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 結局、凪沙は冬休み中はずっとイギリスで過gごしていたようで、次に凪沙の顔を見たのは新学期になってからだった。授業と授業の合間の休憩時間、及川がいつものように凪沙のクラスに向かうと、彼女とその友達と思しき明るい声が聞こえてきた。

「えーっ、すご! ドレスじゃん!! すっごー!! キレー!!」

「初めてコルセットしたよ。ローストビーフ食べただけで、お腹はちきれるかと思った」

「可愛いじゃーん、これで誰かと踊ったの?」

「踊んないよ。言ったでしょ、私、チビでモテないんだって。……それに」

 凪沙は携帯を友人たちに見せながら、楽しそうに話し込んでいる。天城さん、と声をかけようとした──その時。

「及川がいるからね。誰とも踊らなかった」

「「ヒュ〜ゥ」」

 キッパリと言い切る凪沙に、出かけた声を飲み込んでしまった。口笛を吹く友人たちに、凪沙は涼やかな表情のまま。しまった、変なタイミングで来てしまった。しかも。

「へー、ドレスなんて初めて見た。コレ自前なのか?」

「そうだよ。みんな気合入れてくるからね、私も負けてられなくて」

「すっげー、どこで買えんの、こんなの」

「岩ちゃんさん結婚式出たことない? 普通に日本でも買えるよ」

「そういうモンなのか」

 しかも、しかも、だ。凪沙の傍には、幼馴染の岩泉がいる。『そんなに話さない、仲良くはない』──そんな言葉が嘘のように、親しげに笑っている。別段、思うところはないはずだ。むしろ、友人と恋人が親しくしていることは、喜ばしいことのはずだ。

 なのに。

「はーい、呼ばれて飛び出てみんなの徹クンでーす!」

「呼んでねーよクソ川」

 何故かその場に、勢いよく割り込んでいってしまった。そんな及川に岩泉は冷たく返し、凪沙の友人たちはアッと色めき立つ。そして当の本人の凪沙はといえば、顔色一つ変えずにニコリと微笑んで。

『待ってた、及川。渡したいものがあってさ』

 そうやって、いつものように英語でさらりと告げて凪沙は鞄から一枚の茶封筒を引っ張り出した。調子崩すなと思いながら、渡されたそれをおずおずと受け取る。中身はなんだろう。心当たりがない。その場で開けようとすると、凪沙は早口で待ったをかけた。

『あ、ごめん待って。ここでは開けないで』

『どうして?』

『その写真、こないだ撮ったやつだから』

『こないだって──あ』

『そう、二人で撮ったやつね』

 凪沙は少し照れたようにはにかみながら告げる。先日のクリスマス、ドレスを纏った恋人が突然家に押し掛けてきた時に撮った写真のことだろう。あのレトロなカメラで撮った写真だ、当然データ化はできなかったのだろう。一応、二人で撮った初めての写真だ。人前に晒すものではないだろうと及川も頷き、封筒を小脇に抱える。

『ありがと。写真、久々に、もらった』

『確かに、もうデータだもんね』

『スマホになってから、使わない、もんね、カメラ』

『現像するのも面倒だしね。あ、写真、友達に見せたよ』

『え──だ、大丈夫、でした?』

『大丈夫も何も、みんな『ボーイフレンドかっこいいね』って』

『お、おお……ドモ……』

『言われ慣れてるでしょ!』

 からかいがちに告げられる一言に、面食らってしまう。向こうの学校の友達のセリフだろうが、やはり恋人からストレートに告げられるのは照れくさい。確かに言われ慣れているワードではあるのだが、それはそれ、これはこれといいますか。

 そんな風に会話する及川と凪沙に、凪沙の友人がムッと頬を膨らませた。

「ちょっとー! 二人で秘密の会話禁止よー!」

「イチャつくなら他所でやってもらって」

「いや別にイチャついてないし、そんな難しい会話してないよ」

「イーッッ!! 英語できるやつはこれだから!!」

「いやいや、しっかり受験生。来月センター大丈夫?」

「大丈夫じゃないから騒いでんの!!」

「うわやべえ、それ俺にも刺さる」

「や、岩ちゃんさん英語大丈夫な人でしょ」

「天城さんほどじゃねえけど」

「アアー! 殿上人どもめ!! アメリカへお帰り! ハウスハウス!」

 そう言って頭を抱える凪沙の友人に、笑みを零す。そうこうしているうちにチャイムが鳴り始めたので、及川は踵を返してクラスへ戻ろうとした時。くい、とブレザーが軽く引っ張られた。

「天城さん?」

 凪沙だった。及川のブレザーをちょいと抓んだまま、ニッと悪戯っぽく笑みを浮かべる。

『写真、人がいないところで見てみてね』

「……?」

『とびきりの魔法、かかってるから』

 ぱちん、とウインクして手を振る凪沙。及川は曖昧に頷きながら彼女に背を向けて教室を出る。魔法、魔法とは何だろう。確かに魔法学校で使えるカメラで撮影していたが、写真にも魔法がかかっているのだろうか。気になってしまい、予鈴もいいことに及川はトイレに駆け込み、個室で茶封筒を開いた。そこには。

「え──すっご」

 写真には、確かにドレスアップした凪沙と、魔法で着替えた及川が映っていたのだ。楽しそうに笑う凪沙に、驚き困惑する及川の姿がバッチリ収められている。けれど、流石は魔法界。ただの写真ではない。このぺらりとした紙の写真なのに、中にいる及川も凪沙も動いているのだ。まるで動画のように。けれど、その時あった出来事が収められているムービーとも、また違う。

 写真の中の二人は、仲睦まじくダンスをしているのだ。手を繋いで、抱き合って、お互いダンスなんか知らないだろうから拙い動きでくるりくるりと踊っている。凪沙のドレスが翻り、及川の黒いローブがはためくほどに。そうして眺めていると、凪沙は笑いながら窓に足をかけて飛び去っていき、写真からフレームアウトしてしまったのだ。被写体が写真からいなくなるなんて、自由過ぎるだろう魔法界。

「……ははっ」

 叶うことのなかったダンスシーンに不思議と胸が熱くなりながら、写真の中に一人取り残された及川を突いた。写真の中の自分は、どこか不貞腐れたようにフンとそっぽを向いてしまった。どんな魔法がかかっているのか知らないが、俺はこんな可愛げはない、と凪沙に文句を言おうと思った。



***



「じゃあ、及川。二月だからな、忘れるなよ」

「ハイ!! ありがとうございます!!」

 放課後、練習前に所用で職員室へ向かった及川。数分ほど来月の予定の話をし、監督に頭を下げて及川は職員室を後にする。もう学生でいられる時間は、限りなく少ない。使えるものは何だって使ってやると、鼻歌交じりで職員室から出ると、外には凪沙は立っていた。

「あれ、天城さん?」

「及川は職員室いるって、岩ちゃんさんが」

 ああ、そうだ。今日は凪沙と一緒に帰る日だった。どうやら彼女は待っていてくれたらしい。ごめんごめん、と及川は腰を折る。

「メールすればよかったね。天城さん、連絡つかないイメージ強くて」

「ああ、確かに。せめて受信ぐらいできればねー」

 そう言って、二人で並んで歩き出す。相変わらず小さな歩幅に、こちらも合わせてゆっくりと歩く。そうしていつものように、穏やかな話を繰り広げるのだ。

「そうだ、及川。今度、クリスマスの埋め合わせ──ってわけじゃないんだけどさ」

「お、デート行く?」

「行こう!」

 頓挫すること早二回。もうテストもないし、大きなイベント事もない。ようやくデートができると、凪沙と及川はスケジュール帳を開く。

「来週は?」

「あー、できればセンターの日のがいいかも。どこも練習行けないし」

「そっか、試験は大学でやるんだもんねー」

「そうそう」

 予定はつつがなく、あっさりと決まる。二週間後の土曜日、ようやく初デート。付き合って二か月目でようやくだねと言えば、長かったねえ、と凪沙は肩を竦めた。

「行き先は映画と買い物でいい?」

「映画ねー、終わっちゃったから別のを見ようと思って」

「二か月前のは流石にやってないかー……」

「いいよいいよ。他に見たいのあったし。あの、アメコミヒーロー大集合のやつ!」

「お、いいね。俺もあのシリーズ好き」

「私も! ファンタジーと同じぐらい、アクション好きでさ!」

 それは助かる。青春系や恋愛系も特別嫌いではないが、どちらかというと及川もSFやアクション映画の方が好きだ。あの映画は確か夏頃公開されていたが、IHの時期と被っていたので見に行けていなかったのだ。楽しみだと及川も胸を弾ませる。

「及川も映画好きなの?」

「んー、どうだろ、人並みぐらい。基本的に部活だし」

「バレー第一だもんね」

「そういう天城さんは映画好き?」

「中々見る機会ないけどね。特に五年までは、ホントスケジュールきつきつだったからさー」

「十五時にイギリス帰って、向こうで九時間授業受けて、また戻って。これを平日毎日でしょ。よく倒れなかったね」

「や、実は中学の頃は何回かノイローゼ起こした」

「マジで!?」

「三年から選択授業が増えるから、ホント大変でね。休憩挟むとはいえ、実質同じ日を二回繰り返すから、今日何日なのか分かんなくなってさ。何度《逆転時計》を使い間違えそうになったか……」

 同じ日が二回訪れる。時間を巻き戻して睡眠を取り、授業に出てまた時間を巻き戻す。幼い凪沙には、それこそ映画を見る時間など微塵もなかったのだろう。ひえー、と顔を引きつらせる及川。

「それでも、この生活止めようと思わなかったんだ」

「思わなかった。辛かったし頭おかしくなりかけたけど、それでもどっちの生活も『楽しい』。楽しいから、止め時を忘れちゃった」

 そう語る凪沙に、強く共感した。何事もそうなのだ。好きなことは楽しい。楽しいけれど、突き詰めていくと辛いこともある。なのに、『楽しい』は時折思いもよらぬ形で訪れる。そんな『楽しい』は自分を引っ張ってしまう。そうして、『楽しい』を思い出してしまうのだ。魔法使いも、バレーボールプレイヤーも、同じ。凪沙も及川も、同じなのだ。ただ、見ている方向が違うだけで。

「及川もそうでしょ?」

「……そうだね。天城さんと一緒」

 凪沙の言葉が、驚くほどに心地いい。辛くても、楽しい。その楽しいを味わうために、及川は齢十八にして早計過ぎると言われた道を選んだ。多くの人が止めた。けれど、憧れの人を前にそんな迷いは全て振り切れた。何より、それを貫いて満足そうに生きる人が、隣にいる。

 それが及川を、何よりも勇気付ける。

「……あのさ、話変わるんだけど」

 すると、凪沙は道端で足を止める。彼女の家はこの先のはずだが、何かあったのだろうか。足を止めて振り返った先の凪沙は、ひどく悩ましげな表情だった。

「及川さ」

「ん?」

「──なんて呼ばれたい?」

「……はい?」

 たっぷり待つこと十秒。突然そんな話を振られて、及川の目は点になった。話が百六十度ぐらい変わったので、ついていけなかったのだ。彼女は今、何と言ったか。『なんて呼ばれたい』、か。ええと、つまりそれは、呼び名の話だろうか?

「いや、岩ちゃんさんに言われたんだよね」

「岩ちゃんに?」

「『お前ら付き合ってるのに他人行儀だな』って」

「え──ああ、そう、かも、ね?」

 突然出てきた幼馴染の名前にも驚いたが、そんなことを話していたことにも驚いた。一体どういう意図でそんなことを聞いたのか。ただ単にその不自然さが気になっただけか、それとも他の理由があるのか。考えても、幼馴染が自分の恋人に対して何を思っているのか、まるで分からない。だからひとまず、目の前の問題に意識を向けることにした。

 呼び名──呼び名。確かに、付き合っている割に、凪沙も及川も苗字呼びである。ただ、どんな呼び方を好むかは関係性次第だろう。事実、幼馴染である及川と岩泉もほぼ苗字呼びだし、苗字で呼び合っているからといって親しくない、というわけでもないのだし。

「人に言われたからどうこうするってわけじゃないけど……まあ確かに、付き合ってたら名前の呼び方変えるって友達も言ってたから、それが正解なのかなって」

「正解、ってのはないと思うけど……まあ、概ねそうかも?」

「でしょ? そりゃ、ハニーとかシュガーとかパイとかは流石に私も恥ずかしいからさ、及川的に呼ばれたい名前とか愛称ないのかなって思って」

 真面目な顔で付き合いにおける『正解』を求めてくる凪沙。らしいなと思いつつ、そんなものに正解はないわけで。

「や、普通に……徹でいいけども……?」

「分かった。徹、徹ね」

 噛み締めるように呟く凪沙の口から自分の名前に、胃の辺りがソワソワした。歴代の彼女たちからは名前で呼ばれているし、応援に来てくれる名前も分からないファンの子にすら名前呼びだ。他人に名前で呼ばれることは慣れているはずだ。なのに。

「えーと……天城さんは? 何て呼ばれ、たい?」

「私? 私は……そうだね、私も普通に名前で。というか、名字で呼ばれることが珍しくて、ずっとくすぐったくてさ」

「ああ、海外じゃファーストネームの方が主流だもんね」

「そうそう。そのくせ色んな呼び方あるでしょ。『キャサリン』でもケイトもいるしキャシーもいるしキティもいるから、本人の名乗る通りに呼んでるわけ」

 ああ、だからわざわざ聞いてきたのか。まあ、日本では『やっほー及川徹だよ、気軽に徹って呼んでね!』と自己紹介する機会はないだろう。じゃあ、と及川は腰を曲げて凪沙の顔を覗き込む。

「改めてよろしく、凪沙ちゃん」

「う、うん。よろしく、徹」

 そう言って、ニッとはにかむ凪沙。

 一歩、一歩と進んでいく。二人も、時も、関係も。全部が全部停滞することなく、川のように流れていく。それはきっといいことのはずなのに。とても素晴らしいことのはずなのに、及川は何故か、どこか焦ったような気分に苛まれるのだった。

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