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 翌日、早速とばかりに凪沙はベッドから這い出た。そうして瑠夏が作った──凪沙がリクエストしたという──卵粥を三人で平らげ、準備万端とばかりに凪沙は着替えた。カチッとしたスーツに、真っ赤なスカーフを胸に差して、手には痛々しい包帯を巻く。ザックリと切られたはずだが、彼女は意にも介さず鞄を手に取るので、瑠夏と二人して出発前から大騒ぎする羽目になった。

「大丈夫、大丈夫よ! 子どもじゃあるまいし!」

 大の男二人を、凪沙は呆れたように振り払う。そうはいっても心配させるようなことをする凪沙が悪いと思う。瑠夏も同じ意見だったのだろう、不満げな顔を隠しもせずにジト目で睨む。すると凪沙は気まずそうな表情で後退る。

「わ、分かってる! 無茶はしない! しないってば!」

「……」

「……」

「何その顔! どれだけ信用無いのよ、私!!」

 凪沙は猛抗議するが、当たり前だと言いたい。敵のアジトにいの一番に乗り込もうとするし、暗殺者相手に一歩と引かずに攻撃を受け止めるし、さらに今からわざと敵に誘拐されようと一人で町中をウロつこうというのだ。心配にもなる。

「捕まるっていっても、私を誘拐しようとする連中をおびき出してこっちが締め上げるだけでしょ! 瑠夏に常時監視してもらうし、荒事になったら逃げる! 私の逃げ足の早さはウチを取り立ててた瑠夏が保証する!」

 作戦はシンプルだ。総角一派、もとい紅城夕木の指示で凪沙もまた御幸同様生きて捕獲される対象となった、と名探偵は解釈した。正体も割れたのだ、後は御幸を嵌めた証拠を掴むだけ。長期戦は性に合わない、と凪沙は自らを囮に買って出る。御幸を守る必要があるため、瑠夏と御幸は離せない。かといってこの二人が出歩いていたら、御幸一也の裏社会関与を裏付けかねない。凪沙と御幸では御幸を守り切れない。こうする他ないのは、御幸でも分かっている。分かっていても、やはり彼女を犠牲にするようなこの作戦にいい顔はできない。

「大丈夫。心配しないで」

 そんな御幸の前で凪沙が肩を竦めて笑う。不安げな御幸を励ますような、柔らかな声色だった。

「借金取りに散々追いかけ回されたのよ。このくらいの場数は踏んでる。それに連中は私と生け捕りにしたいみたいだし、何とかなるわよ!」

「……そりゃ、分かってっけど。けど、せめて回復待てねえか?」

「待たない」

 静かに否定して、凪沙は御幸の頬に手を伸ばす。包帯を巻かれたその手の傷は未だ癒えていないだろうに、躊躇わずに御幸の頬に触れる。指先は温かく、脈打っているのが分かる。

「言ったでしょ。あなたの試合が見たいのよ」

「……そんな、急ぐぐらい?」

「ええ、勿論」

 凪沙は嬉しそうに微笑んだ。結局、三日ほどかけて御幸の試合を見返したが、凪沙と御幸の目には怪しい人物は映らなかった。ポジション上ラフプレーの頻度は高いが、御幸との接触で身体を壊したような選手はいなかったし、御幸のリードのいいようにやられたからって乱闘騒ぎになるわけでもなく、御幸の打球で人を殺すほどの恨みを買う出来事も記録されていない。故に、亜門が御幸の顔見知りという線より、『御幸のせいで何らかの損失を被った』相手だろうと凪沙は踏んだ。御幸にその心当たりがないため、手っ取り早く敵のしっぽを掴むために、彼女はこうして虎穴に飛び込もうと鼻息を荒くする。

 だからこの三日、凪沙が得られた情報は野球のルールだけ。野球=打って走ってというレベルだった彼女は、スタメンを見て『なにこの打順各駅停車!?』と驚いたり、投手の対左右成績を見ながら『相手考えたらここは投手変え時よね……』などとしみじみ頷くようになった。それが、楽しかったのだろうか。球界に返り咲く御幸の姿が見ただけだと、女はウインクした。

「資金は潤沢だもの、特等席のチケット、もぎ取ってやるんだから」

「……ばーか。プレミアムシートぐらい、用意してやるって」

 その言葉を了承と取ったようで、スッと温かな手が離れる。そうしてスーツ姿の女は颯爽と、事務所を後にする。残った瑠夏はいくつものパソコンやモニターを用意して、コードを繋げたり何かを熱心に打ち込んだりする。すると、モニターには街を歩く凪沙の姿が映されていた。

「ドローン飛ばしてる。これで何かあってもお見通しだ」

「……いや、こんなの飛ばして大丈夫なのか?」

「この町の人間は、上向いて歩く余裕はないからな」

 確かこういう機器は市町村の許可がない場所で利用することはできないはず。だが、片耳にイヤホンマイクを付けて語る瑠夏の言葉の意味を、御幸は物の数分で思い知ることになる。

『なんだァ? どこ見て歩いてんだネーチャン』

『俺らちょっと暇でよお、ちょっと相手してくんねー?』

 モニターには、凪沙を囲む『いかにも』といった風体のチンピラ。先日尾行していた連中は周囲に溶け込むような、ごく普通の姿をしていたので、この手合いは『ハズレ』だと分かる。分かるのだが、如何せん絡まれる頻度である。たった一時間、神室町を散歩しているだけなのに、もう三回も絡まれている。

「どうなってんだよ、この街の治安は!」

 凪沙とて、さほど絡まれやすい女ではないはずだ。気も口も強いが、一見どこにでもいる社会人。絡まれるほど気の弱そうには見えないし、誰も彼もがナンパするほど飛び抜けた美人ではない。なのに、彼女はただ黙って歩くだけで、明かりにたかる蛾のようにチンピラがワラワラ寄ってくるのだ。だが、それについては凪沙も瑠夏も涼しい顔だ。

「いつものことだな」

『ええ、いつもの神室町ね』

「昼間は特に絡まれやすいんだよ」

『お上りさんが多い証拠ね、この『成金探偵』を知らないなんて』

 そう言いながら、胸元の赤いスカーフを撫でる凪沙。なるほど、あの赤いスカーフは成金探偵の『アイコン』らしい。確かにスーツ姿で派手な赤いスカーフで神室町を駆けずり回っていれば、嫌でも目立つ。勿論彼らが何を生業にしているかも、だ。

 閑話休題。荒事にはしない、という言葉の通り、軽い足取りで逃げる凪沙は涼しい顔でそう告げる。どうかしてると呻く御幸を他所に、彼女はパンプスとは思えないぐらい軽やかな足取りで街を駆ける。驚いた、足が速い。追いかけっこは大得意、という彼女の言葉に嘘はなかったらしい。いいリードオフマンになれそうだ、と思いながらドローンからの中継を眺める。

「……色々起きてるけど、何も起きねーな」

 矛盾めいたセリフである。だが、実際彼女たちの狙い通り、誘拐犯は現れない。さっきから、いかにもなチンピラしか釣れない。あからさまな罠だと、相手方も慎重になっているのだろうか。

「ま、しばらくは様子見だな」

「そうか……」

「こっからは根競べだ。いつ釣れるか分かんねーし、オメーはオメーの仕事でもしてろ。何かあったら呼ぶ」

 しっし、と御幸を追い払うように手を振って、瑠夏はモニターに注視する。確かに、監視なら御幸の出る幕ではない。凪沙の無事は瑠夏が保証するだろう。他にやることもないし、御幸は頷いて立ち上がる。下のフロアで思いっきり身体を動かそう。球界に復帰した時、一日でも早く試合に臨めるように。その姿を、彼女に見せられるように。

 不甲斐ないサマは見せられねーな、と御幸はくつりと笑って歩き出した。



***



 ぱかあん、とバットは今日も快音を奮う。とはいえ、所詮は機械相手。感覚は鈍る一方だ。急ぎはしない。それに伴う犠牲が大きすぎると知ったから。ただ、人の投げる球が打ちたい、と思った。瑠夏なんかはアスリート顔負けの体躯をしている、ひょっとしたらいい球を投げてくれるかもしれない、なんて思いながら汗を拭う。一休憩とばかりにベンチに腰を下ろし、飲み物を一気に呷る。冷たい液体が喉を通り、ふう、と一息つく。

 暇潰しでスマホに手を伸ばし、ふと最近スマホを見ていないことに気付いた。メッセージアプリは通知で破裂寸前なほど誹謗中傷の声が届くからだ。見知らぬ誰かからも、見知った誰かからも、だ。それが嫌でしばらく電源も入れていなかったのだが、少し気持ちのゆとりが持てたのだろうか。嫌なら見なければいい、と山ほど来ている通知をポチポチと消していく。

 すると突然、スマホは着信を告げて震え出した。

「うお!?」

 ポチポチと操作していたせいで、つい通話ボタンをタップしてしまった。しかも、画面に表示されている着信相手は『非通知』である。なんというタイミングか。慌てて通話終了ボタンを押そうとすると──。

『天城凪沙は預かった』

「……は、」

『繰り返す。天城凪沙は預かった』

 男の声が、御幸のスマホから聞こえる。聞き覚えのない声だ。だが、その聞き覚えのない声が、聞き覚えのありすぎる名前を口にしている。悪戯電話、なんて考えられないタイミングに、その名前。御幸は恐る恐るスマホを耳に当てる。

「なに、言ってんだ──お前、誰だ」

『天城凪沙は預かった。命惜しくばこちらの指示通りに動け』

 震える声を律して訊ねれば、向こうは淡々と繰り返すだけだった。背筋が震える。一体、何が起こっているのか。

「ふざけ、んな。何で、俺の番号──知って」

『二度は言わない。天城凪沙の命が惜しくば、こちらの指示通りに動け。当然、警察にも、上のフロアで指示しているゴリラ男に漏らすのもナシだ』

 知られてる、全部。ぶわり、と背中に嫌な汗が吹き出る。誰だ、何故御幸が天城探偵事務所にいると知っている。そもそも、この番号だって。まさか知り合いが。いや、そもそも凪沙の命、ってどういうことだ。だって、おかしい。彼女は。

「あいつは──そのゴリラ男が見張ってるはずだ。天城に何かあったら、大騒ぎで飛んでくはずだ。けど、そのために俺を置いていったりしない!」

『ハッ、おめでたい連中だ。弱小探偵如きが、我々を出し抜けると本気で思っていたのか? ゴリラ男は今頃、ドローンに差し替えられたCG映像を見せられていることだろう。本物の天城凪沙は、とっくにこちらの手中にあるというのに』

「……っ!」

 嘘だ、と叫ぶのは容易い。だが、もしそれが本当だったら。本当に、彼女が捕らえられていたら。本当に、御幸の一挙一動で凪沙の命運が分かれるのだとしたら。判断材料がない。だが、わざわざ御幸が一人の時を狙って、御幸がスマホを手にしている時を見計らっていなければ、この通話は成立しない。御幸の傍には常に凪沙か瑠夏がいた。つまり、相手は御幸が一人であることを何らかの手段で察知している。それほどの情報収集力がある、ということだ。それが凪沙を捕らえられることと必ずしもイコールになるわけではないが、少なくともただ者でないことは窺える。

 だが、この一か月近く、御幸だって伊達に成金探偵に振り回されていない。ゆっくりと深呼吸をして、思考をクリアにする。大丈夫、大丈夫だ。自分に言い聞かせてから口を開く。

「嘘だな。お前らに天城は殺せない」

『……なに?』

「あいつは生け捕りにするよう指示されてた。その脅しは通用しねえぞ」

 そうだ──彼女も最初は処分の対象だったのだろう。だが、理由は分からないが、生け捕りにするよう指示があった。だから亜門があれほどまでに怒り狂ったのだ。それを逆手に、彼女はああして一人歩きしていたのだ。その手には乗らない。毅然と告げる御幸に、電話先の相手はクツクツと喉の奥で笑う。

『なるほど、アスリートらしからぬオツムをお持ちのようだ。或いは、この成金探偵に毒されたか──いずれにせよ、あまりよろしくない兆候だな』

「なに……?」

『確かに、我々は天城凪沙を殺せない。ただな、小僧。我々はこう見えても暴力のプロでね。交渉材料は生かしてこそ価値があることを、よく知っているのだよ──』

『ン゛ン──ッ!!』

 男の声に被せるような形で、女のくぐもった絶叫が耳を劈いた。凪沙の、声か。分からない。似てる気はする。口に何か詰められているのか、声はガラス越しに響いているかのように、遠く、濁っている。だが、何かが暴れる音と、びり、がり、という何かを剥がすような音が、女の悲鳴の合間に聞こえてくる。

『便利なものだな。人間の爪は二十枚もある』

「な……!」

『なに、我々もそれなりの経験を積んできた、この程度で死ぬことは無いさ。ただまあ、貴様が言うことを聞くようになるまで、何枚残るかは見ものだが』

「──止めろッ!!」

 だめだ、脅しでも罠でも、関係ない。その絶叫が凪沙のものであろうとなかろうと、その痛々しい慟哭は聞いていられない。御幸の叫びに、電話の向こうで騒がしい物音が止んだ。ただ一人、女が啜り泣く声だけが、流れてくる。だめだ、その電話の向こうにいるのが誰であれ、放ってはおけない。

「止めろ──そいつに何もするな。俺は何をすればいい。何が目的だ?」

『話が早くて助かる。なあに、大したことではない。お嬢様が君をご所望でね。この探偵の安全は保障しないが、君には髪の毛一本傷つけないことをお約束しよう』

「……どうすればいい」

『そのマンションを出ろ。ああ、何も持つな。スマホも置いていけ、バッドもなしだ。分かっているだろうが、今の君は監視されている。くれぐれも妙なことをしないように。君はともかく、天城凪沙は『生きていればいい』とのご命令でね』

『──御幸よせ罠だッ!!』

 その叫びを最後に、電話が切れた。非通知なのでかけ返すこともできない。スマホを地面に投げつけようと高く振り上げて、そっと腕を下ろす。今の声は凪沙のものだったのか。分からない。声は似ているが、電話の声は本人の物ではなく、似ている音声を合成しているだけと聞く。連中が本当に凪沙を捕らえたかは分からない。電話の主が言うように、罠の可能性が高い。それでも、誰かが傷付いている。凪沙なのか、その代わりの誰かなのかは分からないが、酷い暴力を受けている。それだけは、見過ごせない。

 凪沙は言った。信じて、と。その信用を背に、御幸は何も聞かなかったことにする。それが正しい選択のはずだ。例え本当に凪沙が捕らえられていたとしても、凪沙の命と引き換えに御幸が敵の手に落ちたら、凪沙は烈火の如く怒り狂うだろう。或いは失望するか。どちらにしても、彼女たちの信頼に泥を塗るような行為だ。そんなことは分かってる。だけど、それでも。

「……悪い」

 自分のせいで他人が犠牲になるのは、もううんざりだ。



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