それでは、また明日 | ナノ
 遠い背



沢の水に浸した布をこめかみに当てると、傷に刃を差し込んだような痛みが走った。
顎へかけてを拭い、側に屈んだ牛山にとれたかと尋ねると、だいたいはなと返事が返った。

「だいたい?」
「まだ完全には止まってないってことだ。押さえてろ」

言って佐久楽の手から抜き取った布で、垂れ落ちていたらしい血の筋をこめかみへ向け拭い去った牛山が、双眼鏡を覗き追手の姿がないことを確かめていた尾形を呼ぶ。

「傷薬があったな。確かジイさんに持たされてただろ」

背から下ろした荷を漁った尾形は牛山へ向け薬の入った容器を放る。受けた牛山が、無言で背嚢を背負いなおす尾形と佐久楽を交互に見やった。

「また喧嘩か?」
「…いや。なんでもないさ」
「…何でもねえって顔には見えないが」
「……殴ったのは師団の男だ」
「そういう意味じゃねえよ」

牛山にまで気を使わせる程酷い顔をしていただろうか。
気にするなと流しつつ、大きな手の中にある容器へ手を伸ばす。見覚えのあるそれは、佐久楽が尾形を押さえつけ傷にこれでもかと塗りつけたこともある代物だった。
物置の中から佐久楽を連れ出した腕。その感触を思い出せば、胸の内に重い靄がかかる。
もう幾度目か知れない。足元を掬われるのも。尾形の世話になるのも。
不甲斐無い。これでは役に立つどころか、

「……くそ…ッ」

苛立ちにうっかり力が入り過ぎたのか、薬の蓋が手の中から弾けて飛び上がる。それは牛山の額で跳ね返り、少し離れた草の上へぽとりと落ちた。

「………」
「………」
「……何か言ってくれ牛山」
「………そんな時もある」
「………そうか」

一先ず薬指で掬ったそれを傷の上へのばした佐久楽の側に人影が立つ。今しがた飛びゆく様を見守った蓋が差し出され、顔を上げてみれば傷の男がこちらを見下ろしていた。

「空気が悪いな。あんた達も一枚岩って訳じゃなさそうだ」

言ってその目は離れた岩場に立つ外套の背へ向いた。
礼と共に蓋を受け取りつつ、相当深かったのだろう大きな傷跡が縦横に走るその顔をみやる。話を聞いている限り、牛山や尾形は以前からこの男を知っているようだった。尾形に至っては殺されかけただのと言っていたが。

「………杉元、といったな。あんたも軍人か?」

佐久楽の問いに男が頷く。

「元はな。少し前に満期除隊した。もう出発できるか?」
「大丈夫だ。待たせたな」
「いいさ。傷が残ったら困るだろ」
「いや…?特に困りは…しないが」
「そう?けど、顔だし」

続いた大事にした方が良いとの台詞に、佐久楽の目が丸くなる。
口にした当人はごく当たり前のような顔をして行ってしまうが。

「なんだ、惚れたか?」
「まさか。驚いただけだ。最近は憎まれ口ばかり聞き過ぎた」

言った佐久楽にそうかとだけ応じて牛山は立ち上がった。
塗り薬に蓋をし、荷の中へ押し込む。手元からかこめかみからか、油を混ぜ込んだ薬臭さが鼻をついた。

落ち合う予定の月形を目指し、轟々と水を降らせる滝を横目に、張り出した岩の上を渡り、森の中を進む。
飛沫が濡らす岩肌に足を取られないよう気を配りながら、佐久楽はふと、先を行く少女と並んだ男の背へ目を向けた。

兄たちは、生きていればどれくらいの背丈になっただろうか。
気が付けば上の兄の歳も追い越してしまっていた。ずっと縮まらない距離の先に在り続けるものだと思っていた二つの背中は、佐久楽一人を残して去ってしまった。
いつだって笑顔を絶やさなかった兄。姿は数えきれぬ程夢に見ていたが、意識のある中で見たのは初めてだ。殴られ朦朧としていただろうか。当たり前だが、その容姿は記憶の中とそっくり同じままだった。
柔らかな口調に反し冷たく凍えた声音を思い出せば肌が粟立つ。

「どうして私ばかりが…か」

今まで、幾度自問しようとその問いに答えが出ることはなかった。
当たり前だ。特別な理由があった訳ではない。ただ庇われ、生かされた。一番幼く無力だったからだ。

中身の無い器は、きっとどこか底の方が欠けている。どれほど水をそそごうとも、それは入れた側から流れ出てゆく。湿気り、黴臭いだけで、器の底には何も無い。


濡れた苔でも踏んだか、ずるりと靴の底が岩の表面を滑った。
痺れにも似た焦りが頭めがけて背骨を走るが、ひっくり返りそうになった佐久楽の腕を掴む手があった。
川に落ちる失態を免れた事に浅く安堵の息を洩らしたが、その腕の先にある顔を目にするなり、口にしかけた礼が喉元で止まってしまう。

そんな佐久楽には目もくれず、追い抜いて行く横顔。
振り返らぬ背の、風を孕んだ外套の裾がはためく。その肩に下がる小銃に目を細め、此処には居ない人の背を思った。真っ直ぐ、進むべき道を見据えた人の。

――――私が、すべきこと。

何も無いからこそだ。空の方がよく音が響くと言うのなら、空にも空なりの使い道がある。

「尾形…」

追いつき口にした名に反応し、感情を映さぬ暗い目がほんの僅かな間だけ佐久楽へと向く。

「今夜、時間ができてからで良い。顔を貸せ」

言った声に沈黙が返る。そうして束の間考えた末に出てくるものはいつも決まっている。

「…取り外し云々の屁理屈をこねるなよ」
「………」

念を押せば、案の定開きかけた口が言葉を呑みこんだ。今は無為な問答をする気はない。

「………少し、話したい」

訝る視線がこちらを向くが、拒む言葉はなかった。


/


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -