短編 | ナノ


¶2
 
「伊瀬」
 今何時だと思ってんだよ。薄目を開けると、すぐ近くに栢間の顔があった。寝起きのせいで避けることも出来ず、唇に柔らかな感触が落ちる。
「一緒に寝ていい?」
 男が二人入るようなベッドじゃねえんだけど。寝返りを打つと、ポジティブクソ眼鏡は寝返りでできたスペースに忍び込んできた。まあ今は眼鏡じゃないから、ポジティブくそ裸眼になるのか?
 俺より身長が5センチほど高い男が加わったせいで、寝返りも満足に打てない。かなり迷惑だ。なんの嫌がらせなんだろうか。明日が休日じゃなければ、寝相と称して蹴り落としていたところだ。
「おやすみ」
 暗闇に溶けるような小さな夜の挨拶が聞こえる。おやすみ、と返すと、すぐに満足そうな寝息が聞こえてきた。
 
 
 
「おはようございます」
 げ、隣人に会っちまった。最悪。俺はすぐに笑顔を浮かべた。
「おはようございます」
 東京のご近所付き合いなんて、会ったときに挨拶する程度だ。でもなんとなく気不味い。
 そそくさと逃げるように会社に向かった。
 
 コンビニで買ったもち麦入りおにぎりを食べる。デザートも食べたい気分だったので、この前、栢間がお土産に買ってきた菓子を食うことにした。家じゃ菓子なんて食べないので、大半は会社に持ってきている。
「え、それ、かわいいですね!」
 隣席の山内から話しかけられた。俺は手の中の菓子を見つめる。言われてみれば可愛いが、袋を破って食ってしまえばただのチョコだぞ。しかも、日本のチョコの方がうまいし。
「やっぱりロシア土産ですか?」
 マトリョーシカの缶の中に、これまたマトリョーシカの包み紙に包まれたチョコがたくさん入っている。ついにロシアにまで出張圏を広げた栢間からのお土産だ。
 引き出しから缶を取り出し、試しに山内に見せてみると、やっぱり反応が良かった。
「可愛い!いいなあ!」
「あげる」
「ええ!?いいんですか!?でも、これ貰ったんじゃ…?」
「別に缶要らないから」
「そ、そうですか?それじゃあ有り難く…って、まだ中身入ってますよ!?」
「いいよ、俺、ダースもあるから」
「そういう問題じゃないのでは…?」
 山内は少し不思議そうだったが、俺に執着がないことに気がつくと、少し申し訳なさそうにしながらも受け取った。缶も喜んでくれる人の手に渡って本望だろう。
 スマホが震えると、栢間からだった。今日は遅くなるから飯は先に食っておいてくれ、とのことだ。
 そういや、この缶と同じものをミズキにあげるらしい。山内がこの反応だ、ミズキも概ね同じ反応だろう。他人の恋を貶すほど、性格が曲がっちゃいない。素直に、うまくいくといいな、と思いつつ、マトリョーシカのチョコを口に放り込んだ。やっぱりダースの方がうめえわ。
 
 

 金、ねえなあ。記帳しながら、ガックリと項垂れる。今月は飲み会が多かったせいで、貯金が捗らなかった。
 好きで参加してるわけじゃない。それもこれも幹事になんかにさせられたせいだ。別に俺は食や酒に興味があるわけでもねえし、ましてや他人と食う飯なんて、ただでさえ興味がない飯がさらに不味くなる。挙句、心労も祟るから最悪だ。いいことなんてひとつもない。
 飲み会なんてやりたい奴が主催してやればいいだけなのに、いいとこ取りだけしやがって、まじで腹立つ。
 しょんぼりしながら家に戻ると、なんかやけにいい匂いがした。て言うかこれ、お粥の匂いだ。お粥すきなんだよな、身体に優しいし。
 スンスンと匂いを嗅ぎながら、台所に向かう。
「今日、お粥な……の……」
 あれ、栢間じゃねえわ、この人。ミズキだ。
 
 
「すいません。栢間くんが倒れちゃって、それで、お宅にお邪魔していて、」
 目を見ればわかる。どう言う関係だろうって目だ。ホモかな?って思われてんのかな。でも、ここで俺がわざとらしく同居人でーすとか言ったら、余計に怪しまれんのかな。ていうか、他人のプライベートとかそんなに気になる?あんた、彼氏いるんだろ。だったら同じ部署の男がどんな奴とどう暮らしてようが関係なくねえか。それとも、気にするってことは脈あり?
 栢間の場合、判断が難しい。そうそうお目にかかれないイケメンだ。彼氏持ちの女であっても、イケメンの私生活は気になるのだろう。だから、必ずしもミズキが栢間に気があるとは言い難い。とは言え、イケメンが好きなら簡単に靡く気もするが。
「そうだったんですねえ」
 いろいろごちゃごちゃ考えすぎて、気の利いた返事が思い浮かばなかった。
「えーっと、風邪ですかね」
「はい、結構な高熱で…。えっと、一緒に住んでらっしゃるんですか?」
「え?あ、はい、まあ」
「よかった。ひとりだと流石に心配でしたが、それなら安心ですね」
 いや、俺がいても使い物になんねえと思うけど。あんたがいてくれた方がよっぽど役に立つし、栢間も喜ぶぞ。こんなことなら、どっかに泊まればよかった。でも、俺はエスパーじゃないからこんなことを予知できる訳もない。
「え、いや俺、なんもできないんで、あの、助かります」
 ぶっちゃけ、お粥も作れない。だから、本当に助かった。ありがとうございます、と栢間の代りに礼を言うと、ミズキは慌てた。とんでもない、と言われる。
「押し掛けてしまって、すいませんでした」
 此方こそ邪魔してすいませんでした。
 そう言いたいが、変な感じになるからやめておく。どうやったらミズキに栢間の看病をさせられるだろうか。あ、そうだ、用事があることにしよう。
「その、大変申し訳ないんですけど、俺、ちょっと用事がありまして、」
「今からですか?」
 ミズキが目を丸くする。
「すいません…。なので、もう暫くだけ栢間の面倒みてもらっていいですか?あ、これ、俺の連絡先です。何かあったら連絡してください。日付が変わる前には帰ってくるので、」
 本当にすいません、よかったらこのプリンどうぞ。先ほどコンビニで買ってきた特大プリンを渡すと、ミズキは戸惑いつつも受け取った。
 部屋を出る前に、チラリと栢間の部屋を覗く。ベッドが膨らんでいた。本当に寝込んでいるらしい。マ、なんつーか、日ごろ頑張ってるお前にご褒美だ。ミズキには悪いが、栢間のために頑張ってくれ。
 
 
 仕方ないから漫画喫茶で漫画を読み耽っていると、ミズキから連絡があった。そろそろ帰るという連絡だ。確かに、このままでは終電を逃してしまうだろう。
 看病を任せてしまったことへのお詫びと、お礼を返す。気をつけて帰ってください、礼はまた改めてさせてください、と返信。会計を済ませて、我が家へと戻った。
 
 ミズキはいい奴だ。器量もいい。粥の残りは冷蔵庫に冷やされていたし、食器はきちんと片付けられていた。
 栢間の部屋にそろりと侵入してみる。我が家にはなかった冷えピタが貼られていた。買ってきたのかもしれない。これは頭が上がらないな。
「栢間…?」
 大丈夫?って聞こうと思ったが、大丈夫なわけなかった。苦しそうな呼吸が聞こえる。眠っているのを起こすのもよくないし、部屋に戻るべきだな。チラリとベッド横のテーブルを見ると、ペットボトルが置かれていた。残りが少ない。確か、ポカリがまだ冷蔵庫にあったはず。多分、それもミズキが買ってきてくれたんだろう。寝ている間にまた飲みたくなるかもしれないし、新しいのに取り替えておくか。ペットボトルを掴もうとしたところで、くぐもった声が聞こえた。
「ん?」
 何か訴えているのだろうか。口元に耳を寄せる。
「……伊瀬、」
 俺は寄せていた耳を外し、栢間を見た。薄らとだが瞳が開いている。
「なに?なんか欲しいもんある?」
 外に出てたのだから、ポカリとかゼリーとか買ってくればよかった。まじで気がきかねえな、俺。
「伊瀬、」
 また名前を呼ばれる。言いたいことがあんならはっきり言えよと思うが、病人相手には酷か。栢間は俺の名前を呼びながら、布団の隙間から手を出した。
 もしかして、水が欲しいのかな。まだ少し入ってるし、残りを飲んでもらおう。
「ほら、これ」
 手にペットボトルを持たせようとしたが、栢間は受け取らなかった。そのせいで、ペットボトルは床に落ちて、ゴロゴロと転がっていく。仕方なく拾おうとした手を、栢間につかまれた。
「手、すげえ熱いね」
 高熱が出てるようだ。でも、菌を倒すために身体が頑張ってる証拠だから、諦めんな、そのまま耐えろ。
「い、せ……どこ行ってた、の」
 汗で少し萎びた前髪が、額に張り付いている。柔らかなそれを掬って払うと、栢間が気持ち良さそうに目を細めた。
「漫喫」
「な、んで」
 なんでって、空気を読んだんだろ。気付けよな。って、もしかしてコイツ、熱に浮かされててミズキが看病にきてたことも知らなかったのか?
「ミズキ来てたよ、ちゃんとわかってる?」
 栢間が眉根を寄せた。あまりコイツは怒ったりしないから、不機嫌そうにするのは珍しい。顔をしかめたせいで、涙袋がぷっくりしていた。
「知ってるよ」
「ミズキ、いい奴だよ。お粥、美味しかった?」
 栢間の機嫌が更に悪くなった。切れ長の瞳は、普段意図的に微笑んだり、眼鏡をかけているから愛想良く見えるが、こうして顰めっ面になると途端に極悪だ。ちょっとビビる俺。
「栢間?寝た方がいいよ、熱下がんないよ」
 身体が辛いから顰めてるんだろうと判断した俺は、掴まれた手を外そうとすると、骨が軋むほどの力が加わった。コイツ、よくこんな熱の中で怪力出せるな。
 いてえな、と思って睨みつけたかったが、相手は病人だ。我慢する。
「栢間、」
 寝なよ、と続けようとしたところで、また「伊瀬」と呼ばれた。
「だから、なんだよ」
「お粥、作って」
「え、腹減ったの?あっためればすぐできるけど」
「それはミズキが作ったやつ、だろ、」
 それのなにがダメなんだよ。残ってんだから、残り物から先に食えよ。我が儘だな。
「なに、あのお粥に飽きたの?別のがいいわけ?」
「伊瀬が作って」
「無理、作り方わかんねえ」
 じゃあ、教える。ふらふらのくせして起き上がろうとする栢間にはギョッとした。慌てて片手で肩を押して布団に戻す。やっぱり力が出ないのか、簡単に布団に沈んだ。
「馬鹿、寝てろって」
「じゃあ、なまえ、よんで」
「栢間」
 そうじゃねえ、と低い声を出しながら睨みつけられる。栢間は元ヤンなんじゃないかと俺はひっそり思ってるが、どうなんだろうか。迫力がわりとホンモノだから。
「千木(せき)」
 これで満足か。睨み付けると、栢間が熱で潤んだ瞳でじいっと見てきた。
「早く元気になれよ」
 ペシっと額を叩く。なかなか離そうとしない栢間の手にてこずりつつ、止む無し、俺は顔を寄せた。
「千木、風邪うつされるのは嫌だから、早く治せってば」
 ふわりと唇を寄せると、漸く満足したのか手が離された。



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