それでは、また明日 | ナノ
 空蝉

 

じわじわと蝉が鳴いていた。
人気のない神社の裏手、肌を焼く日差しから逃げるように木陰へ入ると、すぅと冷たい風が頬を撫でた。
林は深緑が落とす陰に沈み、今の今まで容赦のない陽に当てられていた目には酷く暗い。
汗が伝ったように感じ、少年―――尾形百之助は、手の甲でまだ幼さの抜けきらない顎の線を拭った。

一本松まではまだ少し歩かなくてはいけない。ひとつ息を吐き、再び足を動かすことに専念する。
一歩進むごとに、半分朽ちて土に還りかけている枯葉が足を沈ませ纏わりついた。草鞋と足裏の間には土か葉か分からないものがたくさん入って肌をつつくし、鼻緒の所には、腐り落ちたか虫に食われたかしてほとんど芯だけになった葉が挟まっている。

不快感に僅かに眉を寄せた時、いつの間にか消え失せた蝉の声に代わり、耳がざらついた音を拾った。松が見えてきた。その遠目にもどっしりと太い幹に近づくほど、潮騒のように遠かったその音がはっきりと形をもってくる。
静寂の中、辺りに満ちるのは虫の羽音。
尾形のちょうど目の高さ辺りに、土気色をした足先があった。

ゆるく吹いた風が腐臭を運び、反射的に息を止める。
見つけたのは幾日前だったか。まだそれほど日は経っていないはずだが、気温が高いせいか腐敗が早い。臭いは日に日に強くなり、もう近づき過ぎると息ができない。

膝、腹、胸を辿り、さも重たげに顔を俯けている頭を見上げた。どこかで見たもののような気もするが、なにぶん顔は膨張し、人相がすっかり変わってしまっているので分からない。その頭の回りを、引っ切り無しに蠅が飛び交っていた。
だらりと紫色の舌を垂らす口腔からは、時折白い蛆がぽろりぽろりと零れ落ちている。

朽ちている、と思った。この男もまた、端から、それとも内側から、グズグズと朽ちていくのだ。

誰かが見つけるだろうと思っていたけれど。まだ誰も気付いていない。このままずっと、誰にも気付かれないのかもしれない。

松の幹には梯子が立てかけてある。年季の入った色をするそれは、まるで取り残されたように所在無さげだ。主だった男は、この梯子が風雨に形を失くすよりも早く、朽ち果てようとしている。

―――この男は

こんな所まで梯子を担ぎ、自分を縊る為の縄を結び、首を吊ったのだ。黙々と。それとも悲嘆に泣きくれながらだったろうか。
どちらにしても、もう何も語る事はできない。それは誰にも分からない。

じっとそれを見上げていると、虫の羽音に混じり、ざくざくと落ち葉を踏み鳴らす音が近づいてきた。間隔の狭い足音はおそらく子供のものだ。
暗い雑木林を振り返る。木々の陰から飛び出すように姿を現した人影は、予想していたよりもいくらか幼いようだった。
僅かに首を傾げた尾形に気づき、その少女は目を丸くして足を止める。立ち止まる動きに合わせて、結われてもいない髪が肩口で踊った。

「誰?ここで何してるの?」

開口一番誰も何もない。まるで自分の縄張りで侵入者を見つけたような物言いだったが、ここは尾形の縄張りだ。

大人でさえあまり立ち入らないこの場所をうろついている子供なんて自分くらいのものだから、少女は他所の人間だろう。少なくとも、知る範囲にこんなのはいなかった。
大人がおどかすせいもあって、近所の子供達はここにはとことん近づきたがらない。もっと村から近い遊び場はたくさんあるし、実際この辺りは首を括る者も多いので、自然と足は遠のく。

覚えのない顔はずんずん距離を詰めてきたかと思うと、尾形の真正面までやってきた。
これだけ薄暗い中にあるというのに、間近で見たその眼が何故か明るい色を浮かべて見える。
いつまで経っても答えが返らないことが不満なのか、尾形を覗き込むようにしてむっと眉根を寄せた。それから先刻まで尾形が見ていたものを見上げ、ただでさえ大きな目をこれ以上無いほどに見開いた。

悲鳴を上げるか腰を抜かすか。とっとと逃げ出せばいいのにと尾形はその横顔を見下ろすが、少女は松の枝に下がるそれに視線を注ぐばかりで微動だにしない。
どこか萎びたようになり、カラスにつつかれた箇所からは所々白い骨が覗いている。取り乱さないのはそれが何かも分からなかったからかと思ったが、一度瞬いた目を尾形へ戻した少女は、

「死んでる」

と短い言葉を発した。

「…そんなの、見れば分かる」

屍も尾形も、どちらも同じように真っ直ぐ見据えるその目は、怖がりもしなければ面白がる風でもない。
台詞だって、目に入ったそのままを言葉にしたに過ぎないのだろうが、十人並みの反応には程遠かった。

再び風が吹き、ざわざわと木立がさざめく。陰気な場所に似合いの湿った風に、少女が低い鼻を動物のようにひくつかせた。

「くさい」
「そりゃ、腐ってるから」
「じゃあ、下ろしてあげよう」

何を言うのかと、今度こそ尾形は眉をひそめた。
どうして、と尋ねた声に、きっぱりと「かわいそうだから」との返事が返り、落胆にも似た思いが胸に降る。

「死んだやつに、かわいそうも何もないだろ」

死ねばそれはもうただの“もの”だ。そこらにある枯れ木や腐りかけの葉っぱと同じ。元が人だったというだけだ。

「あるよ」

事もなげに少女は尾形の言葉を否定し、何を思ったか伸び上がるようにして大きく息を吸い込んだ。
肺も頬も膨らませ、ぐっとフタをするように手で口と鼻を塞ぐと、落ち葉の欠片を跳ね上げながら松へ向け駆けて行く。立て掛けられた梯子には目もくれず、幹に取りつくと子猿のようにするすると木を上り始めた。
どうやら本当に下ろす気でいるらしい。あの朽ちかけた身体を。

じっと見上げる尾形の視線の先で、少女が屍のぶら下がる縄が結ばれた枝に辿りついた。そこでとうとう息が続かなくなったのか、顔を赤くした少女の口がぱかりと開いた。

「―――あ」

無防備なその所作に思わず声が出た。
身体いっぱいで息をしようとして、けれど途中で痙攣を起こしたように身を震わせ、盛大に嘔吐いた音が尾形の元まで届く。

真上で息なんか吸えば当然そうなるに決まってる。ぼたぼたと泥に似た音を立てて降る吐瀉物を、尾形は無表情に見やった。惨状だ。もうあの松には近寄るまいと意を固める。

枝の上で動くものがあるのに気付き顔を上げると、まだ萎えていなかったらしい少女が、這い進んだ先に結わえつけられた縄に手を伸ばしていた。涙目で唇を引き結び、その間にも何度か嘔吐いていたが、頑として下ろす気でいるらしい。

けれど人一人吊り下げた縄がそう簡単に解けるはずもない。刃物もないのに、そもそもが無理な話だ。固い結び目に苦闘するうち、その微震が伝わったものか、死体の首がみしりと鳴った。
腐った首の肉が裂け、白い骨が滑り出る。頭が取れてしまえば支えはもうない。腐肉の塊が、落ちて、潰れて。枝の上で少女がわあわあと泣き出した。

…死体を見ても泣かなかったくせに。

静けさに蠅の羽音ばかりが満ちていた雑木林は、すっかり騒々しい空間となり果て。尾形はぼんやりと、火がついたように泣きじゃくるその小さな生き物を眺めていた。


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