18

「ふうん。じゃあ、こういう時はボールを持って塁を踏んでもアウトにならないのね」

「そ。ボールを持った手でランナーをタッチしないとだめなわけ」

「複雑なスポーツねえ」

「そうか? 覚えりゃ楽しいって」

 テーマパークでの襲撃から三日。凪沙の手には未だ痛々しい包帯が巻かれているが、食事と睡眠により随分回復したらしい。ただ、目を離すとすぐ仕事をし始めるので、休養も兼ねて御幸は凪沙に野球のルールを教えることにした。とはいえ、彼女にとってはこれも仕事。あれほどまでに御幸を恨む相手はこの試合の中にいるかもしれないと、凪沙が目を付けたからだ。御幸はその仕事が、少しでも楽しめるようにと──野球を好きになる人が増えればと、そう願って。

 すぐ無茶をするので、彼女は未だベッドに縛り付けられている。そんなベッドに腰を下ろして、御幸は凪沙の膝元のタブレットを覗き込む。

「じゃあ、どうしてツーアウトでは犠牲フライで点が入らないの?」

「そりゃ──そういうルールだから、だろ」

「なんで?」

「なんでって……その方が、野球が面白くなるから、じゃねーか?」

 何でも何も、ルールだからそういうものだとしか答えられない。だが、思いのほかこの答えに納得がいったようで、ふむふむと凪沙は頷く。

「野球が面白い──そうね、確かに大事な要素だわ」

「だろ? お前も、野球楽しめそうか?」

「んー……そうね。正直、スポーツ観戦する人の気持ちって、よく分からなかったのよ。スポーツが好きなら、自分がやればいいって」

「あー、そういう意見もあるよな。それは、分かる」

「でも、それとは全く別の話だった。……うん、うん。野球というスポーツを通して、『応援』するのが楽しいのね、きっと」

 御幸が出る試合が映し出されるタブレットをそっとなぞる凪沙。その顔は不思議と柔らかで、さっと視線を逸らす。

「応援してる人が勝てば嬉しい。その人が所属するチームが勝てば嬉しい──シンプルだけど、あまり感じたことのない感覚だわ。不思議ね」

 しみじみと、まるで他人事のように自身を分析しながら凪沙は語る。こんな危険な仕事ばかりを楽しむ彼女は、その実普通の人間らしく色々な物に素直に興味を示した。いや、逆なのか。何も知らないから、あらゆることに興味を持つ。まるで何も知らない赤子だ。知りすぎているようで、その実何も知らない。そんな彼女は実に教え甲斐があった。たった三日でルールどころか選手の顔さえも覚え始めたのだ。

「ああでも、やっぱり知り合いが出てる、っていうのも面白いわ。今横にいるあなたが、こうして華々しく活躍している。打てば気持ちが高揚するし、守備で魅せれば思わず拍手してしまう。……このスタジアムにいる人たちは、そういう『熱』の虜になったのね」

 そうだ、誰もがその『熱』に夢中になったから、プロ野球は今尚人気で、毎日何万人もの人がスタジアムに押し寄せる。億プレイヤーがゴロゴロいるのは、そうして応援してくれる人がいるからだ。それだけ人を集めるだけの何かが、ここにある。彼女にも、それが伝わればいいと御幸は思う。その熱意に、凪沙はふわりと微笑む。

「早くあなたが此処に戻った姿が見たいわ」

「……だな」

 ああ、こうして試合を見ていると、気持ちが焦りそうになる。早く、早くこの舞台に戻りたい。防具を身に纏い、信頼のおける投手陣を巧みにリードして、相手を翻弄し、そしてここぞというところで打ち込んで、勝利を収めたい。それが一体いつになるのか、御幸は考えないようにしている。気持ちばかりが焦ってしまいそうになる、から。それは、彼女に無茶をさせるのと同義だ。

 でも、よりによって彼女がこんなことを言い出すから。

「あなたが復帰したら、試合見に行きたいわぁ」

「──え、マジで?」

 思わず、きょとんとした顔を覗き込む。趣味は仕事だと、楽しみを思い出の中のスリルにしか浸れないような彼女からそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかったからだ。ずいっと顔を近付ければ、凪沙はぎょっとしたように目を瞬かせる。

「え、ええ。そんなに変なこと言ってる?」

 その自覚はないらしい。凪沙は驚いたように御幸に訊ね返す。種を植えて僅か三日で芽が出るなんて、思わなかった。案外チョロいのか。だとしたら瑠夏は相当へたくそなアプローチをしていたのだろうか。殺されそうだし口には出さないが。

 じっと凪沙を見る。困惑がちな目は、嘘を言っているようには見えない。じゃあ、本気なのか。本気で野球を楽しんでくれているのか。いつかまたこの舞台に戻った時、彼女もその雄姿を見に来てくれるのか。

「──そ、それにしても、野球選手って、こう、変わった名前が多いのね! この人とか、なんて読むのかしら。ええと……!」

 すると凪沙は不自然に話題を逸らし、目線をタブレットに向ける。ただ、話題を逸らした意図が読めず、御幸はひとまず彼女の指差す選手に目を落とす。

「あ──ああ、この人は『すすまご』、だな」

「へえ……知らなかった。まあ、『御幸』も中々珍しい名前だし、そういう人が集まる界隈なのかしら。不思議ね……」

「確かに。この人なんか俺最初──読み、間違え、て──……」

 そんな会話が、ぶつりと途切れた。視界に、ザザッとノイズが走る。なんだ、この。強烈な違和感。いや違う、これはあの時──あの倉庫で感じたのと同じ感覚。これは、既視感だ。以前誰かとも、そんな話をした。でも、苗字ネタは御幸の中でも鉄板だ。既視感を抱く程度には何度も擦ってきた話。なのに、何故こんなに、捉われるのか。じっと凪沙の顔を覗き込む。何故か、そこに答えがあるような気がしたから。

「あ、あのねえ……」

 凪沙が苦い顔で何か零す。だが、聞く耳持たずに静止する。何か、もう少し、あと一歩。この気持ち悪い違和感の正体が掴めそうなのだ。だから御幸は無心で凪沙を見つめる。すると凪沙は居心地悪そうに身じろいで、視線を泳がせる。そうして仕方なさそうにゴホンと咳払いをした。

「そ──そりゃあ、確かにうちは金さえ積めば、な、何でもやるわ。倫理に触れない限りね。あなたのそれを非常識極まりないと言うつもりはないけれど、でも──だめ。よくないわ。さっきから、あなた、血迷い過ぎよ」

 凪沙が焦ったように何かっているが、全く耳に入らない。なんだったか。前にもこんな話をしたはずなのだ。彼女の瞳の中に御幸の顔が見えて、ああ、なんだったか。前にもこんな、話。光景。声。顔色。その華奢な方を引っ掴む。そうだ、御幸一也はこれを知っている。

 この光景を、知っている。

『──御幸さん、珍しい苗字ですわね』

『まあ……そうスね……』

 隣を歩く女が、たおやかに笑う。けれど会話はひどく退屈なもので、ほとんど覚えていない。女が、どんな顔をしていたかさえ。ああ、野球がしたい。美しい秋の空を見上げながら、御幸はそんなことを考えていた。

 失礼な態度だったことは認める。だが、全く乗り気じゃなかったのだ。一度だけでいいからと、監督から首脳陣からオーナーにさえ頭を下げられたのだ。どうしても断ることができなくて、その場に臨んだ。案の定つまらなかったし、結局その後も何も起こらなかった。きっと自分の素っ気なさに、幻滅したに違いないと、思ったのだ。だから今の今まですっかり忘れていた。そんな会話を、していたことさえも。

『実は私も、ちょっと変わった苗字なんですよ。まあ、母方の方なんですが──』

 そうして紡がれた音も、唇の形も、今の今まで思い出すことさえなかったあれやそれ。けれど、思い出す。その唇がこうして近付いてきて、思い出だけでもと泣いてせがまれた。御幸はそれを肩を掴んで止めて、馬鹿なこと考えるなと諭し、泣き出す女を残して去っていったのだ。

 そうだ、その名前は──。

「総角、だ」

「だから早まらないで考え直し──なに?」

「もう何代も前に廃れた母方の苗字! だからお前らも知らなかった!」

「待って──あなた何の話を──!」

「紅城夕木──あいつの母方の姓だ! 暗号でも組の名前でもない! そうだ、何で忘れて──そうだ、あいつも『ユウキ』だ!!」

「……何ですって?」

 気まずそうに身じろいでいた凪沙が、ピタリと停止する。先ほどまでの穏やかな空気が嘘のように、ぎらりと光る眼差しが至近距離で向けられる。

「やっぱり、知り合いだったのね」

「知り合いってほどじゃない。けど、一回だけ会ったことがある」

「一回だけ──って、どういう関係?」

「関係もなにも……」

「こ、こういう関係、だったの?」

 こう、とは。そう言われて、御幸は初めて今の状況に気付いた。

 天城凪沙が、目の前にいる。比喩表現でも何でもない。目と鼻の先に彼女の顔がある。ほんの少し首を傾ければ、鼻と鼻がくっつくほどに。凪沙が困惑がちに視線を背けながら瞬きすると、長い睫毛が掠めた。

「うおっ!?」

 何とか思い出そう思い出そうとするあまり、現実を疎かにしていたらしい。驚きのあまり御幸は折り畳み椅子がぐらりと揺れるほど仰け反った。それはそれで腹が立つ、と凪沙はぶつくさ言いながら掴まれてよれたパジャマの襟を正す。

「……それで、どういう関係なの? 行きずりの相手なの?」

「ちげーよ。……ただ」

「ただ?」

 じっと、先ほどまで御幸の顔が映し出していた瞳が、御幸の挙動を見つめる。なんとなく、なんとなくだが、居心地が悪い。いや、別に何も疚しいことはしていないし、何も不味いことはしていない。別にからかわれるようなことでもないだろうし、彼女はそういうタイプでもないはずだ。だが、何故か凪沙にそれを告げるのは、何となく、後ろめたい気分になって。

 だが、いつまでも黙っているわけにもいかない。御幸はさっと視線を逸らして、そして消え入りそうな声でこう言った。

「──だった、んだよ」

「え? なんて?」

「──〜〜〜だから! 見合い相手、だったんだよ!」

「……今時?」



***



 今時見合いなんて、と話を聞いた誰もが笑い飛ばす。だが、野球マシーンとして浮いた噂もなく、野球に打ち込む御幸に惚れ込む者もいれば、心配する者もいて。どうしても、一度だけでも、とせがんできたその女は、それなりの地位やらコネクションやらを持っていたらしく、球団に所属する選手として断り切れなかった。だから一度だけ、という約束で見合いをした。食事をして、少し散歩をして、連絡先を交換する前に思い出だけでもとキスを求められ、断ったら泣かれ、中々散々な目に遭ったと、御幸はその苦々しい記憶をついぞ封印したままだった。

 まさかその封じられた記憶の中に、この事件を解き明かすピースが潜んでいたなんて。

「紅城夕木──照明器具を取り扱う紅城グループの会長の三女。うんうん、立派な『お嬢様』だわね」

 その日、『総角』と『ユウキ』の正体が割れ、早速瑠夏が情報収集をして作戦会議と相成った。未だベッドをソファ代わりにしながら、凪沙は瑠夏が集めた資料に目を通す。御幸の手元にも、同じ資料が用意されていた。顔を見て思い出す。ああ、やはりこの女だった、と。

「しかしまあ、何だってこんなお嬢様と野球選手が見合いを……?」

「照明器具ってホラ、球場にもあるじゃない? そういうツテかしら?」

「そんなとこ。色んな球場に器具を下ろしてる業者でさ、こういうのって結構海外製の部品が多くて、海外業者とのパイプ持ってるのが此処しかねーの。だから誰もが知る大手企業ってわけじゃねえけど、かなり金はあると思う」

「照明器具なんて生きる上でどこでも利用するものね。劇場、舞台、ライブ──屋内屋外問わず、『明かり』が必要になる。儲けが出て当然だわ」

 故に、殺し屋だのなんだのと法外な金で非合法な手段はお手の物。だが、それだけでは見えてこないものもある。だから、御幸もこうして作戦会議に参加している。

「でもこれだけの企業、そんな危ない組織と関わり持たなきゃ事業が成り立たない、とは思えねえけどな……」

「確かに、昨年度の売り上げを見ても数十億の利益が出てる。ヤクザなんて前時代的な手段を選ぶ必要はまるでなさそうね」

「実際ヤクザのフロント企業がいる、ってわけでもないみてえで。大企業なりにそれなりにグレーな噂もありますが、あくまでそのレベルですね」

「じゃあなんで──」

「そこで出てくるのが、紅城夕木なのよ」

 そうして渡されたタブレットに表示されるのは、何年か前に御幸が見合いをした女の姿。名を紅城夕木。紅城グループの会長の三女。御幸の活躍に一目惚れしたという彼女は、熱心に御幸にアピールをし、何とか見合いまでこぎつけた。ふーん、と凪沙はつまらなさそうに夕木の顔写真を見やる。

「ご令嬢のわりに、特別奇妙な経歴には見えないわね」

「公立高校に進学、それなりの私立大学を卒業、紅城のグループ会社の事務にコネ入社。特別際立った才能があるわけでもないし、大学で何かしらの研究をしていたわけでもねえし、ソコソコの仕事ぶり。素行も真面目過ぎず、不良過ぎず、フツーの若者、って感じっす」

「……そういう普通の奴ほど、あぶねーわけか」

「そういうことだな」

「そういうことね」

 瑠夏と凪沙が同時に頷く。蒼葉の時といい、普通の奴だから、なんて言い訳はもうしない。確かに、記憶にある紅城夕木は普通の女だった。いや、確かにちょっと御幸に対してグイグイくるなとは思っていた。あらゆるコネを使ってでも見合いにこぎつける程度には、執着されていた自負もある。だが、見合いの場でキスを拒んで泣かれて、それ以来一切関わりがなかった。だからてっきり諦めて、他にいい男を見つけたものと思っていたのに。

「……目的は、フラれた腹いせ、なのか?」

「復讐は蜜の味って言うしな」

「プライドの高いお嬢様なら、まあ無くはないわね」

 二人ともその線で考えているらしい。蒼葉といい、逆恨みにも程があるが、理屈としては通る。紅城の名では通りが良過ぎるので、何代も前に潰えた母方の旧姓を名乗って、父親が作った資金を盾に、ヤクザだの半グレだのを動かして御幸一也を球界から追放した。絶望させて、殺すため。そうしてこっぴどくフラれた傷を癒す──安っぽいミステリードラマのようだが、筋書きとしては十分だろう。

 ただ、そう片付けるにはいくつか引っかかる部分もあり。

「亜門のことは一度置いておいて……総角一派の目的は『誘拐』だったのよね」

「しかも所長も一緒に生きまま、とのお達しだったか。よく分かんねえ連中っスね」

「亜門と同じように目的が復讐なら、御幸に協力してる私もまた復讐対象、ということかしら? だったら、生きて捕まえる必要ないわよね?」

「生きたまま火炙りにしたい、とか?」

「どっちが魔女か考えものだわね。……さて、どう出るか」

 大きな枕に身を委ねて、凪沙は眠るように目を瞑る。敵の正体は割れた。その目的も、ある程度は把握できた。なら、この事件の黒幕が本当に紅城夕木なのだろうか。その目的も、地位も金も申し分ない。だが、あの女が本当に、御幸一人に復讐するために、人を殺し、球界から追放させ、更には殺し屋だの何だのを雇って執拗に追い詰めているのだろうか。

 キスを拒んだだけで、泣き喚いた女の声を思い出す。ひどい、最低、そんなことを口々に言われたような気がする。だが、数多の人間を殺してまで、御幸に復讐するほど恨みが募っていたとは思わなかった。こんなことならキスぐらいしてやればよかったのだろうか。いや、過ぎたことだ。悔いるまでもない。

「あ、いっそ誘拐されてみる? 証拠ならいくら叩いても出てきそうだし」

「危険ですよ。所長一人ならまだしも、御幸のお守りまではできやせん!」

「連中、私も狙ってるみたいだし、私だけでも釣れないかしら」

「……まあ、それなら」

「おい、怪我人ウロつかせていいのかよ!」

 納得しそうになる瑠夏に待ったをかける御幸。元気そうに見えるが、この女の手には風穴が開いているのだ。未だ一人で食事をするのも大変なのに、囮で誘拐されるなんて危険すぎる。目的はハッキリしないとはいえ、向こうは途中まで凪沙を始末する気でいたのに。けれど、凪沙はニッコリ笑うだけ。

「言ったでしょ。あなた出る試合を、見たいって」

「けど──」

 当然、犯人である紅城夕木たちを洗えば不正の証拠が山ほど出るはずだ。お互いのか思われた今、遅かれ早かれ直接敵のアジトに乗り込む必要があるのは御幸にも分かる。物的証拠がなければ裁判を仕掛けたところで引っくり返せない。御幸が球界に戻るには、どうしたって不正の証拠が必要なのだ。だが、そのために怪我人を囮にする作戦はいただけない。

 だが、その御幸の訴えを、彼女は片手で制する。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず。ターゲットが私なら、ある程度自衛もできるし、むしろ一人の方が気が楽なの」

「……」

「任せてよ、追いかけっこは昔っから大得意なんだから!」

「……」

「大丈夫。お客様が不快になるようなことはしない。不用意に怪我もしないようにする。無茶も──そうね、可能な限りしない」

「……」

「だから、私を信じて」

 それは、いつの時代も使い古された安っぽい言葉。けれど、彼女のそれは約束ではない、『契約』だ。依頼人と探偵の間で金を元にして結ばれる、取引だ。天城凪沙ではない、成金探偵がそれを告げるのなら、御幸にできることはただ一つ。

「……わか、った」

 信じて、送り出すだけだ。凪沙はニッコリと笑い、瑠夏は立ち上がる。目標は定まった。覚悟もだ。ならばあとは、進むだけ。必ず、返り咲く。そう決めて、御幸は事務所のキッチンへ向かう。御幸には御幸のできることをして、信じるだけだ。



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