Reversi小説 | ナノ



7-1

 脚にかかる重力が強くなる。腿とふくらはぎが震えて、気を抜くと膝が地面に吸い込まれそうだ。急に立ち止まった時の負荷を避けて、少しずつ足の回転ペースを落としていく。意識して深く吸うようにしているのに、肺はいつまでも貪欲に空気を求める。

 やっと足を止め、一息ついて空を見上げた。辺りの木々が覆い隠した隙間から見える青は、いつも以上に遠く感じた。立ち止まると、辺りの湿度が急に重みを増したように思う。逸る気持ちと大気の重苦しさで焦りが募るが、光一は立ち止まってしまった。体力はまだある。しかし進むことが出来ないのだ。

 理由は目の前に悠然と伸びる、四通りの分かれ道だった。

「道がわからん……っ!」

 ここまではほぼ平坦な道だったため気にせず突き進んできたが、ついに恐れていた事態に出会ってしまった。この広い森の中で一人迷ってしまうのは絶望的だ。急がなくてはいけないのに、なんのためにあの場から離れて走ってきたんだと、歯がゆい気持ちで木の幹を蹴る。

 すると木の隙間から、淡い紫色の光が舞った。それはよく見ると風に乗って宙を漂う、蝶のような形をしている。光一の脳内に自然と、蝶と同じ色の長髪を持つ魔女と呼ばれる少女の姿が浮かんだ。

 辺りを見回してみたが、それらしい姿は見当たらない。たしかこの魔法は探知能力に長けている、と本人が言っていたような気がする。蝶は不規則に飛んでいるのかと思ったが、分かれ道の一本を選びゆっくりと進んでいった。

 もしや、道案内をしてくれるのだろうか。敵の罠である可能性も一瞬だけ考えたが、どのみち手がかりがなければ立ち止まることしかできない。光一は仲間の手助けであることを信じ、蝶を追って進んだ。



 蝶にしたがって歩くこと数分、前方の道に長く揺れる銀色を見つけた。安心からか、急激に光一の気が緩む。

「イリア!」
「ん、おぉ光一か」

 くるりと振り向いた銀色は、まぎれもなくイリアだった。

 ほっとして立ち止まる光一に構うことなく、紫の蝶はイリアをも越して進み続けた。イリアがそれを目で追い、口を開く。

「リトル・パピヨンか」
「多分、敵の本拠地まで案内してくれとるんやと思う」
「それは頼もしいな」

 イリアの口から「頼もしい」という台詞が出てきたことが少し可笑しくて、光一の口元がわずかに緩んだ。

 二人は互いの持つ情報を交換しあった。交換、とは言ってもイリアは単独で道を進んでいただけで、ここまで敵らしい影すら見ていないらしい。もともと戦力を分散させるのが目的で自分たちを離したはずだ。敵側からしてもイリアの力は脅威になりえるもので、他をつぶしてからイリアに集中するつもりだったのかもしれない。

 一方光一の方も、敵と対峙してから間もなくその場から離脱してしまったため大した情報はないに等しい。ただひとつ気になることがあるとすれば、別れ際のケントの態度だ。彼は明らかに焦っていた。説明こそなかったが、あれは本体である賢斗に何かがあったと見て間違いないだろう。心臓がくすぐられるようにぞわぞわと不快な焦燥感がつのる。

「イリア、魔傷って悪化したらどうなるん? 暴走して処分される、みたいなんはミチルから聞いたんやけど」

 イリアは一瞬目線を光一に合わせ、また遠くへ外した。

「そうだな。具体的にどうなるかは正直ケースバイケースだ。受けた傷の属性やその人間の耐性にもよる。人間には元々備わっていない魔力が身体に流れ込んでくるわけだから、まぁ簡単に言うとアレルギー反応みたいなものだな」
「……そうか」
「それは本来『あってはならない』ことだから、場合によっては存在自体が世界から消えることもある」
「消えるって……?」
「関わった全ての人間の記憶からなくなる。元々いなかったものとして扱われる」

 相変わらず原理はよくわからないが、いい加減光一もこういう類の話に順応してしまった。イリアが言うならきっとそうなのだろう。

「まぁそう心配するな」

 イリアの声が柔らかくなった。光一は自然とうつむき気味になっていた顔を少し上げた。

 すると彼女が、光一に向かって右手で何かを放る仕草をした。前方から小さなものが飛んでくるのが見え、それを反射的に手で掴む。見ると、薄白く光る液体の入った小瓶だった。

「お前らが取ってきた鱗で生成した特効薬だ。飲ませるか傷口に塗り込むか、とにかく体内に入れろ。それで闇の魔力は相殺できる」

 そういえば、この世界に来てすぐにそんなおつかいに行かされたな、と思い出す。あの時はなかなか大変だった。ケントとニーナは険悪だし、数体のドラゴンに襲われるし。つい数日前のことなのに、光一にはそれがひどく懐かしいように思えた。

 瓶を振ると、中の液体がぱしゃりとはねた。光一の中でいつの間にか、『賢斗を助ける』ためだけにいた世界だったはずの 鏡界 ここ が大きくなっていることに気付いた。今はもう、賢斗さえ助けられたらこの世界のことはどうでもいいなんて言えなくなってしまっている。

 それを自覚すると同時に、ミチルに初めて会ったとき言われたことを思い出す。


『鏡界を、救ってほしい』


 今になってその言葉が、充分な重量を持って光一にのしかかる。助けられるものなら助けたい。だが、光一にはそこまで自惚れられるほどの力はなかった。

 プレッシャーに耐えきれず、少しでも圧を逃したくて光一は口を開く。

「オレには、やっぱ世界を救うなんて難しいかもしれへんな」

 口からこぼれるようにして出てきた言葉は、問いかけとも独り言ともとれるような中途半端な弱音だった。歩を進めるたびにイリアの長い髪が右へ左へと規則的に揺れる。

「できたらかっこええんやろーけどな。今は友達一人救うのに手一杯やから、恥ずかしいことに」

 銀髪の揺れが止まった。何か見つけたのかと、光一も一度立ち止まる。そのまま少しの間があり、蝶が数メートル先まで進んだときイリアの足が再び動いた。

「ふふ、そうか。そういえばミチルがそんなことを頼んだんだったな」

 イリアの笑う声は草原を吹き抜ける風のような軽やかさを持ち、さわやかなものだった。

「大丈夫だ、そんなことは気にしなくていいさ。お前は友人を助けることだけを考えていたらいい。友一人を救うことで手一杯なんて、私も同じようなものさ」

 そこで光一は、イリアとカナタがかつて友人である、と言っていたことを思い出した。もしかしたらイリアの心境は存外、今の光一と似たようなところにあるのかもしれない。彼女も友人を心配しているからここに来たのだ。

「友人は大事だよな」

 イリアの灰がかった青の瞳が力強く光一をつらぬく。恥ずかしげもなくまっすぐにそう言い切ることができる素直さが、光一には少しうらやましく思えた。

「大事……っちゅーか」
「事実、お前は命を危険にさらしてまで助けに来ているじゃないか」

 歯切れの悪い光一の反応を楽しむかのように、イリアが次々と言葉を重ねてくる。光一は言葉に詰まるものの、不思議と嫌な感じはしなかった。

「いや、うーん……オレもなんでここまで必死なんかなって、自分でもちょっと思ってん。流石に死にたないしな。けどまぁなんや、アイツのリバーシ……ケントとも過ごしてみて、やっぱりアレやんな」

 気恥ずかしさも相まって、上手い言葉が見つからない。光一は元々、自分の気持ちを素直に他人にさらけ出すのはどちらかと言うと苦手な方だ。自分の奥、深いところにある本当の気持ちは外に出すことに抵抗がある。本音で人とぶつかるのは恥ずかしいし、何より怖い。ここまでするすると口が動いてしまうのは、きっとここが、異世界だからだ。

「……オレ、アイツとおんの楽しいねんな。アイツおらんかったら多分ずっと、一人でいじけとったんやと思う。今後の人生、オレが長生きできたとしたらそん時、アイツが側におらんのはつまらんと思ったんよな。ホンマはこの世界に来た時も、一緒に色んなもん見て騒ぎたかったなぁ」

 少しの静寂に責められ、光一の体温がわずかに上昇する。湧き出る羞恥をごまかすために冗談のひとつでも言おうかと思ったが、それよりイリアが発する声のほうが早かった。

「そうか。一緒にいて楽しい。なるほど、そうだな」

 しきりに、何かに納得したようにイリアがうなづいた。光一は眉間にしわを寄せ、首をかしげる。

「私も、これから過ごすであろう長い時間、カナタがいてくれたらきっと楽しいだろうなと思う。そうだな。そう思うよ」

 そう話すイリアはどこか懐かしそうで、嬉しそうに見えた。

「……なんでこんなことになったん?」
「さぁな。彼女は学生時代の友人なんだが、本当に突然、姿を消したんだ。そのころから光と闇の魔力についてだとか、リバーシと本体の融合についてだとかの研究はしていたが……何があったのかは、本人に直接問いたださないとな」

 イリアにも学生時代というものがあったのか、と軽い衝撃を覚えた光一だったが、それよりも後半の言葉が気になった。

「融合……って前にもちらっと聞いたな。どーゆーことなん? 現実の人間と鏡界のリバーシが合体するってことか?」
「まぁそういうことだな。そもそもリバーシは人間の『感情』から生まれたものだ。分裂していたものが結合する、と言った方が正しいのかもしれないな」
「それってそんなに悪いことなんか? 元々一個だったモンが合わさるってだけやろ?」

 光一が頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、イリアの瞳がわずかに輝いた。心なしか、彼女はこの会話を楽しんでいるふうに見えた。

「お、それはいい質問だな。とはいえハッキリとは教えられないのが歯がゆいところだが……悪いこと、というよりはこの世界にとって都合が悪いこと、といったところだな」

 振り向いたイリアは少し芝居がかったような手つきで、自身の胸に左手の人差し指を当てた。

「人間というのは本音を隠したがるものなのだろう? その隠し場所がこの『鏡界』なんだ。隠したはずのものが出てきてしまったら困るじゃないか。そういうことだ」
「よくわからんけど……」

 理想と本性を映し出す鏡。それが具現化した姿がリバーシだという。その事実自体は、だいぶ光一の脳に定着してきた。

 もしも違う自分になれたなら、と考えたことは何度もある。幼い頃から、剣で戦うヒーローが好きだった。自分のリバーシが強い剣士であることは納得がいく。

 ヒカルという少年は、光一が隠したかった姿なのだろうか。けれど光一はヒカルに対して、何かひっかかるものを覚えていた。根拠のない違和感がずっと、ガラス一枚隔てた先にあるような感覚。直接触ることのできないそれを確認することができないでいる。

 もう少しヒカルと会話をしておけば良かったな、と光一は少し後悔した。この件が終わったら落ち着いて話ができるだろうか。この世界の自分が何を考えどう生きていたのか、今さらになって好奇心が沸いた。

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