いつか絶対書くぞって決意したままの物。



殺人の才能がある夢主と自信をぼきぼきに折ったヴァシリの下書き。

人の首に真一文字の傷を施してやったのは、にきびが活発になる年頃であった。
整理整頓されていない脳の書庫内にて唯一その記憶だけは埃を被らなかった。乱雑に積み上げられた記憶は、どれも塵埃を積もらせたものばかりである。人殺しの唯一神である自分が産声を上げた瞬間だからか。殺人に抵抗感は口笛を吹き、恐怖感は喚き散らさなかった。
椅子に座る白衣を着た家永は燃ゆる厚い唇からほとほと呆れた溜息をこれ見よがしにつく。

「やっぱり扁桃体を損傷してるんですか?」
「失敬な。危機感あるわ」

鼻骨に響くクレゾールの匂いを吸い込んでそう言った。二の腕に隙間なく蜷局を巻いた包帯を撫で、半目で家永に抗議の意を送る。再び溜息をついた家永に、今度怪我をしたら脳を解剖すると言われ手を振って追い返された。
人殺しで生計を立てている名前は稀に怪我をし、治療のため家永を頼ることがある。永眠するはずの才能を蘇生させた強盗に感謝をしながら憐れみ、標的には自分の鬼才を詫びながら命を金に換えているのである。
名前は天賦の才を誇り、また同業者の誰もがそこいらにある空気同然であった。眼中にないのだ。極々僅かにお、と眼を見張ることもなきにしもあらずだが、腕試しに殺害してしまったり、勝負をして勝ってしまうので最終的に空気になる。景色と同化してしまった者はもうその黒玉に映ることはない。


鯉登兄妹の下書き。兄さあがでてこない。

北海道へ近づくにつれ、人々の訛りが激しくなった。関西圏と関東圏の発音の違いのせいか、はたまた田舎は訛りが健在しているせいか、端へ行くほどお国言葉が強くなるように思う。中部地方へ入った途端、すれ違う人達の会話が聞き慣れぬようになり、今や同じ国内に居を構える者とは到底信じられなくなった。特に東北地方の言語は理解できず、車掌を壊れた蓄音機にしてしまった。
移ろいゆくお国言葉に耳を傾ければ、随分遠い場所へ来たもんだと、物寂しさに故郷と似た生彩はないか探した。

「つばくろだ。秋が終わりますなぁ」

窓から燕が山を越えて去って行くのを眺めていた優男が呟く。

「関東以西出身の方ですか?」
「よくわかりましたね」
「つばくろ、と口にされましたので」


日露戦争で父親を亡くした夢主がヴァシリと暮らすって話だけどヴァシリがでてこない。

日露終戦後ののち、熱の冷めやった世間に同調し庇髪の髷を高くした女性達は二年の時を隔てて質素な銀杏返しに戻した。
病没した母が健在であった当時、死んで帰ってこいと旗を振り、大合唱が行われる内地は悪意が人から人へ感染して蔓延していた。
生来のお人好しである母は、死体の地面を走る父がいるにも関わらずそれを嘆いた。そんな母に理解を示さなかった私は、遠い戦地の父が帰って来ますようにとそれはもう熱心に神棚に毎朝祈った。その甲斐あってか祈りは形を成し、父は帰ってきた。隣で両膝を土に打ち付けた母の嗚咽を左耳が勝手に拾って、それが頭蓋の中でぐるぐる旋回したのを、大人になっても夢に見る。誰ぞ知らぬ煤だらけのほつれた軍服の男から、私は包みを受け取った。父は骨になっての帰還であった。