それでは、また明日 | ナノ
 夕映え

やがて木から下りてきた少女はまた吐いたが、とっくに胃の中は空になってしまったらしく、黄色っぽい液体を僅かばかり吐き出しただけだった。
もう帰るべきだ。そうは思うも、べそをかく少女が尾形の手を掴み離さなかったので家にも戻れず、仕方なく川へ連れて行き、水を飲ませた。

そこへ行くまでの間頑なに繋がれていた手は、随分汚れていた。何を触っていてもおかしくない真っ黒な手。それを見て眉をひそめた尾形は何度か離させようともしたが、そのどれにも少女は耳を貸そうとしない。

そんな手も、川の水で漱げば嘘のように白くなった。甲は干された稲穂と同じ色をしていたが、そのぶん掌の白さが際立つ。それを横目に、尾形も丹念に手を洗う。

涙と汗と、何度も吐いた事ですっかり身体の中が干上がっていたのか、少女は夢中で水を飲んだ。水が流し込まれる度に上下する日に焼けた細い喉。口の端からこぼれた水が顎を伝い、先から滴り落ちる。
その様子は、まるで獲物を喰らう獣のようだった。一心に、生きる、という事をしている。

ふと手を止めた少女が飲まないのかと尾形に訊ねた。喉が乾いていないのかという問いに、乾いていないと首をふる。
ふうんと首を傾げ、再び浴びるように水を喰らうことへ戻った少女は、不意に手を止めたかと思うとじっと川面を見つめ、いきなりその流れの中へ頭を突っ込んだ。

ぎょっとした尾形の目の前で、川藻のように髪を流れに任せた頭は数秒水に浸されていたが、程なくして入った時と同じように勢いよく持ち上がった。
弾けた水が細かな粒になって撒き散らされ、ぷは、と開かれた口の端から小さな白い歯が覗く。そうして石の上へぺたりと尻をつけて座った少女は、ずぶ濡れになった頭を犬のように振るった。
面食らうやら、呆れるやら。飛んでくる水滴を避けようと腕を上げていた尾形に気が付くと、何が可笑しいのか「つめたい」と言って笑う。

野生児。そんな言葉が頭を過るが、尾形がそうではないだけで子供というのは皆こうなのだろうか。
比較しようにも、近所の子供たちが普段どういう風に遊び過ごしているのかはよく知らない。村では、これくらいの子供ですら、尾形に近寄ってこようとはしないからだ。

ぐるぐると考えを巡らす尾形の視線の先では、少女が雑巾のようにして髪を絞っていた。細い髪の束からは、まだ滴が連なり落ちている。
あれも、単なる思い付きだったのか。
その奔放さを振りかざし土足で踏み込んできた少女は、そこにさざめいていた静寂や寂寥をあっさりと突き崩してしまった。なんの遠慮も容赦もなく、当たり前のように奪っていった。

「……あのままにしておけば良かったのに」

ぐっしょりと濡れそぼった着物がはりつく薄い肩の線。眺めぽつりと呟いた尾形を、再び掬った水を口へ運んでいた少女は、含んだ水をゆっくり落とし込んでから振り向いた。

「あんな所じゃ、かえれないから」
「かえる?」

繰り返せば、丸い顔の中のさらに丸い目がじっと尾形を見つめる。真夏の陽光を呑み込んで、瞳の奥までもが透けるようだった。

「お父さんが、どんなものも土にかえってようやく死ねるんだって言ってた」

小さな口腔が吐きだす台詞に、ひそめられていた尾形の眉がすっと離れる。見下ろす双眸に、少女が僅かばかり顔を強張らせた。

「とっくに死んでた」
「…でも、言ってた」

自分だって、死んでると、そう言った癖に。
すくりと立ち上がり、たじろぎつつも言い返してくる少女に背を向け歩き出す。そのすぐ後を、河原の石を鳴らす音が慌てて追って来る。

「待って」

腕を掴もうとする手をぱしりと払えば、その事に酷く驚いたらしく、目が丸く大きく瞠られた。
満ち足りた目だ。何不自由なく、当たり前のように持っているやつの。

「――――うっとうしい」

同じだ。村で、両親に囲まれふくふくと笑っている子供を目にする度、静かにかさを増してゆく何か。この少女を見ていると、それがじわじわ滲み出してくる。

そんな扱いを受けた事など無かったのか、呆然と立ち尽くす様子を一瞥し、身を返す。
数歩も行かない内に、背後では置き去りにした少女がまた泣き出したようだった。

甘ったれめ。

背にかかる声を意識から閉め出し、足早に家路を辿る。再び雑木林を抜け、村を目指した。聞こえるのは自分の草鞋が枯葉を踏みしだく音だけだ。
思うより遅くなってしまった。日差しは和らぎ、木々の間からこぼれる光は真昼の白々しい色ではなくなっている。

手伝いを放って抜けだしていた事を知ったら、ばあちゃんが怒る。急いで戻った方が良い。
白昼に見た夢のように、何もかもが急速に現実味を失くして行く。ぶら下がっていた死体も、少女も。しばらくはあの松に近づくのもやめよう。もうあそこには何も無い。

神社の社が見える辺りで、林は唐突に終わる。はっきりと引かれた境界線。木々が途切れ、陰の切れ目が近づいてきた時、ふと、ざかざかという音が迫ってくるのに気がついた。嫌な予感に振り返ろうとした尾形の背に、何かが猛突進をかまし、ぐ、と喉の奥でくぐもった音が鳴る。
背骨をへし折ろうとでもしたのか、自分よりも背の高い尾形を吹き飛ばしかねない勢いで突っ込んで来たそれは、吹き飛ばしこそしなかったものの、尾形を転ばせ腐葉土に塗れさせるには十分な威力を持っていた。

動くものがなくなり、シン、とまたもや林は音をなくす。
湿った地面の上に肢体を投げ出し、しばし状況を呑み込むことに努めていた尾形は、やがてむくりと顔を上げ、口に入った土臭い枯葉の欠片を吐きだした。身を捩り、自身の上に覆い被さっているそれを振り返るが、それは腰にしがみついたままぴくりともしない。
退かそうとその濡れた頭を押しやるも、短い指はきつく尾形の着物を掴んだままだ。じわじわ布を伝ってくる湿り気が気持ち悪い。

―――と、その手が僅かに開く。ようやく離れるかと思いきや、手はすぐに先ほどよりも少し胸に近い位置を鷲掴んだ。その腕に、ずるりと身体が追随する。
墓穴から出てきた屍のようなそれが身体を這い上ろうとしていることに気付き、尾形は一層力を込めてその頭を押し返した。

けれどじわじわとしぶとく這い進んでくるのだ。互いに一言も発しないまま、今度ばかりは尾形も引けずもみ合いになる。そうこうする内、走ってもいないのに息が切れてきた。
何がしたいのか分からない。置き去りにした報復でもしようというのか。死んだ人間よりこの妙な生き物の方が余程不気味だ。

突っ張った腕の先で、あちらもまた負けじと力を入れたように思ったが、不意にかくりとその首が反った。持ち上がり、目に映った顔に思わず腕の力が緩む。
脳裏を過ったのは、くしゃくしゃに丸め潰されたちり紙だ。
人の顔というのはここまで様相を変えられるのかと思う程、原型を失くしつつあるその顔の中、への字に結ばれた口元に、先ほど取り込んだ分を全て流しきる勢いで滂沱の涙が伝い落ちていた。

「…帰れない」
「………」

押し退けようとする力が緩んだ隙をついて、小さな手が尾形の腕を掴んだかと思うと、身体全部でしがみ付いてくる。離せば死ぬとでも思っているのか、短い指は噛みつくように肌に食い込み、やがて根負けした尾形が白旗を振る頃になっても、その手だけは離れることがなかった。




どうやら少女は尾形と出会った時には既に迷子になっていたらしい。
影を踏み踏み、調子っぱずれな歌を口ずさむその後頭に西日が当たっている。
本当に帰る気があるのか。彼方此方へ気を散らす少女に付き合わされる内、日差しは大きく傾いていた。

結局尾形が家の敷居を跨ぐことは叶わず、抜け出したことはとっくにバレて、家では祖母が鬼の形相をして待っているはずだ。
帰れば延々と説教をくらうことになると思うと、尾形の足は重くなる。
落とす視線の先では、相も変わらず繋がれたままの手が橙に染まりぶらぶらと揺れていた。目を上げると、少女もまた尾形を振り返る。泣いていた事どころか、迷子になっている現状まで丸ごと忘れ去ってしまったかのように上機嫌で見上げるその目が尾形を映し、笑みの形になった。

「土にかえるって、土が家になるのかな」

それはかえるの意味が違うだろうと思ったけれど、説明するのも面倒で尾形は口を噤む。
田んぼのあぜ道に、影が二つ長く伸びている。握られた手は熱く、僅かに湿っていた。





ふとあぶくの様に浮き上がった意識に、尾形はゆるく目蓋を開いた。
夜は更け、騒がしかった連中もすっかり寝静まったようだ。梢を揺らす風の音が、潮騒のように耳朶を這い上ってくる。火の消えた家屋の中に凝る闇を、窓から差し込む月明りが薄めていた。
そんな中、焦点を絞らず薄ぼんやりと眺める先にあるものに気付き、尾形は一度重たい瞼を瞬いた。

いつの間にこんな所で眠っていたのか、向かい合わせで横たわるその肩がゆっくりと上下する。
今日は夢も見ずに眠っているのか。苦悶の表情も浮かべず、ただ静かな寝息を立てていた。無防備に投げ出された片腕。弛緩し開いた手のひらの膨らみが、淡い明りに青白く浮かび上がって見える。

「………」

ふと手を伸ばしかけた時、身じろいだ身体が寝返りを打った。微かに寝言のようなものが聞こえてくる。
束の間、向けられた背を見つめていた。やがて静かに手を引くと、尾形は小さく首を振って再び目蓋を閉じた。






翌朝。一行が滞在していたコタンには和やかな空気が流れていた。家々の間からちらほらと笑い声が聞こえ、子供がじゃれ合いながら駆けてゆく。
早々に仕度を終え屋外にいた尾形の前を、また一人、置いてけぼりを食ったらしい子供が横切った時だ。

「尾形ぁあああ!!!!」

静かな空気を破り、怒りに満ちた叫びが響き渡った。
屋外にいたアイヌの女たちが何事かと振り返る中を、声の主が一目散に駆けてくる。靴底で地を擦り砂埃を上げながら足を止めた娘は、その勢いを止めぬまま尾形へと掴みかかった。どういうつもりだ?と片頬を引きつらせ詰め寄ってくる。尾形が何か言おうとするよりも早く、しらばっくれるなと吠え、片手で自身の前髪をかき上げた。露わになった額には木炭の粉で黒く掠れた線が引かれている。“犬”と。

「お前、一体私になんの恨みがあるんだ?アシリパに言われるまで全く気が付かなかった」

視線を横に流せば、後をついて来たらしい小さな影が姿を見せた。

「何かのまじないかと思って訊いたんだ。そしたら、…っフ、」

淡々と語る調子が一転、噴き出す。

「笑わないでくれアシリパッ!見ろ!字の意味を答えてからずっとこの調子だ!急に地面にこの字を書きだした時に疑問に思うべきだった!」

尾形に向けそちらを指す娘の剣幕は、衰える気配を見せない。

「…証拠でもあるってのか?」
「お前意外に誰がこんな事をするというんだ!!」
「こいつ今朝はあんたの寝相で蹴っ飛ばされて起きてたからな。仕返しじゃねえの?」
「………」
「………」

叫び声に集まって来たのか、牛山を伴い現れた杉元が、立てた親指を向ける。その台詞に、尾形を締め上げていた腕がぴたりと動きを止めた。

互いに動きを止める二人を残し、そろそろ出発するぜとぞろぞろ去って行く杉元達の背を見やり、尾形は髪を撫でつけた。溜め息混じりに見下ろした顔もまた、複雑そうに尾形を見上げる。

「…手打ちにするか?」
「…蹴り飛ばしたのなら悪かった。だがお前も言うことがあるだろう」

苦り切ったその顔から目を逸らさずいれば、居心地が悪そうに身じろいだ。まだしつこく尾形の外套を掴んでいた手が緩む。

「な、なんだ…?」

執拗な視線を異様と感じたか、僅かに身を引くその様子を鼻で笑い、尾形は自身の額を指さした。

「よく似合ってるぜ」
「〜〜〜〜ッ、尾形あああああ!!!」



*********



背に被さってくるような絶叫に、杉元は背後を振り返った。置いて来た二人は未だ先の位置から動いてもいない。

「…何?あいつらって仲良かったの…?」
「…わからん」

尋ねた杉元に、牛山がゆるゆると首を振った。






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