実父を撃ち殺した名前が向かった場所はアシリパの元であった。たった一人、小銃を担いで訪ねてきた名前になにかあったのかと事情を問いただすも、それについては頑として口にしなかった。
特に陰鬱とした雰囲気もなく普段通りだったが名前には家族が、父親がいる。保護者の同伴なくこのコタンまで少女一人で来るなど危ないにもほどがある。一人でここまできた理由は話さなかったので質問を変え、父親はどうしたんだ。と尋ねれば長い間帰ってこれないのでアシリパを頼って来たと名前は単調に答えた。
父親がいつ帰ってくるのか正確な日付はわからないらしいが、目処が立てば迎えに来るらしい。

どうにも、にわかには信じがたい。魚の骨が喉に引っかかったような感覚を覚えた。
上手く言い表わせないのだが、違和感が粘ついて仕方ない。しかし父親から忠実に引き継いだ特徴的な目で、じぃっと見つめられては断り辛かったので好きなだけ滞在することを許したのである。
そうして名前がアシリパのコタンで暮らし始めて優に半年が経過した頃、自体が著しく展開した。世話になっている身としては何か手伝いをしなければ体裁が悪いので、名前は狩猟や農耕を手伝ったり狩猟の際に剥いだ皮を街の商人に売りに行くなどしていた。

だか街へ繰り出す回数は決して多くなかった。なぜなら北鎮部隊を掻い潜っていかなければならなかったからだ。
尊属殺人を犯してしまっていることが判明しているかも知れない。犯行を目撃した人間いる可能性がなきにしもあらずなのだ。石橋を叩き壊すほど慎重になる必要がある。
万が一にでも犯行が浮き彫りになり北鎮部隊に知れ渡っている可能性があるのであれば、街に行くのは愚策だ。

幸いにもアシリパが衣服を借してくれたので、誤魔化しは効くだろうと思っている。が、困ったことに手放しに安堵できない大きな事情があった。
珍しく父親と銭湯へ出かけた時、上官に当たる月島軍曹と鉢合わせしてしまい面識ができていたのである。そこから自分の特徴が漏れているかも知れないのだ。
だから細心の注意を払って街へ皮を売りつけに出かけていたというのに、運命は名前を嘲笑って地獄へ突き落とした。

「待ってくれ!」

商人に皮を売りつけた帰り道だった。そう多くない人通りの中から誰かに大声で呼び止められ振り返れば、最悪なことに月島軍曹その人が小走りに近寄ってきたのである。
小さな体躯だが、厚く身に纏った軍服の下には八つに割れた腹筋が存在している屈強な軍人だ。月島は少しだけ膝を曲げて名前に限りなく目線の高さを合わせると、焦りの色を露わにして捲し立てた。

「覚えてないか?銭湯であったことが…いや、思い出そうとしなくていい。君は尾形名前だろう?」

胃液がせり上がり咽頭を焼いた。慌てて胃液を飲み込み胃へ押し戻す。焼かれた余韻と塩っぱさがまだ残っているが、そんなことは今は些細なことだ。

「………」

どう回答すれば正しいのか判断がつかなかった名前は訝しげに無言を貫くことを選んだ。知らないおじさんからいきなり声をかけられた体を装ったのだ。焦りの色を露わにしていた月島が、落ち着いた声音で名前に優しく聞いた。

「お父さんが探していた。家に帰ろう」

放たれた言葉に動揺を殺しきれなかった。確かにこの手で名前は実父を仕留めたのだ。腹に風穴を開けた父を暗闇の中でまじまじと見ている。恐る恐る、月島に疑問符がつく形で問う。

「…帰る…?」
「そうだ。でも一旦兵舎に来て貰って、そこでお父さんと合流してからになる」
「…無理です。私、コタンに帰らないと…」
「コタン?アイヌの人と一緒にいるのか?」
「はい。お世話になってて…」
「そうか。なら、それは私がお世話になった方々に代わりに連絡しておこう。とりあえず一緒においで」

日にあまり焼けていない簡単に折れそうな名前の手首を硬い掌で掴んだ月島は兵舎へと歩みを進める。勝手に話をする月島曰く、どうやら尾形は真夜中に押し入り強盗に会い、撃たれた挙句名前は誘拐されたことになっているらしかった。間を繋ぐ喋りとその足取りは、心なしか急いているようであった。

■■■

手を引かれてやって来た兵舎にて、両目の瞼を限界まで持ち上げた先に撃ち殺したはずの父親がいた。隣に立つ月島が名前の小さな背中を押して父親の元へ行くよう促す。
一歩、右足を前進させ、続けて左足が右足を追い越した。踵に力を込めて徐々に速度を上げて尾形に迫った。真っ正面に立てば、尾形は壊れ物のように名前を優しく抱き寄せ、旋毛から後頭部にかけて髪を一回だけ撫でた。
その光景は子の帰還を喜ぶ父親そのものであった。

「ありがとうございます月島軍曹。娘を見つけて頂き…感謝しかありません」

目玉が飛び出るくらい瞼を見開いた。まさか、父が自分を抱き締めるなどと考えられなかったのだ。軍服越しから伝わる父の匂いと硬い体に脳の処理が追いつかず、全身が固まって動かない。そんな名前の様子を知ってか知らずか、尾形は腕の中の愛娘から月島へと光を映さない瞳を向けて礼を述べた。

「いや、いい。こればかりは一人ではどうにもならんだろう。なんにせよ無事で良かった」
「はい…名前、お前も礼をしろ」

腕から名前を離し、両肩に手を乗せて月島の方へぐるりと回転させた。尾形から抱き締められたことに気を取られつつ、月島に父親と同様に礼を述べる。

「ありがとう、ございました」

肩に乗せられた手から服を通して温かさと重みを感じた。礼を聞き届けた月島は名前の滞在していたコタンの場所を聞くと連絡を入れるため離れて行った。頼り甲斐のある背中は徐々に遠退いて消えてしまった。

「どうして、生きてるの」
「日露帰りを舐めるなよ。あの後、腹抱えて近くの家に医者を呼んでくれと頼んで助かったってわけだ」
「…そう」
「…しかし残念だったなぁ…お前は結局何かが欠けた人間なんだって証明されちまったんだからよ」
「………」
「……だが、まぁそれでも良い。俺にも責任がある。お前が欠けた人間だろうが、自立するまでは絶対一緒にいてやる…案外、そこで治るかもしれん」

家に帰るぞ。背後からもう一度抱き締められた名前は、心が満たされたように思えた。それは暖かく、春の陽気に当てられたような穏やかな気分であった。