺一つしていない自分が怖い。
薄ら笑いを纏う瞳は考えをまるで読ませてはくれない。例え次の瞬間に彼女がこの指で眼球を抉り取ろうとしても、あの薄く笑んだ唇から覗く歯を突き立ててこようとも、きっと自分は驚かないに違いない。
嫌悪や拒絶、不信感。どれも少なからずあった筈なのに、いつの間にか触れられる事にも慣れてしまった自分がいる。怠るまいと思っていた警戒でさえ近頃はお座成りだった。
もしも、この提案に頷いたとしたら。彼女はどうするだろうか。
彼女の言う優しくがどういう類のものかは置いておくとしても、苦しみや苦痛をというのではなさそうだ。

想像する。手指や眼球、自分でさえ見た事のないような体の一部が、液浸標本となって、アルコールを満たした瓶の中にたゆたう様を。あの廃墟を思わせる薄暗い部屋の中、鎮座する古びた棚の一つだけ真っ直ぐに渡された棚板の上で、時を止めたそれらが沈黙を守り整然と並べられている光景を。

残る片目で、八戒はぼんやりと余暉の瞳を見つめた。深い黒は上質な漆器のように混じり気がなく、底のない穴へ落ちていくような錯覚さえ感じる。
答えを急かすように、瞼に飽いた指が唇をなぞった。艶めかしさはなく、澱みのない熱だけがそこにある。飽くなき探求心。あるいは興味。どの言葉ならしっくり嵌るだろうか。あらゆる打算をかき分けたその奥にある、子供のような熱と、ほの暗い残虐性。

「――――せっかくなんですが」

触れる指をどかした八戒に、余暉はねだる仕草で小首を傾げた。

「ダメ? これが永遠に私のものになると思うと死ぬほどぞくぞくするのに」

手に入ったら途端に興味を失くして放り出しそうだけれど。

「そろそろ足を解いて頂けると嬉しいんですが」

言うと同時に首の後ろに腕が回った。もちろん足だってそのまま。むしろ締めつけが強くなっている気すらする。痩せぎすのコアラにしがみ付かれる枝にでもなった気分だ。

「嫌がられるのって最高に燃えるよね」
「…同じ言語で、どうしてここまで言葉が通じないんでしょう」
「それはね」と、ふいに声のトーンが変わる。
「――――分かり合う気がないからだよ」

間近に見た瞳は、路地裏に転がるピアスの男へ向けられていたものよりも数段薄暗いものに見えた。
挑発的でありながら、その目は注意深く獲物の出方を窺い、変化の一つも見逃すまいと表情を追っている。

「………ありましたよ。少なくとも僕には」
「それってさァ。おにーさんはどういうつもりで言ってるの」

底無しの闇にも似た瞳の奥に、冷たい凝りのようなものが揺らめいた。あるいは苛立ちともとれる何か。
気付けば絡められた足が解けていた。体温を奪われるばかりだと思っていたのに、解放された背が妙に肌寒く、枷が消えてもその場を動かないまま、八戒は彼女を見上げた。

「どう、とは…?」
「野良猫に餌をあげる人間も、貰う側の猫も、相互理解を結ぼうなんて思ってないでしょって話」

まるで時間を遡ったようだった。初めて彼女を見たあの日に。
廃墟と化した研究所。罠が山と仕掛けられたその最深部で、機器のモニターが発する青白い光に照らされた彼女は、今と同じ顔をしてはいなかっただろうか。
鋭く油断のならない瞳。終始にやにやと笑みを含んだ唇から、いたずらに相手をつつき回す台詞を吐き出しつつも、目の奥はまったく笑っていない。

「典型的だよね、お兄さんのはさ。憐れんでる訳でも可愛がろうってんでもないじゃない?人って内面がぐらつくと外に救いを求めがちでしょ。誰かに必要とされたい。肯定されたい。それが意味になるし、立て直しに繋がるから」
「―――…僕が何かの世話をする事で情緒の安定を図っている、と?」

ぱちんと余暉が縮小版骨格標本のような指を鳴らした。そうしてその人差し指は、彼女の腰かけている椅子を指す。

「今、私がここに座ってる理由がそれ」
「………」

機嫌が良かろうと悪かろうと、いついかなる時であってもこの口元には笑みが浮かぶ。吐き出されるのが偽りでも真実でも、それは変わらない。

「…そろそろ休戦にしませんか」

切り上げ時だとばかり、小さな溜め息とともに八戒は立ち上がった。
物言いたげな視線から逃れ、台所へ向かった背中に声がかかる。

「金色のおにーさんに言っといてよ。様子が知りたきゃ自分でおいでって」

振り返った先にもう彼女の姿はない。宙に笑みだけが残されている訳もなく、声だけを置いて煙のように消えてしまった。



暗にもう会う気はないと言われたのか。
薄っすらそんな予感は抱きつつ、三蔵側とまた何か密談めいた事をしていたのだろうかと思ううちに数日が過ぎ、結局八戒はいつかの悟空のように彼女の分の食事を携えて廃墟然としたその家の前に立っていた。

放っておきたいのは山々だが、嫌でも様子を見に行かざるを得ないのだ。三蔵は監視と言うが、その実、出されているのは協力要請に近いのではと、曖昧な力関係を見る度に感じている。逃げられては困るが拘束も出来ないとなれば、根比べをするだけ分が悪い。
相も変わらず、外れたまま捨て置かれている玄関ドアの隙間を潜り、中へ踏み入った。上下左右、剥き出しのコンクリートが続く屋内には、以前陽のある時間に訪れた時よりも一層深く濃い闇が横たわっていた。間引かれた裸電球にぽつぽつと照らし出された廊下は、出口の見えないトンネルを行くような閉塞感に満ちている。
ざりざりと靴底に擦れて砂が鳴っていた。最奥にある部屋の前に辿り着くと同時に、八戒は小さく息を吐いた。
玄関を入って三歩目と、以前彼女に聞かされていた対侵入者用の罠は見当たらず、いつ足が吹き飛ぶかとの危惧も杞憂に終わったようだ。

扉の隙間からは幽かな光が洩れ出ていた。
蛍光灯の明りでは無かった。赤みの、どこか心許ない光を零し、誘うように薄く開いた扉。
ドアノブの硬い冷たさに、瞼に触れた彼女の指先を思い出す。まるでホラー映画のワンシーンだと思いながら、ゆっくり扉を押し開けた。
四隅を闇に浸食された部屋の端には古い型の石油ストーブがぽつんと置かれ、側のベッドの上では横たわった余暉が本の上から覗かせた目だけでにまりと笑んだ。
どうやら歓迎はされていないらしい。

「言ったのに」
「伝えましたが、案の定ふざけるなで一蹴されまして」

聞き入れて貰えるどころか、三蔵にはとっとと見てこいと顎で扉を指された程だ。
その上、数日姿が見えないだけで悟空だけではなく悟浄からも彼女の名が出ていた。セット扱いをされつつあるのか、押しつけられた立場上か、余暉はと尋ねられたところでその質問に対する答えを八戒は持っていない。

「自分で蒔いた種でしょう?」
「居所がバレてると不便だね、お互い」
「えぇ、まったくです」

いっそ知らなければ、それを理由に捨て置く事もできたのに。
言って、八戒はその枕元へ視線を投げた。無造作に転がる小瓶。ラベルはないが、中身はアルコールの類だろう。
起き上がる余暉の薄っぺらな肩から、さらに薄っぺらな毛布がずり落ちる。
常に羽織っていないと落ち着かないのか、いつもの通り、彼女は薄汚れた白衣を纏っていた。

「食べてるんですか? せめて一日一食くらいは」
「なーんだ、わざわざそんなこと聞きに来たの?」
「そういう訳でもないんですが」

コンロはあるかと訊ねれば、余暉の指はストーブを指した。中心部でちろちろと赤と青の炎が揺れている。その光がこの部屋唯一の光源だ。片手に提げた袋の中から取り出した小鍋をその上に乗せ、タッパーの中身をあけた。卵をといて葱を散らした雑炊がとろりと鍋に広がる。

「用意が良すぎるよね」
「あなたの家なら何が無くてもおかしくありませんし。一切火の気が無いようならいっそ焚き火でもしようかと思っていましたから」

照らす灯が彼女の頬に色を乗せていた。いつもは冷たく作り物めいた血色のない肌も、今ばかりは生きた色を宿している。

「あんまりにも抜かりが無い、ってのも面白みに欠けると思わない?」
「さぁ、どうですかね」

どちらとも応えず、温まるのを待って鍋をかきまぜ続ける。
やがてふつふつと煮え始めたそれを椀によそい隣へ腰を下ろした八戒を、石のような冷たい瞳が見上げた。一人分にも満たない量の雑炊を受け取りはしたものの、彼女は一口だって口をつけず、ドロドロになった米の一粒をスプーンの先にちょんと掬い出しては、またでんぷんの海に沈めるということを繰り返していた。
まるでささやかな神様ごっこを楽しんででもいるように。
その間彼女は何も喋らず、八戒も黙って鍋に残ったお粥が小さな気泡を浮かべる様子を眺めていた。

沈黙が妙に気詰まりだった。
今まで余暉は絶えず、とりとめもなくどうでもいいような話題を提供し続けてくれていたし、たまに脱け殻のように言葉の無い時間が訪れたとしても、彼女のもたらす沈黙は、けして居心地の悪いものではなかったのだ。
けれどいざ自分から話を振ろうとすると、そんなどうでもいい話題すら浮かんでこない。

ふと背後に気配を感じ振り返った。がらんとして隠れる場所もない部屋の中には、他に誰の姿もなかった筈だ。視界の隅、随分と低い位置から一対の瞳が八戒を見上げていた。
ベッドの上、暗がりに溶け込むように蹲っていた濃い影が、細く伸び上がって猫の形をとる。
少しばかり拍子抜けして、八戒はビー玉のような瞳を見つめ返した。
裂けるように大きく開いた口から鋭い牙を覗かせ欠伸をひとつ。猫は怠惰な足取りで余暉の側まで行くと、まるで頭突きをするみたいに勢いよく彼女の背に額を押し付けた。

「飼ってるんですか…?」
「まさか。いつまで経ってもドアを直してくんないから、住みついちゃってね。勝手な同居人、って感じ」

外よりはいくらかマシだったんだろうねと、頻りに顔を擦りつける猫の相手をしながら彼女は言う。

「名前はあります?」
「ねこ」
「………」

暖簾に腕押し状態の応答に閉口する八戒に、にたりと笑い、つけないよと余暉は言う。

「ある日突然違う猫に変わってても、私は気付かないもの。だからねこが普遍的かつ唯一の正解」
「……顔を出さなかったのはその子の面倒をみていたから…だったりします?」

「そうだね」と、軽い調子の返事が返って来はしないか。そんな思いに反し、余暉は再びまさかと口の端を歪めてみせた。
言ったでしょ。そう、彼女の目に言われた気がした。

「潮時だと思うんだよね。ここにももう長居はしないかな」
「勝手に決められるものでもないでしょう」
「勝手に決められないって、勝手に決めちゃわないでよ」
「……言葉遊びをしに来た訳ではないんですが」
「なら、おにーさんは何しに来たの?」

様子を見に。その言葉が喉でつかえた。行方をくらませてはいないか、生存確認、素行や食事の確認と、様々な言葉が頭で回る。
言いあぐね、躊躇いの後に八戒は口を開いた。

「……少し、話をと思いまして」

以前の話をと付け加え、八戒は肩で大きく息を吐いた。それに、別にいいよと声が返る。

「しなくていいよ」

もう飽きちゃった。食べる気のない雑炊へ向けていたのと同じ、すっかり興味を失くした顔をしてあっけらかんと彼女は告げた。

「だからもうやめにしよう。無駄な労力は使わない主義でね。お兄さんもさ、ほどほどにしとかないと窮屈なばっかりだよ。何でもそう、生物でも無生物でも。聞こえは良いか知らないけど、情も愛着も抱いて良いことなんて何にもないから」

椀を持つ腕の上を、かまえとばかりに猫が跨いで行く。ピンと伸びた尻尾を手の中で滑らせながら言った彼女の言葉を、しばらく頭の中で転がした。そうして改めて、表情に乏しいその横顔へ目を向ける。

どれだけ固執してる風な事を口にしていても、手放す時は拍子抜けする程あっさり手を離すタイプだと思っていた。壊れたら壊れたで構わないと、さっさと次に行ってしまうような。
けれど潔くも薄情なその言葉の断片を繋ぎ合せてみれば、もっと別のものが浮かび上がって来る。

「だから、手放そうとするんですか? 情も愛着も、手の中にあるのが怖いから」

訊ねた八戒を、感情のない瞳がひたと見つめた。
大切であればあるほど、失ったときの痛みも大きい。だから手放そうというのは、分かる。誰かに奪われることも、突然に、それこそ不意に吹き抜けた風に攫われ失くしてしまうことだってある。いっそ自分が壊れてしまった方が楽だとさえ思えるほどの耐えがたい苦しみ。それを味わうくらいなら、始めから何も持たない方がいい。

見られたくないものを見つかってしまった高校生のような、バツも座りも悪そうな表情が浮かぶ。
意外な、それでいてすとんと腑に落ちたような妙な感覚。

「……僕は、ずっとあなたのことが苦手だったんですが」

言いつつ、いい加減焦げ付きそうな鍋の残りを椀へよそった。

「自分も食べるの?」
「僕もまだなんです、夕飯」

切り出した告白が彼女を揺さぶる気配は微塵もなく、何でもいいけど、といった風に余暉は八戒の手元へちらりと視線を投げた。

「それはたぶん、感じられなかったからなんだろうと思います。あなたから、生きようだとか、そういった気力みたいなものが」

塞がりかけた傷口へ悪戯に爪を立てられるのは不快でしかなかったし、彼女の人となりにも大いに問題はあるが、全てを、自分の命すらも簡単に投げ出してしまいそうな彼女が怖くもあったのだろう。

「あれだけ多くの命を奪って置きながら、まだ身近なひとが死ぬのは怖いんです」

負の側へ引き摺られてしまいそうで、無意識の内に遠ざけようとしていたのかもしれない。
けれど何くれとなく世話を焼き続けた理由もおそらくそこにある。

「身近?」

珍しく口を開かず、じっと八戒の声に耳を傾けていた余暉が口を挟む。

「えぇ」と頷けば、いつものにやついた笑みの欠片が消え去った。

「あれから少し考えてみて、確かにあなたの言う通りかもしれないと思いました。悟浄に生活力が無かった事も、僕には幸いしていたでしょうから」

掬った匙の上、口に入れられるまでに冷ました雑炊を口へ運ぶ。我ながら味付けは申し分ない。舌の上をとろとろと焼く熱は、胃に落ちて冷えた身体を芯から温めてゆく。

存在の肯定と、意味。
言い得て妙かもしれない。丁度良く空けられた隙間にすぽりと収まってしまえば、地に足がついたような安心感が確かにあった。悟空に勉強をと、そんな名目で三蔵の所へ通うようになったのもそうだ。するべき事があるというのは有難かった。
彼女の言うように、自分の生に意味を見出せた気になっていたのかも知れない。
ちっぽけな存在意義。けれどそれは思う以上に大きな効力を発揮した。
何もかも失い、この身すらも投げ出そうとしていた自分は、まだ彼等の側で生きようとしている。

「でもたぶん、それだけでもないんじゃないかな、と」

生の淵から死を眺めているような彼女の手を取りたくなったのは、諦観の滲む暗い目に自分を重ね合わせたからだ。

「真似事がしたかったんです、きっと」

彼らが自分にそうしたように。自分にもまだ、誰かに差し出せる手があるのだと。
視線を向ける先には彼女と、彼女に擦り寄る猫がいる。
ついに退屈が頂点に達したか、聞いているのかいないのか分からない顔で余暉が雑炊をひと匙口へ運ぶ。のろのろとではあるが、余暉は椀の中身を食べ進めて行く。

「おいしいですか?」
「……慣れって怖いよね」

そんなことを言ってのけた余暉に、八戒はほろりと笑み崩れた。同感です、と。
今のこの状況がまさにだ。
胸の奥がじわりと温かい。一足先に器を空にした八戒が自分を眺めていることに文句を零してみたり、かと思えば何の脈絡もなく不可解な持論を持ち出してみたり。小休止を挟みつつも、その匙がなかなか止まる気配をみせないからかもしれない。

「相互理解なんて大層なものでは無いんですが。いまは、少しなら知ってみてもいいかなと思えます。その頭の中にある、到底理解出来そうもない世界のことを」

言えば、余暉はちょうど口に入れたばかりだった雑炊をたっぷり時間をかけて飲み下してから、ひらめいたとでも言うように匙でカンと器のふちを鳴らしてみせた。

「なるほど。ワンダーランド」
「……ではなく、意外に地に足の着いた……を通り越して深い深い地面の奥底で蹲っていそうな女性のことですかね」
「もぐらじゃん」
「お気に召しませんか? 好きなんだと思っていたんですが。前に悟浄としてたじゃないですか。もぐら談議」

記憶の中をさ迷うように、余暉の目が宙を泳ぐ。

「いっそそうなら良かったと思う事はあるけどね。地中深くに埋まってれば、季節がうつろっても、馬鹿みたいなお祭り騒ぎが起きてても無関係。照りつける太陽だって見なくて済む。でしょ?」

椀を持つ余暉の腕を乗り越えた猫が、狙いすましたように彼女の顎へ頭突きを喰らわせた。
ああもうと忌々しげに猫の頭を顎で押さえつける様子にひとつ笑みを零し、八戒は言う。

「なら、僕が穴を掘りましょうか」
「なにそれ、わざわざ埋めてくれるの?」
「地上と繋がる穴をですよ。あなたの埋まっている所まで」
「え、余計なことしないでよ」
「だってつまらないでしょう。たまには外を覗いてみるのも良いもんですよ」

はっと乾いた笑いを吐き出した彼女の目に、ちろちろとストーブの明りが揺れる。
塞がれた窓、次いで天井や壁を見渡した。光の届かない部屋の隅はひっそりと闇に沈んでいる。空気が滞り、夜よりも尚暗いこの部屋は、まるで掘り抜かれた穴ぐらのようでもあった。あぁ、と今度は八戒が手を打つ。

「―――いっそのこと、降りてみるのも面白いかもしれませんね。あの三人を連れて。ついでにお弁当も持って」
「史上最高のお節介だね。うるさいったらないじゃない」

言いながら、余暉が笑みを浮かべる。いつものチェシャ猫を思わせるそれとは違う、苦笑交じりの笑みだった。
かと思えば突然に口元を押さえ余暉は俯く。
何事かと、震えるその肩に触れようとして、それが笑っているのだと気付いた。
何かツボに入ったのか知らないが。なぜか酷くウケているらしいことだけは分かる。
そのうち声をたてて笑い出した余暉は、呆気にとられる八戒を置き去りにひとしきり笑い、やがて顔を上げた。

「あー……おっかしーなァ」

目尻に薄く浮かんだ涙を指で拭い、彼女は言う。

「こんなつもりじゃなかったんだよ。本当に」

退廃的な笑みを口の端に浮かべては、また可笑しさが込み上げてきたのか、小さく呻いた余暉が天井を仰ぐ。考え事をするときの癖なのか、遠い視線を虚空へ注ぐその唇が小さく言葉を紡いだように見えた。
耳に届いたわけではない。けれど一瞬、“どうするかな”と音のない声が聞こえた気がした。




「結局戻ってきてんじゃねーか」

言った悟浄がテーブルにへばり付いていた余暉を指差す。そこへ余暉が自身の指先をちょんと合わせてみせれば、その眉間に深い皺が寄った。

「説明しよう。それは私とお兄さんがついにただならぬ関係になった証明であって、」
「虚偽の報告はやめて下さい」

放っておけばあることないことをぺらぺら捲し立てそうな余暉を押し留め、「何はともあれ、元通りということで」と八戒は肩を竦めた。

あれから数日、余暉は何事もなかったようにまたこの家を訪れるようになった。
全て元通り、と言いたいところではあるが、些か変わったこともあった。
当たりが少し柔らかくなったとでもいうのか。彼女が纏っていたごくごく細い針のような空気が消え失せた。はた迷惑な遊びを仕掛けるでもなく、突飛な言動もいくらか鳴りを潜めている。
代わりにと言ってはなんだが、

「少し肉がつきましたね」

言葉を受け、余暉は持ち上げた片手をしげしげと眺めてみせた。

「そうかな?」
「えぇ。会ったばかりの頃に比べれば」

棒切れのようだった腕が、ほんの僅かにではあるが曲線を抱いている。

「毎日毎日嫌ってほど食べさせられてるからね」
「当面は一日三食が目標です」

立て直し、修復、改善、そういった事柄に精神的な安定が付随するのは人の常らしい。悪くないと、比較的素直に思えるのは、自らもまた変化している証拠だろうか。

「そうか?相変わらず棒きれみてーなままだぜ」

全身をざっと見分し宣う悟浄に、遠慮も何もないなぁと余暉は重ねた腕に頭を預けた。パーツ単体で見ればあれほど硬そうな身体が、スライムのようにテーブルの上に融けてゆく。

「あんまり太るとなくなっちゃうかな、アイデンティティが」
「科学者がみんな骸骨的外見というわけではないと思いますが。まさかそれであえて絶食してたなんて言いませんよね」
「してたかもよ?何事も形から入っといて損はないしね」

八戒の台詞に細くなるその目も、随分変わった。三日月のような鋭さが抜け、目元がいくらか柔らかくなったように見える。
それは希望的観測による幻影だろうか。
そうであってもなくても、その小さな変化を彼女に教える気はない。どうせ鼻で笑われるのがオチだ。

「なー、にー?」

うっかり凝視してしまっていたのか、視線に気づいた余暉はちろりと意味ありげな視線を投げて寄越す。

「――いえ、思った以上に救いようがないなぁって」

救い、ねぇ。
八戒の言葉を口の中で転がし、へっと愛想など微塵も浮かべず余暉が嗤った。

 




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