26

「……で、結局付き合うことになった、と」

「え、ええと……ハイ、そんなところデス……」

「ハハ、お騒がせしました」

 翌日、全てが丸く収まったと御幸たちは山田小太郎に報告をすることにした。二人が出会った居酒屋の個室で、今度は肩を並べて座る恋人たちを見る山田の目は、未だに厳しい。

「なあ、俺言ったよな、ハチは止めとけって!」

「まあ言われましたけど……」

「つーかお前もだぞ、ハチィ! 何のために俺が口を酸っぱくして『付き合うなら普通の男にしろ』って言い続けたと思ってんだよ! 野球選手のダメさ加減はさんざん見てきただろうが!!」

「だって、コタさんと御幸さんは違いますもん……」

 気まずそうに、それでも迷いなく答えるマネージャーに山田はフリーズした。確かに、女遊びが派手だった山田と、球界では浮いた話がほとんどない御幸とでは『ダメさ』加減が全然違う。それについては一緒にするなと、御幸も心底思う。だが、山田はまだ納得してない様子だ。

「それはそうかもだけどぉ! でもさあ、野球選手なんだぜ!! 俺の嫁がどんだけ苦労してきたか、お前も知ってんだろ? ろくに一緒に居てやれねえ、プライベートなんか皆無だ。だから俺は──」

「……でも、奥様は幸せそうですよ?」

 真面目な顔でそう告げる彼女に、山田はぽかんと口を開く。野球選手が相手では余計な苦労をさせてしまう、という彼の言い分は分かる。けれど、だからと言って不幸になるかどうかは、全く別の問題だと御幸も思う。

「幸せを願ってもらえるのは、嬉しいっス。でも、だからって苦労しちゃいけない道理なんかないでしょう?」

「ハチ……」

「大変なのは百も承知っスよ。だからこそ、御幸さんと一緒に乗り越えられるよう、見守ってもらえると──私は、嬉しいです」

 まるで結婚を前に父親に挨拶するかのような口ぶりで、穏やかに未来を語る彼女の言葉が、愛しい。大丈夫、これが言えるこの人となら、やっていける。幸か不幸か、仕事柄ほとんど一緒に居るのだ。苦労も多いだろうが、少なくとも寂しくさせることは無いだろう。同じ轍を踏まないよう、御幸も静かに頷く。

 そんな二人を前に、山田は表情を険しくさせたままだったが、やがて深々と溜息を吐いて天井を見上げた。

「まあ、年寄りの助言ってのは無視されてナンボか」

「いや、別に無視したわけじゃ……」

「そうっすよ。忠告も聞いた上での選択です!」

「一番タチわりーよ! ……まあ、二人で決めたことだもんな、俺ももうあれこれ口出しはしねーけどさ。頼むから公私混同はしてくれるなよ……」

 頭を抱えながらそう零す山田。公私混合については統轄マネからも釘を刺されていた。それこそおはようからおやすみまで一緒に居るような仕事なのだ、懸念されても不思議ではない。けれど。

「何言ってんすか、コタさん。私が仕事を蔑ろにするとでも?」

 そう、隣にいるのは『忠犬ハチ公』の名を欲しいがままにした真面目人間である。公私混合など、一番嫌うタイプだ。故に御幸との交際も『卑怯だ』と渋るほどだったのだ、山田が心配するようなことは起こるまい。

「まあ……お前はそうか……心配なのは御幸の方だもんな……」

「いや、それどういう意味っすか」

「そうですよ! 御幸さんですよ、そんな、遠征先で現地妻作っては修羅場を量産してきたコタさんとは根本的に人としての造りが違うんスよ!!」

「自分がやってきたこととはいえ既婚には刺さるから止めてくれ」

 かつては遊び人として名を馳せた山田小太郎と比較されるのは些か微妙な気分になる。完璧に打ち負かされた山田に、彼女は勝ち誇ったように腕を組んだ。

「大体ね、女優だのモデルだの見慣れてきた人ですよ! そんな、私みたいな一般人相手に手出しするわけが──」

「えっ」

「え?」

 思わず声が出てしまった。二人して顔を見合わせると、きょとんとした視線が寄越される。いやまあ、山田小太郎のような性欲魔人だと思われても困る。けれど、好きな女に手出ししないような無欲な人間だと思われても面倒だ。

「いや、手出すつもりだけど」

「え」

「そりゃ、場所は選ぶけどさ」

「え?」

「なに、そういうの嫌な人?」

「え、あ──」

「嫌ならしねーけど……俺、いつまでも我慢できる保証ないからな」

 無理強いするつもりはない。ただ、彼女は以前真田との関係について『先輩相手に女見せるのはちょっと』と呻いていた。ということは、この交際はそういうコミュニケーションを前提にしていると御幸は思っていたのだが、違ったのだろうか。違うと大いに困るのだが。込み上げてくる焦りを抑えながら見つめ返すと、彼女はまるで噴火したように顔が真っ赤になった。

「あ、え──そ、その」

「……嫌?」

「い、嫌じゃ──ない、デス、けど」

 恥ずかしそうにモジモジとしながら、蚊の鳴くような声がそう呟いた。ほっと胸を撫で下ろす。よかった、恋人だからといって距離感を踏み間違えては事である。まるで少女のように恥じらう恋人を微笑ましい気分で眺めていると、正面からわざとらしい咳払いが響いた。

「そういうとこだぞ、お前ら……」

 山田が呆れ顔で睨んでくる。無論、今は場所を選んでの発言である。だが、彼女の父親並みに過保護な山田の前でやったのは悪手だったか。だが、柄にもなく浮かれているらしい御幸は、そんな大先輩の睨みなど物ともせずににこやかな笑みを浮かべる。そんな御幸に、山田はとうとう吹っ切れたようにビールジョッキを呷り、ダンッとテーブルに叩きつけた。

「へーへー、幸せそうで何より! ただし、しばらくは球団にも伏せとけよ! 統轄マネにも言われただろうけど、スタッフに手ェ出したのバレたら風紀的によろしくねえし、実際働いてる人たちを見る目も変わるかもしれねえからな!」

「分かってますよ」

「お前もだぞ、ハチ! 浮かれんのはいいが、お前の一挙一動に女性スタッフの『格』がかかってることを忘れんなよ! 球界に女は要らねえと、バカにする老害どもに口を挟む隙を与えるな!」

「は、ハイ!」

 その一言は──気が緩んだ恋人たちを引き締めるのには、十分すぎた。二人して授業の途中で目を覚ましたかのように、ハッと息を呑んで背筋を伸ばす。

 いつまでも隠し通せはしない。いつかは、バレることではある。けれど、バレ方は選ばなければならない。そうでなければ、忠告通り他の女性スタッフに迷惑がかかる。その道を選んだとはいえ、御幸だってむやみやたらと人に苦労を背負わせて楽しむ趣味はない。なるべく彼女たちに、謂われなき誹謗中傷が向かわないようにしなければ。

 静かに頷く若き恋人たちに、山田はようやく笑顔を浮かべた。

「言っとくが、俺は応援しねえからな。二人で勝手にやってろ。……でも、どうしてもってなら、仲人ぐらいは引き受けてやるさ」



***



 一通り報告を終え、二人は車で帰路に着く。仕事ではないのだからと運転を変わろうとする御幸の言葉は、僅か三秒で却下された。それでも無理言って助手席に乗り込むことには成功した。バレたらどうすんだとブツブツ文句を言われたが、このくらいの変化は許してほしいものである。

「そういや、真田には報告したのか?」

 信号待ちをしている隙を見計らって訊ねる。ハンドルを握ったまま、彼女はあからさまに体を強張らせた。まあ、あれだけお膳立てをしたのだ。何かしら連絡はあるだろうとは思っていたが……。

「真田の奴、なんて?」

 広義的には恋敵──だったかもしれない御幸が、真田にかける言葉はない。謝罪も、感謝も、きっと真田にとっては不要だろう。そもそも連絡先も知らないし、接触のしようがないのだが。ただ、そうはいっても彼女には何かしら連絡をしたはずだ。余計なちょっかいかけてないか、ほんの少々圧を強めて訊ねれば、ぎこちなくアクセルを踏みながら、実に言い辛そうに答える。

「え、ええと……『別れたらいつでも呼べよ』と──」

「真田に言っとけ。そんな日は、絶対、来ねえって」

 全く、油断も隙もありはしない。窓枠に頬杖を突きながら、ぶっきらぼうにそう告げる。何が『今はそういうのじゃない』だ。未練たらたらではないか。とはいえ、真田の助力なしに二人が結ばれなかったのもまた事実。なので『二度と連絡取るな』とは流石に言い出せず。

 車は気付けば自宅マンションの駐車場に着いていた。車を降りて、二人でマンションのエレベーターに乗り込む。

「ブロックしとけ、ブロック」

「い、いやあ……そういうわけにも……」

「これからは呼び出されたからってノコノコ付いていくなよ」

「い、行きませんよっ! そこまで間抜けじゃないっス!」

「間抜けではねーけど、お前真面目っつーか、義理堅いからな──」

 そう言いつつ、込み上げてくる欠伸を噛み殺す。運転による程よい振動と、安心できる恋人の隣もあって、ふわふわとした眠気が込み上げてきたようだ。おもむろに自宅の鍵を引っ張り出す御幸に、どこか遠慮がちな視線が寄越される。

「ね、寝不足ですか……?」

「そりゃ、まーな」

 ようやく人目を気にする必要のない自宅に帰ってこれた。荷物を置いて、ぐっと伸びをする御幸。それでも、眠気は晴れない。ハチ公ラジオの突然の終了により、この一週間はどうにも寝不足だ。昨日は久々に声を聞けたものの、帰宅は日付を越えてからだったし、朝は練習もあったので、どうにも睡眠が足りてないらしい。

「……や、やっぱり、まだ、あの人の夢を……?」

 そんな眠たげな御幸に、恐る恐る訊ねる声。ああ、そうだ、そのことについて彼女にはまだ説明してなかった。ふっ、と釣り上がる口角をそのままに、不安げな瞳で御幸を見上げてくるその顔を、腰を屈めて覗き込む。柔らかな頬をふにふにと抓めば、彼女は稲妻に打たれたかのようにフリーズした。

「ばーか、お前のせいだよ」

「え──」

「あいつの夢は、もう何か月も見てねーよ」

 確かに、シーズン中は彼女の声がなければ、何度も悪夢に見舞われた。一緒に地獄に道連れにしたかったと、ドラッグで身を滅ぼした哀しい女の怨嗟に何度眠りを妨げられたか分からない。けれど、秋からは自宅でも遠征中でも『ハチ公ラジオ』をかけることができるようになったから、気付かなかったのだ。

 御幸はもう、とっくに悪夢から抜け出していたのだと。

「もうお前に会えないんじゃないかとか、嫌われたかもとか──そんなこと考えてたら、寝れなくなっただけだっつの」

 情けないことだ。年俸数億のプロ野球選手が、聞いて呆れる。けれど、彼女にはもう散々格好悪い姿を見せてきたのだ。だったら、いい。世界に一人ぐらい、そういう相手がいてもいい。弱い部分も、情けない部分も、格好悪い部分も、全部全部見せてしまおう。この愛すべき隣人ならならきっと、全てを受け入れてくれると、信じて。

 ──ただ、人生中々思うようにはいかないらしく。

「え、あ──」

 至近距離にある女の顔は、今や熟れた林檎のようだった。視線はきょろきょろと宙を漂い、挙動不審である。今までにないリアクションに首を傾げたその時、彼女は顔を覆ってその場に頽れてしまった。

「きょ、きょりが……ちかすぎます……っ!!」

 廊下にぺたりとへたり込み、真っ赤な顔を手で覆い隠す。待ってほしい。まだ何もしてない。ちょっと近付いただけだ。男を自分が眠る家に招き入れるような奴がこんなにはにかみ屋だったなんて、と困惑する御幸に、何故か彼女は逆ギレしたように叫んだ。

「あのねえッ!! こっちは十年来のファンなんですよッ!!」

「いや聞いたけど」

「分かってないですッ、全然!! 遠くで見てるだけのスターが、なんかこんな距離にいるんですよ!! 慣れるわけなくないですか!?」

「会って一年経ったのに?」

「公私は別だもん!! 分けろって言われたもんッ!!」

 恋人になったはずの女が、そんな下らないことをギャンギャンと叫んでいる。確かに公私は弁えろとは言われたが、自宅で『私』を出せなければどこで出せと言うのか。

 御幸もまた、膝をついてしゃがみ込む。彼女はあからさまに肩をビクつかせ、へたり込んだまま後ずさる。だが、部屋はともかくさほど広くもない廊下に逃げ場などなく。あっさりと壁に背中をぶつける女の行く手を塞ぐように、御幸の大きな身体が覆い被さる。無理、ヒエッ、などと甲高い声で鳴く恋人に一応気を遣って、その小さな身体を抱き寄せるだけに留める。

「仕方ねーな、ちょっとずつ慣らしていこうぜ」

 ポンポンと小さな背中を叩く。最初はあれだけ怯えていた彼女も、いつの間にか生意気な口を利くようになった。時間をかければ、きっと恋人らしくできるはずだ。彼女の仕事や、ずっとファンだった、という事情は御幸なりにきちんと受け止めて、把握しているつもりだ。無理強いをする趣味はない。だからある程度は待つつもりだった、のだが。

「い──」

「い?」

「いち、ねん……いや、三年はください……っ!!」

 耳元でか細い声がそんな命乞いを始めるので、流石の御幸もピキリと青筋が立つのが分かった。慣れない、という意思表示は可能な限り尊重したい。何度も言うが無理強いはしたくないのだ。二人の歩幅はできるだけ合わせたいと思っている。それでも、三年も『お預け』されて、理性的になれるほど御幸は彼女のように忠犬らしく振る舞えそうにない。

 抱き寄せる腕の力を強める。どうやら、彼女に必要なのは長い時間ではなく、ある程度強制された『躾け』らしい──。



《忠犬ハチ公恋物語 完結》

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