目が覚めて、知らない天井が自分を見下ろしたことに驚いた。そういえば妙な輩に尾行されているからと、探偵事務所に寝泊まりしていたことを思いだした御幸は、凄まじく寝心地のいいベッドから這い出る。時刻は九時。平日はナイターばかりなので、大体この時間に目が覚めてしまう。二週間前なら起きてジョギングして朝食を、というところだが、生憎外には出られそうにない。仕方なく部屋から朝食を注文し、シャワーを浴びにバスルームへ向かう。 驚くことに、自宅よりも設備の充実したこの部屋は、もはやホテルと何の遜色もない。広めのリビングとベッドルーム、洗面所にバスルーム、キッチンまで備え付けられている。部屋のタブレット一つで食事から生活必需品まで取り寄せられるし、ベッドの寝心地は最高。バスルームも広々としており、居心地のいい空間となっている。広い家だが、一体誰が掃除しているのだろうか、なんてどうでもいいことを考えながらシャワーから出たところで部屋のチャイムが鳴った。早速取り寄せたシャツとスラックスというラフな格好でドアを開けると、そこには仏頂面した大男がおかもちと段ボールを抱えて御幸を見下ろした。 「あ、えっと、ども」 確か、あの女探偵の助手──名前は瑠夏とかいったか。他に従業員がいないのか、御幸の身の回りの世話は全てこの男の役目らしい。どちらかというと外で張り込んでる連中に殴りかかる方が得意そうに見えるのだが。段ボールとおかもちに入った朝食を受け取るも、瑠夏は動かない。 「あ、あの……何すか……?」 凪沙は同い年ぐらいだろうが、瑠夏はどう見ても三十オーバーだ。なので気に障らない程度の敬語訊ねると、瑠夏はムスッとしたまま一枚のチラシを差し出した。 「……下の階の、ジム」 「ジム?」 「飯、食ったら行くぞ」 「……な、なんで?」 確かに、貸し切りのジムだのプールだのがあるとは言っていたが。何故急に。そもそも御幸は此処に仕事の依頼に来たのだ。マスコミをシャットアウトし、快適に暮らすためではない。困惑がちな御幸に、瑠夏はますますぶすくれたように顔を顰める。 「……所長、が」 「天城?」 「あの人を呼び捨てにすンじゃねえッ!!」 吠える声に反射的に肩がびくりと震える。御幸とていい年した大人だが、ヤクザ顔負けの強面の大男に怒鳴られて驚かないわけもない。ドクドクと鳴り響く胸を押さえながら目を丸くする御幸に、瑠夏は悔しそうにサングラスのブリッジを押し上げる。 「あの人が、お前にトレーニングさせる環境を、用意しろって」 「!」 「お前の依頼は『球界に戻せ』だろうが。身体作り、怠るんじゃねえぞ」 そこまでは面倒見切れねえ、瑠夏は苦々しげに吐き捨てた。そうして「一時間後に来る」と言って、瑠夏は慌ただしく事務所の方へと走っていく。だが、途中で泊まってくるりと振り返る。 「ちょっと顔がいいからって、所長に色目使うんじゃねェぞ!!」 「……は?」 「あの人のハートを射止めるのは、俺なんだからなっ!!」 何かとんでもない告白されて、目が点になった。呆然としている間に瑠夏は事務所へすっ飛んで行ってしまった。なんか嫌に噛みついてくると思ったが、そういう事情があったのか。要らない情報である。 おかもちを抱えたまま呆ける御幸の横で、すぐ隣の部屋がパッと開いた。そこから、眠たげな目を擦りながら、なんと所長である天城凪沙が出てきた。しかも、寝起きなのかチェックのパジャマ姿である。 「うおっ!?」 「ったく朝から煩いわねえ、瑠夏は……」 昨日の話を聞くに、彼女はこのタワーマンションのオーナーだ。此処に住んでいても何ら不思議ではないが、まさか隣で寝泊まりしているなんて。驚く御幸を他所に、凪沙は暢気に伸びをしながら御幸に挨拶をする。 「おはよう、御幸。昨日はよく寝れたかしら?」 「い、いや、まあ──じゃなくて、あいつのあれっ、聞いてたのか!?」 「ああ、あれね。いいの、いつものことだから」 「は?」 「あの人、私に惚れたとか言って、一億と小指捧げてまで組を抜けたのよ」 「組──って、あいつヤクザだったのか!?」 まあ、あの風体に小指のない左手、薄々そうじゃないかと思っていた。だが、組を抜けた理由以上に、元とはいえ筋者の人間を雇っている凪沙に驚かされる。 「時には組の鉄砲玉として、時には組長の世話係として何年も扱かれただけあって、何でもできるの。最初はストーカーかと思ったけど、今じゃ立派ないい助手よ、彼」 「い、いい助手って……」 「ああ、平気。あの人、組み抜けるときに戸籍変えさせたから、あなたに反社会組織の人間とつるんでいる、なんて吹聴されることはないわ」 「待て待て待て!」 昨日から彼女の言葉には驚かされっぱなしだが、ついに犯罪ギリギリの発言まで飛び出してくるものだから流石に待ったをかけた。今何と言った、戸籍を変えさせたってなんだ。そんな家電感覚で変更できるものではないはずだ。だが、凪沙クスクスとからかうように笑うだけ。 「戸籍を偽造することはそう難しいことではないのよ?」 「そんなバカなことあるかよ……!」 「そりゃあね、元ある戸籍を弄るのは難しいけれど、戸籍を新しく作り直す分には、意外と難しくないものよ」 「どういう理屈だよ!?」 「素直な人ね。この日本に生まれた誰もが、出生届を出されるわけじゃないのよ」 「──、」 言葉は、出なかった。本当に、この事務所に足を踏み入れてからは、異世界のような話ばかりが飛び出してくる。けれど、考えてみれば当然のことだ。誰もが両親に愛され、祝福されて生まれるわけではない。望まれず、捨てられ、隠されるようにして育つ者だって、この法治国家にも存在するのだ。親に愛され、健全な野球少年として過ごし、プロ野球選手として大成した御幸の視界に、そういった人々が存在しなかっただけで。 違う世界、ではないのだ。地続きの世界のはずなのに、生きるフィールドが、過ごす場所が違うだけで、こんなにも──見えていないものがある。それだけだ。 「──なんてね。あなたはあまり、こういう世界は見ない方がいいわ」 「……知らない方がいいこともある、ってわけか?」 「そうね。あなたはあなたが生きるべき世界に戻るのだから、この事務所での出来事は──そうね、悪い夢よ。忘れるに限るわ」 「……」 「だから、今はトレーニングにでも精を出してて頂戴。あなたにはあなたの、私たちには私たちの戦場があるのだから」 そう言って、彼女はパジャマ姿のまま事務所の方へノロノロと歩いていく。冷えた朝食と共に残された御幸は、数秒立ち尽くした後、御幸は荷物と食事を抱えて部屋に戻る。しっかりと腹ごしらえをして、自らの戦場へ向かうために。 *** 瑠夏に案内され、事務所の下にあるフィットネスルームへと足を運ぶ。流石、タワーマンションに併設されているだけあって、設備は充実している。ランニングマシン、エアバイク、クロストレーナー、アブクランチ、チェストプレスにラットプルダウンなどなど、使い込まれた形跡のない真新しいマシンがずらりと並んでいる。 「すげーな、このレッグカールとか新品じゃねえか」 「このフロア自体、俺と所長しか使ってねえからなァ」 何十人とトレーニングできそうな空間なのに、たった二人だけで独占しているなんて何と勿体ないことか。昔と違ってプロ野球選手でさえ一般人の認知度は低いが、御幸は今やワイドショーでも取り上げられるほどの時の人である。他の人間と接触する機会がないのは非常にありがたいが、この快適さに慣れまいと御幸は自らに言い聞かせる。 「俺ら上で仕事してっから、何かあったら呼べよ。飯はこのフロアでも頼める。プールはあっちだ。他に足りねえもんがあったら取り寄せる。質問は?」 そんな御幸に、瑠夏はきびきびと施設を説明して回る。本当に至れり尽くせりである。三億払った価値をこんなところで見出しても仕方がないのだが、気疲れすることばかりだった御幸にとっては良い休養でもあるのかもしれない。ぐるりとフィットネスルームを見回しながら、転がるバランスボールに腰を下ろして御幸は瑠夏を見上げる。 「……バットとボール、あとグローブかなんか、あるか?」 そりゃあ、野球は一人ではできない。バットがあったところでできることはスイングのチェックぐらい。ボールやグローブがあったところで何もできない。それでも、気休めにはなると、思ったから。 そんな御幸に、瑠夏はしまったとばかりに息を呑んだ。 「やべ、忘れてた。こっち来い」 そう言って、瑠夏はプール横の戸を開ける。そこは階段になっており、上に続く薄暗い踊り場が見える。何の説明もなく階段を登っていく大男を追いかけて御幸も階段を登り、瑠夏の背中を追いかけてワンフロア上へ向かう。そうして扉を開けた先の光景に、息を呑んだ。 そこは、テニスコートぐらいの大きさの広い部屋だった。緑の芝が引かれ、ブース内には巨大なモニターと打席と思われる区画があり、その周りは頑強なネットやフェンスで覆われている。よく見かける、室内のバッティングセンターのようだ。ブースの外にはいくつものバットが段ボールに突き刺さっており、ヘルメットやサポーター、グラブやボール、なんと捕手のプロテクターまで備わっている。 「ホントはお前の家にグラブやらバットやら取りに行くつもりだったんだがな、お前んちはマスコミが張り付いてやがる。チンピラどもならぶっ飛ばすところだが、カタギの人間に手出しはできねーからよ、一通り買い揃えた」 「買い揃えた、って……!!」 「言ったろ、依頼達成率百パーセントだってな。冤罪晴らせたとして、お前がプロで活躍できなきゃ意味がないって、所長がな」 「天城、が」 不服そうに説明する瑠夏に、御幸は呆然とその名を呟く。あからさまに機嫌を悪くする瑠夏を無視して、御幸はバットを手に取る。あの日から一度だって振り込む暇のなかったそれが、今は少し重い。軽く振り込んでから、御幸はあることに気付く。 「これ、俺が使ってるメーカーの……」 バットだけではない。グラブも、おおよそ着る機会のないであろうプロテクターでさえ、愛用しているメーカーの物だった。驚く御幸に、当然とばかりに瑠夏は鼻を鳴らす。 「ったりめーだろ。ちゃんと調べて調達したんだからな」 「……マジかよ」 「所長の気遣いに感謝しろよ! ったく、所長は野球のルールすら曖昧なのに、お前の試合見てわざわざ同じメーカーの道具一式揃えたんだからな!」 そう言って、ドスドスと足音を鳴らして室内練習場と化した多目的コートから出ていく瑠夏。三億積んだとはいえ、ここまで手厚いサポートする探偵がいるのかと圧倒される。しかも、所長自らチェックしたという。一般的な探偵事務所というものを御幸は知らないが、つくづくとんでもない事務所にやってきたものだと思いながら、二週間ぶりのバットとボールに、御幸の笑みは自然と深くなったのだった。 *** ストレッチして、打って走ってトレーニング機材で汗を流し、久々に身体を温めた御幸は自分でも驚くぐらい気持ちがリセットされていた。状況は全く進んでいないが、これほどまでに手厚くサポートしてくれる連中だ、不思議といい方向に転がっていくのではないか、と思ってしまうのだ。例え相手が元ヤクザとそれを従える若い女であっても、だ。 シャワーを浴びて上のフロアへと戻る。用があるまでは自室で食事でもしていようかと思ったその時、事務所の方からやたら大声が聞こえてきて足が止まった。関西弁の男の声だ、内容まではよく聞こえないが、ぎゃあぎゃあと何か騒いでいる。事務所には来るなと言われてはいない。彼らがどのような『戦場』で戦っているのか、クライアントとして興味が出た御幸はこっそりと事務所の方へと向かう。ドアを開けて中を見ると、瑠夏はおらず、凪沙がパソコンに向かって誰かと話している。先ほどのパジャマ姿とは違い、赤いスカーフに黒スーツ姿だった。パソコンはプロジェクターに繋がっているようで、会話相手がでかでかと表示されているのだが、相手の顔を見て言葉を失った。スーツに眼帯をした中年男は、どう見てもカタギとは思えない。 『カーッ、今時野球賭博なんぞ流行らんやろ』 「やっぱそういうものですか?」 『正確には、稼げんのや。こんなこっすいシノギで飯食えたんは、せいぜい二十年前までやな』 「なら、尚更おかしいですよ。東城会の末端組織が、これだけの金と人が動かすなんて」 『現時点で十億近いんやろ、そらおかしいわな。……しゃーない、可愛い凪沙ちゃんのためや、ちょっくら動いたるわ』 「助かります。依頼料はあの若い子を通して送金しておきますので」 『ええてええて。その代わり、その御幸一也のサイン、貰っといてや』 「おら、そちらさんは西の方のチームを応援しているのかと」 『ええ打者はみぃーんな好きやで?』 「……まあ、理由はともあれ、協力的で助かります」 瑠夏に負けず劣らず強面男だが、凪沙とは仲睦まじい様子。若干引き気味の御幸に気付かぬまま会話は何事もなく終わり、凪沙はようやく御幸の様子に気付く。 「どうかした? あの室内練習場じゃご不満かしら?」 「……いや、休憩ついでに、お前らの仕事ぶりでも見ようと思っただけ」 「見ていて楽しいものではないけど……いいわ、クライアント様に進捗報告しましょうか」 そう言ってソファに座るよう促す凪沙の言う通りに柔らかなソファに腰を下ろす。プロジェクターには色々な写真が映し出されており、派手な柄シャツやらスーツ姿の男が何人も映っている。どれもこれも屈強な強面男ばかりで、一目でその筋の者と分かる。 「まず、手っ取り早くあなたの通帳に送金した組織を洗ったの。どうやったって自動的に金はあっちこっちに動かない。意図的にあなたの通帳に送金した誰かがいるはずだもの」 「なるほどな。送金履歴から洗った訳か」 「そういうこと。名の知れたハッカーでもない限り、メガバンクへの送金履歴を偽造するなんてできないわ。だから色んな受け子、出し子を使って足がつかないように動かしてるみたいだけど……まあ、金額が金額だもの。悪目立ちするわね」 「じゃあ、出所が分かったのか!?」 「海外バンクを経由された時は頭が痛かったけれど、所詮人の子よね。札束で引っ叩いたらベラベラ喋ってくれたわよ」 まだ依頼をしてからたった一日しか経っていないはずなのに、情報収集が早すぎる。もしや彼女たちは、御幸が依頼する前からもっとずっと前から調査に乗り出していたのではないか。三億なんて吹っ掛けておいて、御幸が逃げ出すとは端から考えていなかったのかもしれない。 「金の出所は『松金組』と呼ばれる、東城会系列の極道組織だったわ。東城会については前に説明したわね?」 「あ、ああ……すげえでかい極道組織、だろ?」 「そう。その中でも松金組は──まあ、所謂枝葉、末端組織ね。東城会の三次組織。構成人数も少なく、町の隅のビルのワンフロアがその事務所。ほんと、調べれば調べるだけ変な事件だわ……」 凪沙の言う『奇妙な点』が理解できず、御幸は首を傾げる。そんな御幸に飽きれもせず、彼女は懇切丁寧に解説をする。 「松金組はね、つい最近組長が抗争で銃殺されたの。ついでに、組に金を回していた若頭も、抗争に巻き込まれて消息不明」 「……そ、そうか」 聞けば聞くほど、映画みたいな話である。このご時世にヤクザの組長が抗争に巻き込まれて銃殺だなんて、フィクションのようで現実味はない。けれど、首を吊ったという監督の生前の笑顔を思い出して、膝の上で拳を握り締める。そうだ、この世界はもう、御幸にとってフィクションでも別世界でも何でもないのだから。 「当然、末端組織のツートップがいなくなったのだから、組は瓦解寸前。一応組のアニキ分が取りまとめて何とか二代目組長としてのし上がろうとはしてたみたいだけど……抗争で随分兵隊を失ってしまったみたいだし、中々上手くはいかないみたい」 「……それで?」 「暴対法の取り締まりでただでさえ稼ぎの少ない極道の、その中でも瓦解寸前の組なのよ。人に三億も送金するほど、懐事情に余裕があるとは思えない」 「──!」 「仮に他の組織の二次受け三次受けだったとしても、説明の通り、組長も若頭も不在の組織よ。東城会には何百もの極道組織があるのよ、お偉方もいないのに、こんな大きな仕事の契約を取り交わす馬鹿はいないわ」 ──なるほど、御幸にもその『奇妙な点』がようやく理解できた。動いてる金額から、大きな組織が動いているはずなのに、出てきたのは社長もいないような小企業。おまけに、どこからともなく送金された三億は賭博罪によって押収された。つまり、その組も御幸も一銭も得ていない。極道組織の懐事情がどれほどかは御幸にも分からないが、少なくとも『三億』はそれなりに価値のある金額であることが凪沙の口ぶりからも察せられる。であれば、懐の寒い組織が何故、押収される可能性の高い大金を御幸一也に渡したのか? 「この件は冤罪なのだから、あなたを──或いはあなたのような人を球界から追放するのが目的だと推測してるけど、それにしたって金額が大きすぎるし、人も死に過ぎてる。今の松金組にこんな大金も人員も動かせるだけのシノギはないはずよ」 「つまり?」 「背景には、もっともっと大きな組織がいる。それこそ、東城会直参レベルのね。それでさっきの通話で、東城会幹部が関わってるか確認してたの」 「……さっきの、眼帯の?」 「あの人は東城会直参の組長なの。一見気さくな人だけど、実質ナンバーツーとまで言われている──まあ、とにかくすごい人よ」 とても御幸の目には『一見気さく』には見えなかったが、突っ込む気も失せたので頷いておくことにした。 「心当たりがあるか尋ねたけど、答えはノーだった。だから、他に突然懐が温かくなった組織がないか洗ってもらってるの。向こうだって、自分たちの知らないところでマスコミが注目するようなシノギを上げても、首が締まるだけでしょうしね」 「けどよ、理由や目的は分かんねえけど、もしその、東城会の幹部って奴らがこの件に絡んでたとして、素直に『やってません』なんて言うもんか?」 反社会的勢力が関わっているのだから、情報源も反社会的勢力から引き出すのは自然だろう。だが、話を聞く限り、凪沙は『東城会』という同じ組の人間に事情聴取をしている様子。同じチームの悪事なのだ、素直にペラペラ喋ってくれるとは思えない。そんな御幸の疑問に、凪沙は「正論ね」と頷いた。 「無論、私も全部が全部信じるつもりはないわ。けどね、彼らはやってないと思う。……これはあくまで、私個人が信じてるだけなんだけどね」 「……その根拠は?」 「んー、なんて言うのかしら。あの人たちが動いているにしては、やり方が陰湿すぎるのよね」 「は?」 思いがけない感覚的な答えが返ってきて、肩の力が抜けそうになった。けれど、凪沙は真剣そのものだった。 「何の罪もないプロ野球選手の未来を奪って、カタギの監督さんを自殺に見立てて殺害して、それを嗅ぎ回るライターを何人も始末してる──おかしいわ。原則として彼らはカタギに手を出さないもの」 「……そんなの、事と状況次第だろ」 「勿論、ヤクザ全員がそうとは言わないわ。でも、私の知ってる彼らのやり口じゃないと思う。だから、考えられるとしたら組織内で彼らの与り知らないヤバイ奴がいるか、もしくは東城会と同等レベルの別組織が絡んでいるか、ね。ヤクザなのか、企業なのか、それとももっとヤバイ何か、なのか」 冗談も大概にしてほしい。今だってとんでもない連中のオンパレードだというのに、更に上がいると言うのか。ただ野球がしたいだけなのに、どうしてこうも壁は厚いのか。どうしようもない悔しさに呻く御幸に、凪沙は元気づけるようにウインクした。 「安心して。一度受けた依頼を、投げたしたりしないわ」 「……そーかよ」 「ええ、こんな面白い事件、またとないもの」 どこかうっとりするようにそんなことを言い出す凪沙。これはこれで大概な女である。とはいえ、『信頼しろ』だとか『金払いがいいから』でもなく、単純に『面白い』から事件を追い続けると馬鹿正直に告げる凪沙の好奇心は本物だと思う。 「とはいえ、今日明日で解決するような連中が相手じゃないのは確かだわ。今はここで気持ちを落ち着けておいて。その為に必要なものがあれば、何だって用意するわ」 「あ、ああ──」 その時、背後の扉がバッと開き、息を切らせた瑠夏が転がり込んできた。 「姐さん! 外の連中の素性が割れやしたぜ!」 「あら、早かったわね。穏便に済ませたでしょうね?」 「言いつけ通り、情報屋連中を札束で引っ叩いてやりやしたよ!」 「上出来だわ。で、どこの組?」 「やっぱ組のモンじゃねーみたいです。半グレの──連中は、『蒼炎会』と名乗ってるようで」 「……それ、確か横浜を拠点にした組織じゃなかった?」 「ええ、異人町を中心に悪さしてるグループですね」 「そんなのがなんでまた神室町に──まあいいわ、手がかりしては十分よ!」 そう言うなり凪沙は立ち上がり、椅子に掛けていた黒スーツのジャケットに袖を通す。何が起こったのか理解が追い付かない御幸は、二人の男女を見上げるだけ。そんな御幸に、凪沙は不思議そうに首を傾げた。 「何をぼーっとしてるの? さあ、出かける準備をして!」 「……は?」 「あなたを尾行してる連中の素性が割れたのよ。そうなったらやることはただ一つ、連中の拠点に乗り込んで直接事情を聴き出すに決まってるでしょ!」 ──そう。御幸はまだ、凪沙の好奇心の全貌を理解した訳ではなかったのだ。目の前の女は好奇心のためなら、喜んで他人を巻き込んで虎穴に飛び込むような命知らずだったのだと、青年はようやく悟ったのだ。 |