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 曰く、女──天城凪沙が秘書のフリをしていたのは、単純に若い女相手だとナメてくる客がいるからだ、とのこと。

「その点、瑠夏の顔見て、無礼を働こうとは思わないでしょう?」

「ま、まあ……」

 プロジェクターを準備したり、コーヒーを淹れたり、プロ野球選手の自分よりもガタイのいい大男が事務所内をあくせくと走り回っているのを眺めながら、御幸は曖昧な返事をする。どうやら本当に、彼女がこの事務所の所長らしい。

「それとも、こんな若い女では頼りになりませんか?」

「いや、別に。……ただ」

「ただ?」

「なんか──いや、まだ夢の中にいるみたいで……」

 御幸にとってはあの日から悪夢の連続だった。何が起きたか理解できなかった。何が起こってるのか把握すら困難だった。そんな中で、やれ極道組織だの命を狙われるだのと非日常のオンパレードが続き、それでいて縋った藁は筋骨隆々の大男を従える年若い女だなんて、映画やドラマの世界に迷い込んだ気分になる。

 素直にそう述べると、凪沙はくすりと笑みを深めた。

「無理もありません。ですが、ご安心を。我が社は一度たりとも依頼を失敗したことがありません。依頼達成率も、顧客満足度も百パーセントの高水運を維持しておりますので」

「……あ、そ」

 正直、探偵における顧客満足度の是非は御幸にはよく分からない。依頼達成率百パーセントとたびたび口にしているが、実際にどのような実績を積んできたのか御幸は分からない。この二人に御幸に降りかかる火の粉を払えるのか、今の段階では判断できなかった。三億も積んでおいて今更な話であるが、やむを得ない。御幸とこの探偵事務所との間には、信頼も何もないのだから。

 とはいえ、此処まできたら出来る出来ないの話ではない。出来ると言うのなら任せる、それだけだった。それでダメなら次の方法を考える。御幸はただの一度だって、プロに帰り咲く日を諦めていない。当然だ、野球賭博なんてやっていない。冤罪なのだ。絶対に不正の証拠があるはずと、信じていたからだ。

 すると大男が三人分のコーヒーと茶菓子をお盆に乗せて戻ってきた。

「所長、準備できやした」

「ご苦労、瑠夏。それじゃ御幸さん、改めてミーティングといきましょうか」

 そう言うが否や、部屋の明かりが落とされ、白い壁にはプロジェクターから投射された画像がでかでかと映し出される。どれもこれも、御幸の野球賭博に関する記事だった。

「我が社だって伊達に依頼達成率百パーセントを謡っておりません。こうしてご足労頂く前に、可否判断を行うために事件について軽く調査をしておりましてね」

「……それで?」

「改めて認識合わせといいますか、実際当時何が起こったのか、あなたの口からお聞かせ願いたい」

「……」

 凪沙の言うことは尤もだ。実際何が起こったのか、当事者の御幸でさえろくに把握できなかったほどだ。外部者である凪沙たちが仔細を掴んでいるはずもない。けれど、あの絶望感を思い出すだけで胃が痛む。プロジェクターから視線を逸らす御幸に、凪沙は辛抱強く頷いた。

「辛いことだとは思います。けれど、冤罪なのでしょう?」

「当たり前だ!」

「なら、気に病むことはありません。我々が必ず、真相を暴いてみせます」

 目の前に座る若い女は、力強くそう告げる。迷いない一言に、御幸は意外そうに眉を上げた。

「……あんたは、俺がやってないって信じるんだな」

「勿論です。どうして?」

「そりゃ、あんだけ証拠画像や音声が出回ってたんだぜ。チームメイトでさえ、俺がやったと思い込んだ」

 勿論、証拠画像だの音声データなどは全くの捏造だ。けれど叩けば埃のように出てくるそれらに、誰もが「まさか」と言いつつ、庇ってはくれなかった。その程度の人間に見られていたのかとショックを受ける一方で、逆に疑いもせず御幸の冤罪を晴らそうとする凪沙たちが不思議だったのだ。けれど凪沙はきょとんとした顔でこう言った。


「依頼人が『やってない』と言うのです。探偵がそれを信じないでどうします」


 ──シンプルな理由。故に、御幸の中に響いた。たった数週間で謂われなき誹謗中傷を一生分浴びた御幸に寄り添うような、その一言。柔らかく微笑みながらコーヒーを啜る女を前にして、この探偵事務所がどうして膨大な依頼料をふっかけても客が途絶えないのかが分かったような、そんな気がした。

 ほんの少しだけ気分が軽くなった。御幸は二週間前のことをぽつりぽつりと話し始める。監督に指示された通りに打った。次の日には野球賭博の容疑がかかり、覚えのない大金が振り込まれた。御幸から賭博を持ち掛けられたという反社会組織の男の証言、証拠の音声データや反社連中との密会画像などがばら撒かれ、家には絶えることなくマスコミが押し寄せた。そんな中で球団から球界永久追放という、事実上のクビを宣告された御幸は呆然としながらも、必死にその冤罪を否定し続け、その材料を集めようと必死だったが、素人では限界があったこと。そんな中で、この名刺を寄越した人がいたこと。こうして、この天城探偵事務所にやってきたこと、全てを打ち明けた。

 凪沙も瑠夏も適度な相槌は打ったが、悲観的な顔は一切見せなかった。瑠夏は凄まじいスピードで御幸の言葉をタイピングして打ち込み、凪沙は御幸の話を聞きながら時折手元のタブレットをスワイプさせるだけ。そうして全てを語り切った時、彼女はふうと一息ついた。

「ふむ。聞いている限りだと、糸口は極めてシンプルかと」

「どの辺が?」

「だって、監督の指示通りに動いて『これ』だったのでしょう? 様子がいつもと違ったというお話もありましたし、この人に当たればそれなりの情報が引き出せるのでは?」

「……この探偵事務所は、死人にも事情聴取するのか?」

 皮肉めいた口ぶりに、自己嫌悪に陥る。厳しい監督だったが、決して悪い人ではなかった。けれど、彼が一週間前に『御幸一也が野球賭博なんぞに手を染めたことを不覚お詫びします』と遺書を残して首を括り、御幸の逃げ道は益々無くなった。遺族からは人殺しと責められ、いよいよ球界に御幸の場所はなくなったのだから。

 だが、二人とも特に驚きはせず、コーヒーを啜るだけ。

「遺書を残して自殺。まあ、ヤクザの取る一般的な殺しの手口ですからね」

「──は?」

「どうせ背中に銃を突きつけられて、遺書を書かされたのでしょう。可愛い教え子の不貞を詫びて首を吊るなんて、義の通し方が千年古いというか」

 呆れたように嘆息して、凪沙はローテーブルにコーヒーのマグカップをコトリと置いた。だが、御幸はそれどころじゃない。寝耳に水、なんてレベルじゃない。なんだ、それは。じゃあ、監督は自殺ではないというのか。

「な、なんだよ、それ……じゃあ、監督は、ヤクザに殺されたのか!?」

「十中八九そうでしょうね。自責の念で首を吊るような繊細な方でなければ、ヤクザに脅されて、言うこと聞いて、最後は切り捨てられた」

 彼女は事も無げに告げる。まるで汚れているから掃除をしたのだと告げるように、凪沙は人の死を語る。それさえも信じられない。彼女は当たり前のように人の死を語る。凪沙にとって見ず知らずの他人とはいえ、既にこの件で六人もの人間が闇に消えているというのに。やはり別世界の人間なのだと思う一方で、自分もまたその世界に片足を踏み入れることになったのかと思うと、ぶるりと身震いする。

 勝手に死にやがってという憤りは、文字通りどこかへ消えた。そうだ。そもそも自責の念で首を括るような繊細な人間が、プロ野球の監督になんかなれるものか。勝てば官軍負ければ賊軍、日々マスコミやネットにあることないこと書かれて、叩かれて、炎上して、そんな日常を何年も過ごしてきた名将だったのだ。そうだ、そうだ。どうしてそこまで頭が回らなかったのだろう。いくら御幸を可愛がっていたからといって、自殺なんてするはずがないというのに。自分のことばかり大変で、全く周りが見えていなかったのかもしれない。御幸は悔しそうに膝を殴る。

「なんで──そんな……監督が……!」

「そりゃ、生きていると困るから殺されたのでしょう」

「……たった、それ、だけで?」

「ええ、それだけで人は人を殺します。神室町における殺し屋への依頼の相場は──具体的には運び屋なりバラし屋なりを通すのですが──まあ、おおよそ一人一億と言われています」

 一人、一億。その重みを確かめるようにその言葉を繰り返す御幸。たった一億なのか。一億も要するのか。判断は付かない。問題はそこではない。問題は、『金で人の命の是非が決まる』という世界がすぐ傍に存在する、ということで。

 凪沙は淡々と、御幸にその世界の常識を諳んじる。

「いいですか。我々の見込みでは、もう六億は動いた。理由はまだわかりませんが、あなたを陥れた犯人たちは、それ以上のマージンが見込めるから、六人もの人間を闇に屠ったのです」

 一体、何がどうなっているのか分からない。きっと、凪沙でさえその真相は見えていないのだろう。けれど確かなことは、命に値をつけて売買するような輩が、何らかの理由で御幸を球界から追放したこと。とす、と柔らかなソファの背もたれに身を預ける。あまりに常識外れな出来事の数々に、一周回って他人事のように思えてきた。それでも、自宅で首を吊ったという監督の顔を思うと、怒りが滲み出てくる。一体誰が、何のためにあの人を殺したのか。

 最後に見た監督の顔を思うと、やりきれない。彼は御幸に助言したあの日から、死を覚悟していたのだろうか。それとも、まさか自分が殺されるとは夢にも思わなかったのか。何にしても死人に口なし──そうだ、きっと御幸を陥れた連中は、それが狙いだったのだ。

「監督は、口封じで殺されたのか……?」

「まぁ、概ねそんな理由かと。あとはまあ、あの遺書も目的の一つだったのかも。でっち上げでも、あなたの冤罪を裏付ける証拠などいくつあっても足りない。何せあなたは『やっていない』のだから」

 確かに、あの遺書は決定的だった。あんなものが出回ったら、誰だって御幸が野球賭博に手を染めたのだと、信じてしまう。人一人の死は、彼らの世界では金が動くだけの事象だろうが、表の世界では別だ。人殺し、罪を償え、そんな言葉のナイフを幾度も向けられても、御幸はただ容疑を否定することしかできない。

 ふと、いつかの学生時代を思い出す。数学の問題だっただろうか。何かが起こったことよりも、何かが起こってないことを証明する方が難しい、と教えた教師がいたような。今回も、きっと同じだ。野球賭博なんかやっていない──御幸は言葉しか武器がない。なのに『捏造証拠』は、いくらでもでっち上げられる。

「……っ」

 とんでもないことになった。改めて思う。けれどやはり分からないのは、どうしてこんなことになったのか、ということだ。ちらりと凪沙の顔を見るも、彼女は熱心にタブレットに目を落とすだけ。

「監督さんが生きていれば情報を洗いやすかったのですがね。まあ、いないものは仕方がありません。千里の道も一歩から、監督さんの周りで怪しい連中がいなかったか調査を進めましょうかね」

 その言葉を聞くや否や、凪沙の隣に座っていた瑠夏が立ち上がり、スマホを手にしたまま隣の部屋へと向かっていく。御幸は再び凪沙を見つめる。ソファで足を組んでコーヒーカップを傾けたまま、じっとタブレットを見つめる彼女に訊ねる。

「なあ」

「はい?」

「あんたは、分かってるのか? 誰が、何のためにこんなことしたか、って」

「いいえ、全く。見当もつきません」

「な──」

「それぐらい、この事件には不自然な点が多い」

 バッサリと否定する凪沙だったが、心底楽しそうに笑みを浮かべていた。そういえばこの女にとっての依頼は『道楽』だったか。難事件であればあるほど楽しい、そんなところか。人の人生を何だと思ってるのかと苦言を呈そうとして、そういう契約だった、と言葉を飲み込む。

「不自然、って?」

「いくつかあるのですが──やはり一番おかしいのは、何故ターゲットが御幸一也だったのか、という点でしょうか」

「……どういうこと?」

「御幸一也──野球ファンなら誰もが知る天才捕手。打って守って大活躍。その一方で、私生活は極めて質素。夜遊びもしなければ女遊びもしない。野球マシーン、野球が趣味──実際どうだったかはさておき、世間一般の目にはそう映っていたそうですね」

 そう言いながらタブレットをスワイプすると、プロジェクターには御幸一也の華々しい活躍やインタビューの記事がスライドショーのように流れてくる。この世界に足を踏み入れて七年、こうして振り返ると本当にいろんなことがあった。追い詰められてからの劇的満塁ホームラン、何人もの投手を巧みなリードで導き、好走塁でのホームインなど、一つ一つの記憶が今もなお鮮やかに蘇る。ああ、野球がしたい。映像を眺めながら、青年は思う。あの場所に、帰りたいと。強く。

 そんな御幸の施行を断ち切るように、凪沙は首を傾げる。ぱきん、と首から出た音に、御幸は目を瞬いた。

「だったら、もっと不正とかやってそうな素行の悪い選手にコナかけません?」

「……そりゃ、まあ」

 確かに、まあ。御幸は呆気に取られながらも頷いた。いかにも野球賭博に手を出しそうな、そんな素行の悪い相手がターゲットだったら。それを嗅ぎまわる記者たちだって、不自然に思わなかっただろう。ああ、あの選手ならやりそうだ、と。事件の裏まで足を吹見れることはなかっただろう。

 だが、野球マシーン、なんて言われるほどにスキャンダルから程遠い、清廉潔白な御幸が事を起こしたのだ。誰もが『まさか』と思っただろう。そのせいでこの事件の『裏』を匂わせてしまい、結果多くの記者が行方をくらませた。

「御幸さん、これはとても大事なことですよ。我々は未だ敵の姿が見えていない。故に敵の狙いすら絞れない。だから推理をしなければならない。探偵らしくね」

 そう言うなり、彼女は座ったまま前のめりになる。ぎらりと煌めく瞳には、子どものような無邪気さと、人の命に値段を付ける世界の住人らしいどう猛さが共存していて。

「何故あなたがターゲットだったのか。可能性としては三つでしょう。『御幸一也でなくともよかったのか』、『御幸一也のような人であればだれでもよかったのか』

「──っ」

「それとも、『御幸一也でなければならなかったのか』」

 その推理に、ぞくりと背筋が凍る。前者二つだったら、ただ運がなかっただけとも言える。交通事故のようなもの。数多の野球選手の中で、たまたま御幸一也だった、それだけだ。けれどもし、後者だったら。『御幸一也でなければならない理由』が、あるとしたら。

「心当たりはありますか?」

「ねえって」

「知り合いに半グレや反社会組織の人間は?」

「いねえ、絶対に」

「では、他人から恨みを買った覚えは?」

「そんなの──」

 ない、と言い切れるのだろうか。御幸はそこまで自分の性格を評価していない。性格の良し悪しで問われれば『悪い』部類であることも自覚している。人付き合いもそこまでいい方ではないし、後輩の沢村とは違って愛想を振りまくタイプでもない。何より、十九の頃から御幸は正捕手の座を幾多の先輩たちから奪い取った。御幸や球団のファンには喜ばれても、他の捕手のファンからしたら目の上のたん瘤だ。他の捕手だって、全員が全員御幸に好意的かどうかは分からない。あいつさえいなければ自分が正捕手に──なんて思う人間の一人や二人、居たって何ら不思議ではない。

「……分からねえよ。生きてりゃ恨みの一つや二つ、買うだろ」

「ご尤も。けど念には念を、その線も洗いましょう。自分のこと恨んでそうだなー、とか思う人を挙げてみてください」

 そう問われ、御幸は渋々自分のことを目の敵にしていそうな先輩捕手やコーチの名前をいくつか挙げる。決して彼らに恨みはないし、どうこう思ったことは無い。ただ漠然と、嫌われているな、と感じる相手は世の中にいくらでもいる。実際のところどうかは分からないが、そもそも全世界の人間に好かれるなんて不可能だ。だからそれでもいいと思っていたのだが、それでも同じチームメイトだったのだ。御幸を球界追放し、監督を自殺に仕立てるほどの恨みだったとは思いたくない。

 彼女は真面目な顔でその名前をメモして、別のタブレット端末に入力したり、ソファの上で忙しなくあれこれと作業をしている。そうしているうちに、隣の部屋からのっそのっそと瑠夏が戻ってくる。

「所長、狂犬殿とアポ取れやした」

「ご苦労。依頼料はいつもの口座から入れておいて」

「へい」

「それと、さっき送ったリストの身辺調査もよろしく」

「へい。それから、やっぱ居やした」

 その一言に凪沙の目がそっと細まった。何が、と訊ねる前に、凪沙は溜息を吐いて立ち上がった。そうして窓の外を見て、フウン、と鼻を鳴らした。

「御幸さん、しばらくは帰らない方がよろしいかと」

「アンタ、付けられてるぜ」

「──は?」

 素っ頓狂な声が飛び出した。付けられている──その言葉の意味を察するのに、時間はかからなかった。たったこれだけの会話で理解できる程度には、事は事だと御幸も把握できていたから。

「尾行されてる、ってことか? 俺が? 誰に?」

「さあて、なんとも。一つ確かなことは、あなたを陥れた連中は、よっぽどあなたに球界に戻って欲しくないのでしょうね」

 そう言いながら、彼女は窓に背を向け、瑠夏を見上げる。

「どこの連中?」

「代紋はつけてねえようです」

「あまり見覚えのない連中ね。半グレかしら」

「トーシロか。だったらあの粗末な尾行も頷けやす」

「けど、相手はプロ野球選手よ。そこらの半グレが関わるような人間じゃない……となると、連中は下請けと考えた方がよさそうね」

「締め上げやしょうか?」

「下手に刺激しない方がよさそうだけど……」

 そうして凪沙はちょいちょいと御幸を手招く。御幸は不審そうな顔で立ち上がって、窓の方へと向かう。下を向けば、ぞわりと身震いするような高さだ。それでも目を凝らすと、エントランスの外側、地下駐車場の近くの茂みに、タワーマンションにそぐわぬガラの悪そうな男が三人、ちらちらと不躾にエントランスを眺めているのが見えた。

「連中に覚えは?」

「……よく見えねえ」

「それもそうね」

 そう言って、彼女は窓に指を滑らせた。すると、窓の景色がぐるりと動き出し、怪しげな男たちの顔をズームアップしてみせたではないか!

「この窓、映像なのか……!?」

「ええ。窓丸出しの高層ビルなんて、外から狙撃されやすくなりますから」

 何故狙撃されることを想定しているのか、御幸は深く考えないことにした。別世界の人間。異世界の存在。ここは映画の中なのだと御幸は自分に言い聞かせて、男たちの顔を見るも、覚えはない。ゆっくり首を振ると、凪沙はワンタッチで部屋の景色を元に戻す。

「というわけで、このフロアからは一歩と出ないことをオススメします」

「じゃあ、どうしろって──」

「あら、さっきいくつも部屋を通ってきたでしょう? あそこはゲストルームです。ベッドもシャワーも一通り揃っております。着替えなど足りないものは部屋に備え付けられているパソコンからお好きに注文してください。必要とあらば瑠夏が買いに行きますから」

「……ここに泊まれ、ってことか?」

「ではあの連中を背負って帰りますか?」

 質問を質問で返され、ウッと息を呑む。何が目的で張り込んでいるかは分からないが、何人もの人間を闇に屠ってきた連中がいると散々聞かされた今、ノコノコ出歩くのも危険だろう。さっと視線を背ける御幸に、凪沙はにこやかに微笑む。

「ご安心を。ある程度の要人が住むマンションですから、セキュリティもそれなりに万全です。警備会社は──まあ、素行には難がありますが──腕は確かな連中ですし、四十階以降は住人が持つ鍵とコンシェルジュの付き添いがなければ上がってこれません。二十四時間スタッフや警備員が見て回っていますから、多少の荒事には耐えきれるかと」

「い、いや、そういうことじゃ──」

「不安も分かりますが、快適さには事欠かないと思いますよ。二十五階には住人専用のレストランが併設されていますが、ルームサービスも可能ですのでご自由に注文下さい。四十階にはVIP専用のフィットネスジムやプールを備えたスパもあります。四十階以降は部屋を売っていないので、独り占めできますよ。あとは──」

 そういう問題じゃない。部屋の快適さなんて求めてない。けれど、聞き捨てならない一言に、思わず真顔で聞き返した。

「……は? なに、ここあんたの持ち家なのか?」

「はい。上はいくつかサーバールームや資料置き場にしているのですが、基本的には空き部屋ですね」

「……ここ、地上五十階とかじゃないっけ」

「ええ、それが何か?」

 ということは、十フロア分を意味もなく独占しているらしい。成金探偵、と先ほど誰かが悪態をついていた意味がようやく分かった。御幸一也も一般的にはセレブと呼ばれるだけの稼ぎはあるが、彼女はどうやら格が違うらしい。都庁近くの立地にこれほどの物件、賃貸だったとしてもひと月何百万の家賃がかかるか──御幸は深く考えることを止めた。別世界の人間。異世界の存在。ここは映画の中。自分を落ち着かせる合言葉にするとしよう。

 空になったマグカップを瑠夏に押し付け、凪沙は労わるように微笑んだ。

「今日は色々お疲れでしょうし、少し休んでください。我々の方で調査を進めておきますので、また明日に進捗のミーティングを行いましょう」

「……分かった」

「ああ、部屋の鍵はこちらに。場所は事務所出て手前の廊下を曲がって突き当り。窓は全て映像なので、景色は自由に変えて頂いて結構です」

 そう言って、凪沙はカードキーを差し出したので受け取る。ひとまずは待ちの姿勢か。あまりゆっくりする時間は御幸にはないが、焦ったところでできることなど限られている。東城会だのヤクザだの半グレだのと、あまりにパワーワードが多すぎて、話を聞いているだけでも疲れた。凪沙の言葉に甘えることにしよう。

 そう思って踵を返したところで、御幸は足を止めて振り返る。

「……敬語、いいから」

「はい?」

「歳、変わんねーだろ。客とかそういうの気にしねえし、堅苦しいのは、いい」

 その言葉に、凪沙も瑠夏もきょとんとした顔で御幸を見つめ返す。別に仲良くなりたいとか、そういう意味はない。ただ、なんとなく、この女の敬語が『似合わない』と思ったのだ。聞いているとぞわぞわするというか、何というか。慇懃無礼なほど礼節を欠いているわけではないのだが、どうにも『不自然』な気がした。ただ、『お前の敬語下手すぎるぞ』と言ってるようなものなので、深い理由は告げなかった。

 凪沙は不思議そうな首を傾げ、瑠夏はあからさまに舌打ちをした。それを横目で見た凪沙は、フッと力の抜けたような笑みを浮かべてから頷いた。

「……そうね。一日でも早く事件の解決に努めるけれど、きっと長い付き合いになると思うわ」

「所長!?」

「お黙り、瑠夏」

 ギョッとしたような瑠夏をぎろりと睨んでから、凪沙は再び御幸に向かって手を差し出した。

「よろしく、御幸。私のことは好きに呼んで」

「……ああ。よろしく、天城」

 再び握った手は、やはり小さい。これがヤクザだの半グレだの絡んでいるという事件を解決できるのか、やっぱりまだ分からない。それでも、御幸一也の無罪を一切疑わなかった名探偵の目に賭けてみよう──プロ野球選手としての称号をはく奪された青年は、楽観的にも、そんなことを思ったのだった。



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