テストが終わり、冬休みが訪れた。けれど、及川の生活サイクルは変わらない。寧ろ、授業がなくなってより一層バレーに集中できるようになった。朝食を摂り、母の弁当を手に大学や地元チーム、或いは後輩たちの冬合宿に顔を見せたりして、バレー三昧の冬休みを過ごす。去年も一昨年も、その前だって変わらない生活だ。けれど、今年はほんの少しだけ違う。 「おはよ、天城さん」 「おはよー、及川」 待ち合わせ場所でスマホを弄っていると、眠い目をこすりながら恋人がやってきた。学校では見られない私服姿にも、ようやく慣れてきた。寮指定のやつなんだ、と嬉しそうに見せてきた黒とブルーのマフラーはとても温かそうだ。 「今日は大学だっけ」 「うん、電車乗って十五分ぐらいのとこ」 ふむふむ、と頷いて凪沙と一緒に駅に向かう。 及川のバレーが見たい──彼女はそう言って、及川の練習を見に来るようになった。応援しに来てくれるのは嬉しいし、それぐらいバレーの熱に魅入られてくれたのなら、一プレイヤーとしてこれほど嬉しいことはない。ただ、凪沙の生活サイクルは及川どころか常軌すら逸している。一日三時間ほどの睡眠時間で、イギリスと日本を行き来して授業を受けているのだ。流石にもう少し休んだ方がいいと言えば、凪沙はクスクスと笑みを零した。 『及川、言ったでしょ。時間は強引にでも捻出するものだって』 『いやでも物には限度があるわけで──』 『私たちは魔法使いだよ? 時間だって作り出してみせますとも』 ──まさに、常識に囚われないとはこのことか。話を聞いて及川は愕然とした。魔法使いは、時すらも自在に操るのだという。 『まあ、タイムマシンみたいに便利なものじゃないんだけどね』 『でも好きに時間を巻き戻せる、ってこと……?』 『うん、最大五時間だけどね。《逆転時計》は自分の好きな時間を巻き戻せるんだけど、タイムパラドックス起こすと自分も家族も消滅しかねないから、とんでもなく危険でさ』 『危険すぎない!?』 さらりとSFのお約束を語る凪沙に、及川もギョッとして仰け反った。けれど凪沙は慣れ切ってますとばかりの表情だ。 『危険だけど、二重生活にどうしても必要でさ。流石に睡眠時間三時間じゃ倒れちゃうでしょ。だから、校長先生が特例で私のために《逆転時計》を借りてきてくれたの』 『天城さんが優秀だから?』 『かもね。まあ、そうは言っても、睡眠時間にしか使ってないんだけどね』 『……寝る時間分だけ時間を巻き戻してる、ってこと?』 『そうそう。十五時に学校終わって、イギリス行って朝の六時でしょ。で、五時間巻き戻して一時。昼寝したり宿題片付けたりしてから朝の授業出て、十八時にこっち戻って朝の三時。五時間戻して二十二時、って感じ。これならタイムパラドックスも起こらないから、比較的安全に行使できるってわけ』 聞いているだけで頭がごちゃごちゃになりそうだ。とにかく、凪沙はタイムマシンを用いてそれなりに時間を確保しているらしい。 『まあ、昔ほど授業カツカツじゃないし、使わないに越したことないんだけどね。一日で十時間余分に年取る計算になるし』 『え? あー、あー……そういうことか……』 確かに、一日十時間巻き戻しているのに、凪沙本人の肉体は巻き戻らないのだから、人より半日ほど年を重ねている計算になる。毎日ではないにしろ、それを七年も続けていたのだから──。 『そ。私、一年分ぐらいみんなより年取ってんの』 『そういうことになるよね』 『まあ、一年なら誤差かなって。分かんないでしょ?』 『全然』 今日明日で一年分ではなく、あくまで七年かけて少しずつ時間がズレていくのだ。パッと見で目の前の魔法使いが十八歳なのか十九歳なのか、分かるわけがない。 『とにかく、及川が思ってるより時間はあるから、大丈夫だよ』 『な、なるほど』 それなら、まあ。ちょっと複雑なサイクルだが、睡眠時間や余暇は確保できているらしい。ならば、心配事はなくなった。バレーが見たいという声に応えないわけにはいかない。だからこうして、及川の練習に、凪沙はウキウキと応援に来るようになったのだ。 「──でさあ、ここぞというサーブで、みんな『ショウユー!』とか『タンタンメーン!』とか叫ぶわけ! ひどくない!?」 「ぶっ、あっははっ!! いいじゃん、肩の力抜けそう!」 「抜けすぎるでしょ!」 凍える風に吹かれながら、二人で並んで駅まで向かう。ルールぐらいは分かる、程度の関心しかなかった凪沙は、今や及川にバレーの話をせがむようになった。それはインターハイのこと、春高予選のこと、中学時代のこと、この道を志すことになったきっかけまで、凪沙は何を聞いてもなるほどフムフムと熱心に相槌を打ってくれるので、元々お喋りな及川のトークは加速する一方だった。おかげでいつも別れ際に「あ、また天城さんの話聞くの忘れた」と零す羽目になるのだ。 けれど、こうしてバレーの話をする時間は、どうしようもなく楽しいから。 「いいね。今日サーブミスしたら、私にもラーメン奢ってよ」 「いいけど前提がヤなんですけど!! 俺のサーブ成功するとこ見たくないの!?」 「及川なら成功するだろうし、失敗に賭けた方が面白いかなって」 「どうせなら全部成功する方に賭けてほしいな!!」 そんな穏やかな会話を交えながら、隣を歩く凪沙に合わせてゆっくりと歩く。歩幅を合わせることもそうだが、小柄な彼女とは四十センチ近く身長差があるので、横に並ばないとそもそも声があまり聞こえないのだ。 すると凪沙は、ほう、と白い息を吐きながら呟く。 「いいなあ、部活」 「あー……天城さん、運動部や吹部は厳しいもんね」 「イギリス生活が部活みたいなものだから、別にいいんだけどね」 いくら時間を作れるとは言っても、限度はある。活動が週に二、三度ほどの緩い部ならまだしも、土日も含めて活動があるような活発な部活は流石に厳しかったのだろう。別に、と言いつつも、凪沙はどこか口惜しそうだ。 「何か入りたい部活あった?」 「運動は苦手だけど、弓道はちょっとやってみたかったな」 「へー、いいね。天城さん、道着似合いそう」 「ありがと。まあ、時間的に難しかったから、諦めちゃったけどね」 「今でも部活やりたいって思う?」 「うーん。今はいいかな」 駅について、電車代をチャージしながら、彼女はニッと悪戯に笑う。 「今は及川の活躍する姿で、お腹いっぱいだから」 なるほど。彼女が注ぐ『熱』には、『羨望』も含まれていたらしい。コートに立てないチームメイトの分も頑張る、なんてよくいうが、こういうパターンもあるらしい。冷たい風を切ってホームに滑り込んでくる電車に乗りながら、ますます頑張らないとね、と及川は密かに意気込んだ。 *** 「今日もすごかったね! あの、轟音サーブ!」 「まあね!」 練習が終わり、電車に乗って地元駅に帰るや否や、凪沙は興奮気味に話を切り出した。別チームに混ざって練習している間、凪沙は一人観客席の端っこで控えめにタオルを振ったり、じっとコートを見ていたりと、とにかく静かに過ごしていた。かと思えば、二人になった途端に興奮気味にあれがすごかったこれがかっこよかったと、目を輝かせながら話してくれるのだから、及川のただでさえ高い鼻も伸びようものだ。 そうして歩いていくうちに、駅前のチェーン店のラーメン屋を通り過ぎる。ラーメンやらチャーハンやらの香ばしい匂いに、ぐう、と腹の虫が鳴る。 「腹減ったねー」 「じゃあどっか食べて帰ろうよ」 「いいね。行きたいとこある?」 「んー、だったら、及川がみんなに奢ってあげたっていうラーメン屋がいいな」 「……そんなんでいいの?」 女の子はもっとこう、カフェとかイタリアンとか、そういうお洒落な食べ物を好む人種だと思っていた。確かに味は保証するが、男子高校生のドカ食い御用達の安いラーメン屋──語弊を生むかもしれないが、日々お世話になっているし純然たる褒め言葉だ──でいいのだろうか。不思議に思いながら訊ねると、凪沙もまた不思議そうに首を傾げた。 「なんで? ラーメン、美味しいよね?」 「まあ、ね?」 「じゃあよくない?」 「そう、かな?」 「じゃあ行こうよ。今日もサーブ七回もネットしてたし」 「試合じゃ二回だけですしィ!?」 なるほど、奢り目当てか。案外ちゃっかりしてると思いつつ、チームメイト全員に奢った日を思えば財布へのダメージなど高が知れている。寧ろ洒落た店に行くよりも安上がりだろうと判断した及川は、急遽行き先を凪沙の家ではなくお気に入りのラーメン屋にシフトする。 徐々に暗くなっていく道を、二人並んで歩く。会話の内容は、やはりバレーのことばかり。今日の話題は、『痛み』だ。レシーブ取るだけで腕折れそうと震える凪沙に、そんなヤワな鍛え方はしていないと及川は笑んだ。 「信じられない。バレーやってる人、手痛くならないの?」 「いや痛いは痛いよ。たまに指折れたかと思うし」 「実際、折れたりしない?」 「折れたことはないかな。突き指は日常茶飯事だけど」 「ひゃー、聞いてるだけでゾワゾワする」 自身の手のひらをじっと見ながら、凪沙はきゅっと眉を顰める。確かに、こんな細い指ではブロックどころか強めのトスを上げただけでポキンと折れてしまいそうだ。小さな手のひらを見下ろしながらそんなことを思っていると、凪沙の目が及川の腹部に集まっていることに気付く。腹部というか、コートのポケットに突っ込んでいる手というか。 「及川、ちょっと手見せて?」 「手? 別にいいけど」 寒さを凌ぐために突っ込んでいた手をポケットから引っ張り出す。外気に触れてジンと悴む手を、凪沙はその小さな両手で躊躇いなくガシッと掴んだ。あまりに驚いたせいで、言葉もなく肩が飛び跳ねた。 「やっぱりそうだ。指、ごつごつしてる」 「お──ああ、まあ、ね?」 小さな手が、細い指が、及川の武骨な手に絡む。こんなに寒いのに彼女の手はじんわりと温かく、ふるりと身震いしてしまう。そんな及川に気付かず、凪沙は興味津々とばかりにジッと及川の手を見て──というか、観察している。 「骨ってダメージ入るとその分以上に補おうとするから、こうやって太くなるんだよね。第二関節の部分とか、ホラ、ボコッとしてる」 「そ──そう、だね?」 「私も昔、指鳴らし過ぎてすごい指太かったんだけどさ、魔法薬の実験失敗して指の関節九つ増えたことがあってね。骨抜いて一から生やしたらキレーになったんだー」 「あー……なんかそんな魔法、映画で見た、かも……?」 「そうそう、あの有名なやつ。私も指ぐにゃぐにゃになったんだよ」 しみじみと語る凪沙だが、正直半分も耳に入っていない。手のひらや指先を踊る他人の体温に、それどころじゃなかったからだ。そりゃあ、他人からの接触は慣れているし、恋人とハグやらキスやら、何ならそれ以上だって経験はある。ただ、経験があるからといって、それはそれだしこれはこれだ。くすぐったいし恥ずかしいしで手汗が滲んできそうだ。 対する凪沙は普段通り、真面目な顔のまま。挨拶にキスをする文化圏と聞いているし、これぐらいの接触なんでもないのだろうか。余裕じみた眼差しが、妙に引っかかるというか、なんというか。 「……天城さん、大人だよね」 「まあね、みんなより一年分ぐらいお姉さんなので」 そういう問題じゃない。と思う、多分。でもその『お姉さん』というワードは多感な男子高校生にはグッとくるので、大変ありがたい。じゃなくて。 「や、そうじゃなくて──もしかしたらそういうことかもしんないけど──なんか、慣れてるなあ、って」 「慣れてる?」 「ストレートな言い方とか──こういうの、とか?」 こう言うと、自分がまるで初心で純粋な男子高校生です、と自己紹介している気分になって、些か面映ゆい。ただ、顔色一つ変えずに異性の手を握る凪沙に、半ば悔しさすら感じていたことを、及川は否定しきれないでいた。 本人の口ぶりから及川の方が経験があるはずなのに、その経験の差を全く感じさせない。かといって常に振り回されているわけではないのに、ふとした瞬間に腕を掴まれてぐりんぐりんとぶん回されて、乱される。そんな感覚を、何と呼ぶか知っているはずなのに、素直にそれを認められなくて。 すると、触れていた小さな両手が、きゅっと及川の手を包む。 「慣れてるわけじゃないけど……触りたかったから、つい」 「さわ──え?」 「触りたいというか──ごめんね、手、繋ぎたかったの」 「エ」 「付き合ってるし、いいかなって。だめ?」 そこで凪沙は初めて表情が変わった。照れくさそうに、それでいてどこか嬉しそうに白状するもんだから、これを『だめ』なんて言える男がいるのだろうか。いいや、いるわけがない。絡め手さえストレートにこなしてしまう凪沙に、脳みそグラグラ揺らされながらも及川はがっくりと項垂れる。 「こっちこそ……そんなこと言わせて……ゴメンナサイ……」 「いいよ、全然。私がしたかっただけだから」 凪沙はさらりと告げるだけ。こういうところが、手を繋ぎたかったなんて女の子に言わせるなど、甲斐性なしにもほどがある。こういう時リードするのは男の役目だと及川は考えている。『羞恥』はどちらかといえばマイナスの感情である。それを相手に抱かせるのは失礼だと思っているからだ。 情けなさに落ち込む及川に、凪沙はケロリと微笑んだ。 「気にしないで。寧ろ見直した」 「見直す? なんで?」 「及川チャラいってみんな言ってたから、意外と紳士なんだなって」 「チャ、チャラい……」 そりゃあ、まあ。年齢=恋人いない、なんてチームメイトも大勢いた。そんな中で、両手じゃなりないレベルの告白をされ、片手じゃ足りないぐらい恋人がいた及川は一般的に『チャラい』のかもしれない。ただ、暗に『紳士だと思わなかった』と言われると流石にショックだ。結果的にフラれてばかりだったが、一人一人誠意をもって付き合ってきたはずだ。嫌がることは絶対しなかったし、身体的接触もその欲求だってそんな──そこまで──いや、人並みぐらいであったと、信じたい。 とはいえ、人にどのように見られているかは何となくは知っていたし、全て自分のやってきたことだ。何とも言えない顔でむにゃむにゃと言葉を濁していると、凪沙は今尚包み込んでいる及川の手をゆっくりと引いた。 「さ、行こ。お腹空いちゃった」 何でもないように──実際大して何も思っていないのだろうが──、凪沙はそう告げる。彼女のこういう部分を大人だなと思うし、同時に負けたくないなと思った。勝ち負けの話じゃないだろうに、そう思った瞬間に及川の何かに火が点いた。繋がれた手を、及川がもう片方の手で握り返す。 「天城さん、出かけよ」 「……今から、ラーメン食べに行くのでは?」 「じゃなくて! クリスマス──デート、しよ!」 一週間後は、クリスマスだ。ここでデートしないで何が恋人同士か。けれど脳裏に過る言葉は『負けられない』という、ロマンもへったくれもない負けん気だなんて言ったら、彼女は怒るだろうか。いいや、どうせ怒らないだろう。目を見開いて、首を傾げて、『及川って変わってるね』、そんな一言を告げるだろう。容易に想像できる。それでも。 しんしんと雪も降り出すような、人気のない暗い夜道。及川は真剣な顔で凪沙の手を取って告げると、少女はまるで魔法がかけられたかのようにキョトンとした顔でこちらを見上げていたのだった。 |