「鯉乙」
お、かぁさん……?
「いつも、迷惑かけてごめんなさいね」
違う。
「鯉伴を、どうかよろしくね――――
これは、貴方は……
「う、あっ……」
ズキン、と頭がひどく痛んだ。
脳に卑劣が入ったようなヒリヒリと残る痛みに、顔を歪ませた。
脳の環境が未だはっきりしない鯉乙の耳に、淡島の「お、目ぇ覚ましたぞ!」と言う大きな声が鳴り響く。
それに比例して、ズキンとまた脳が痛む。
涙で少し歪んだ視界に、淡島とイタクらしき者の顔が映り込んだ。
(入れたのか……でも、いったい誰が……)
ピキピキと脳裏に痛みが残る中、これ以上は寝てられないと重い体を起こした。
「ふーっ」
喉にたまった妖気を吐き出し、ゆっくりと呼吸をする。
山とは違い、軽く清い空気が気管を抜け、肺へと入り込む。それを何回かした上で、イタクが淡島に話しかけた。
「会議は終わってたか?」
「え? あぁ、おう。もう幹部も帰ったみたいだぜ」
「そうか。……立てるか?」
そう気を使った口調で言いながら、淡島は鯉乙の背中を摩る。
それに鯉乙は頷いた。
「なら、ついて来い」
少し狭い引き戸から出た三人は、玄関を通り、少し大きい鬼の模様が描かれた襖で立ち止まった。
イタクのためらいの仕方から、ここに、赤河童がいるのだろう。相当気を使うのだ、淡島も強張った表情で、その前に立つ。
(失敗してられない。頑張んなきゃな……)
そして、やがてふぅ、と一息ついたイタクが襖に向かって声を上げた。
「イタクです。例の子が目を覚ました」
「……入って良いぞ」
「失礼、致します……」
そっと、音を立てずにイタクは襖を開けた。そして、鯉乙を先に行かすよう、淡島にイタクは促した。
それを察した鯉乙は、一礼してから畳へと踏み込んだ。
二人はその後に、鯉乙が座った一歩奥に腰を下ろしたようだ。
緊張しているのか、胸からの心拍数は果てし無く早く感じる。
前の座敷に腰を下ろしている、自分より二倍以上はあるだろう赤河童の体や畏れを感じながら、鯉乙は深呼吸を幾度か繰り返していた。
「お主、名は?」
突如聞かれた質問に、びくりと肩を跳ねらせた。
鯉乙は、震えている唇で、はっきりと「山吹と、申します」と答えた。
「山吹かい。では、山吹。お主は何故大妖山に居た?」
「畏れが、大きかったからです」
それに、赤河童は興味深そうに「ほぉ?」と声を出す。
「わたくしは、貴方様にお会いしたく、ここに参上致しました」
土下座にも似た形で、鯉乙は深々と頭を下げる。
「わたくしは、強くなりとうございます。強くなり、母との約束を守りたいのです。ですが、今のままではわたくしは力不足なのです。ですから、今妖の中で噂の遠野一家にお訪ね致しました」
それに、赤河童は少し怪訝そうな瞳を見せた。
「お主、妖怪であろう?」
かなりの妖術の持ち主である鯉乙は遠野には十分な人材だ。が、それほどの持ち主なら自分で技を磨けるだろうという意見もある。
そんな意味を持って、赤河童はこちらを見つめる鯉乙を見据えた。
それに、鯉乙は更にきつく唇を震わせると、ふっと解けたように「はい」と声色を変えた。
そして、悔しそうにこうも告げた。
「妖怪でもありますが……人間でも、あるのです」
実に憎たらしい、と言いたげなその態度からの言葉に、赤河童は「それは……また」というなんとも言えない声しか出せなかった。
「ただでさえ、妖力もろくに扱えず、山の畏れに呑まれてしまうほど、貧弱かもしれません。ですが、お願いです。少しの間でいいんです。少し、畏れの扱い方を教えて頂ければ、それだけで……力がないよりは、ずっと、ずっといいんです……お願い、します……」
固く、畳に指を押し付ける力が強まった。子供にしては、決心の付け方、覚悟が固く決まっているようだった。
溢れ出す妖気に、鯉乙は自覚していない。それは、時間が経つたびに膨大と威力を上げ、後ろにいる淡島は辛そうに顔を歪ませている。
人間の血が入っているとは思えないほど、その妖力は大きい。申し分ない。そして、礼儀正しい口調に、硬い心。
(見込んだ甲斐が、あるかも知れぬな……)
これが将来明るいなら、赤河童は喜んで「いい」と応えただろう。しかし、相手は子供と言えど「人間の血」が流れている。
それがどのような血なのかは今は分からないが、それがもし、一家に危機を惑わせるものならば、考えなければならない。だが、それでもこの子供は捨てがたいのだ。
何故か、どこか懐かしい……離してはいけない、何かを感じてしまう。
それが何か、分からないのに。
「……良い。もう良い、顔を上げろ」
す、と顔が上がる。
その顔に浮かぶ瞳は、強く懇願している目で、それにしても、怒りにも似た何かを隠し持っている気がした。
「世話係は冷麗だ。お前には当分の間雑用係兼修行者となる」
「え……?」
「弱音を吐いたら骨までうちの一家のもんが喰うからな」
ぽかりと口を開けたまま、鯉乙は状況を把握しきれていなかった。
突然の「良い」という言葉。
唖然とする鯉乙を置いて、鯉乙同様、驚きを隠せていない淡島やイタクに、赤河童は「冷麗に伝えろ」と命じる。
「これから、お前は遠野一家だ」