それでは、また明日 | ナノ
 幸先

 


早朝、少ない荷物をまとめ宿を出た佐久楽は、足早に永倉達が滞留している民家へと向かっていた。

本物の土方歳三。その迫力をいざ目の当たりにすれば、今まで思い描いていたもの全てが塗り替えられてゆくようだった。


小さい頃から毎日のようにせがんで聞かせてもらった話。新選組。幕末の志士。何度も何度も想像した。その声は、姿はどんな風か。何を思い、何を語るのか。

話に聞くだけでは到底足りず、なぜ彼らが生きた動乱の時代に生まれなかったのかと見当違いな後悔に沈んだこともあった。
志、忠義、そういったものの為に彼らが生きた時代が、それこそ手が届きそうな時の向こうにあったのだ。
水墨画のようだったそれが色で溢れていく。今、現実として目の前にある。

確かに本物なのだと、むずむずする口元を引き結び、強く拳を握る。
憧れ。そんな言葉では足りない。到底、及びもしない。

朝の冷えた空気が肺に入ってゆく度に胸の内が澄んでゆくようだった。
目に入るもの全てが、光を受け鮮やかな色彩を躍らせる。

――あぁそうか。
これは期待だ。

いつにない高揚感が足を軽くして運んでゆく。
住み慣れた家にも元の生活にも未練など一つもなかった。



二人があじとにしている家屋は、朝の空気に溶けるようにしんと静まり返っていた。その戸の前でひとつ大きく息を吸って引き戸を開ける。

「おはようございます!」

奥に向かって声をかけ、先日の記憶を辿って居間へと向かった。そこには火鉢の前で茶を啜る永倉の姿があった。

「遅い」
「申し訳ありません!」

冷え切った鼻先が温もった空気に触れ、僅かに湿り気を帯びた気がする。
ぴしりと背を伸ばし応えた佐久楽に、縁側から声がかかった。

「朝から随分元気がいいな」

土方さんも、と佐久楽は勢いも良くそちらを振り向く。

「すみません!まさか土方さんをお待たせしてしまうなど…!」
「別に待ってはいないが。伝えた時間よりも随分早く来ただろう?」

土方の言葉を受け佐久楽はうろんな目を永倉に向けるが、師は素知らぬ顔で茶を啜る。

「一番奥の部屋を使え。必要な荷だけ除けたらすぐに出るぞ」
「はい!」

指示通り佐久楽は急いで踵を返した。自室となる部屋に荷を放り込み直ぐに居間へ取って返せば、すでに二人は玄関へ向かっていた。

「どこへ向かうのですか?」
「茨戸だ」
「茨戸…」

ぴんとこず繰り返し呟いた佐久楽に、「河港にある宿場町だ」と短い声が返った。




*********




「すごい…」

小高い丘から見下ろす宿場町。その景色に佐久楽は息を呑んだ。
空と同じ色をした巨大な水溜りが果てまで続いているかのようだ。そこへぽつぽつと浮かぶ船は漁をしているのだろうか。
目を奪われている様子がおかしかったのか、ふと土方が薄い笑みを浮かべた。

「海を見るのは初めてか?」

その表情に内心で踊り狂わんばかりの大騒ぎをしながら大きく頷く。

「こちらへ来る際に海峡は目にしましたが、きちんとしたものは初めてです。大きいですね、風が吹くと変わった匂いがします」
「潮の香りだな」

蛇の胴のように蛇行する道を町へ向け下ってゆくにつれ、次第に匂いも濃くなっていく。重たい潮風を頬に感じながら、飛び交うカモメに気を取られていると、永倉が佐久楽を呼んだ。

「ちゃんとついて来い」
「物珍しいんだろう。たまには旅行にでも連れ出してやったらどうだ」
「いいですね。そのうち湯治にでも行きましょうか先生」
「………」

土方と二言三言言葉を交わす度に浮かれては永倉の冷やかな視線に晒される。そんなやりとりや触れたことのない町の空気に、うっかりこの旅の目的を忘れそうになっていた佐久楽だったが、それはすぐ目に映る形となって舞い戻って来た。



磨き上げられた刀身が陽光を弾き、握っていた腕ごと銃が地へ落ちる。その腕の持ち主が悲鳴を上げるよりも早く、銃弾が連れの男の胸を貫いた。
恐ろしく綺麗な太刀筋を目の当たりにし、佐久楽は粟立った腕をさすった。

「泣き喚くのは覚悟が無かった証拠だ。次の喧嘩は、野良猫相手でも命を賭けて挑むんだな」

先の無くなった腕を押さえ絶叫する男に投げられた凄みのある眼差しに、佐久楽は永倉へ輝く瞳を向ける。
かっっっっこいいですね…!!と思いの丈をこれでもかと込めたのだが、一瞥はしてもらえたもののさらりと無視された。それよりも、と永倉は周囲の家屋へと視線を走らせる。

「ちょっと派手にやり過ぎましたかね」

そんな台詞に辺りを見回せば、確かに民家や並ぶ宿屋のそこかしこから町民らしき人影がこちらの様子を窺っていた。

「誰も気にしねぇよ。そいつらもこの町に来たばっかの人殺しだ」

声に三人が振り向けば、山本理髪店と書かれた建物から店主らしき男が顔を出していた。

「行ってみますか?」
「あぁ」

床屋に入って行く二人の後を追う。ふと建物の外壁へ目をやれば、陰から現れた真っ黒な猫がこちらを見てにゃあと鳴いた。





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