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 それからたまに、特にナイターの後はマネージャーが家に来てから、夕食を作った後、御幸が眠って起きるまで彼女は家に居座るようになった。おかげで御幸は、その一日のほとんどをマネージャーと共に過ごしていた。傍にいないのは彼女の睡眠時か、御幸の練習・試合時、それから遠征時──それぐらい。その存在は御幸にとって身近なものとなった。或いは、なってしまった。

 ベッドサイドにテーブルを持ち込んで、御幸が眠って起きるまで彼女は暗い部屋の中で静かに仕事をする。起きてからは眠たげな彼女に御幸が作った朝食を押し込んで、眠るために自宅に戻る。朝も作りますと完徹した女は意気揚々と告げるも、その仕事は無理矢理御幸が奪った。流石に寝ぼけ眼の人間に火やら包丁やらは使わせたくない。そう言えば、せめて、と彼女は朝食ができるまで掃除をするようになってしまった。男の一人暮らし、月の三分の一以上は家にいないのだから食事ほど頻度ではないにしろ、ついに家事の半分をマネージャーに掌握されてしまったと思いながら、掃除機が終わったのを確認して、御幸一也の作った朝食が並ぶ。焼き鮭をひっくり返しながら、たった半年で随分変わったものだと御幸はぼやく。

「え? なんか言いました?」

「……いや、明日の朝食何にしようかなと」

「んー、たまには洋食なんかどうですかね、卵無限にありますし」

「夕食オムライスだろ? 足りるか?」

「全然余裕っす」

 御幸が汚した包丁やまな板を、隣に佇むマネージャーが洗う。こんな連係プレーでさえ、もはや日常の一コマと化した。

「……御幸さん?」

 きょとんとした顔が、御幸を仰視する。特に何にも考えてなさそうなこの面を見ているだけで、何故か笑いが込み上げてくる。意味もなく、笑いを堪えながら肘で小突く。

「ヒン! なんスか!」

「なんでも」

「用もなく人を肘で小突くんじゃありません!」

「別にいーじゃん」

「よくない!」

 キャンキャン吠えるマネージャーに、堪えていたはずの笑みがついに零れた。笑いだしたら中々止まらない御幸に、彼女はますます憤慨したように騒ぎ出す。あの頃はどこへやら、すっかり御幸に慣れ切ったようだ。今や山田小太郎に接していた時と大差ない、雑な態度や言葉遣いを見せるようになった。こういうところは、ますます高校の頃の後輩に似ている。懐かしくて、ついつい無駄なちょっかいをかけてしまう。目を三角にして騒ぐマネージャーからは、何らかのマイナスイオンでも出ているのかもしれない。

「うぎーっ!! 雇用主じゃなきゃビンタしてたのに!」

「お前コタさんにはビンタしてたんだろ」

「コタさんはいいんですよ!! どうせコタさんだし!!」

 ──まあ、まだ山田小太郎には敵わないようだが。



***



 夜はいつものように、彼女の取るに取らない話を聞きながらベッドに潜り込む。一か月以上こんな生活をしているのに、彼女の話題は尽きることは無い。山田の不眠を解消するため、二年近く夜通し話続けた彼女の話題ノートは底無しなのだろう。パソコンを叩く彼女の話を耳に入れながら、そんなことを思う。光を遮断すべく寮生活の時のようにアイマスクを付け、いつものように眠りに誘われ始めた丑三つ時、彼女はこんな話題を切り始めた。

「そういえば先日、シニアの友人が結婚したとSNSで知りましてね。昔の女房役が今は立派な旦那さんと思うと、何とも感慨深くて──」

「……お前、シニア出身なの?」

「うわっ、びっくりした!」

 微睡みの中、思いがけぬ話題に意識が浮上したので返事をすると、傍でパソコンを叩いていたマネージャーは飛び上がらんばかりに驚いた。今ばかりはこちらのセリフであるが。

 思わずアイマスクを脱ぐと、丸く見開かれた目とかち合った。

「な、なんで返事するんですか……」

「わり、つい……」

「興味ない話題振ったつもりだったんです。失礼しました、忘れてください」

 暗闇の中、パソコンのバックライトに照らされた顔が困ったように笑ったのが見えた。ええと、と呟きながら次の話題を考える彼女に、御幸はすかさず口を挟む。

「で、お前シニア出身だったの?」

「……いやいや、会話してちゃ寝れないでしょ」

「どーせ明日はナイターだし」

「気になるなら明日の車内で話しますって」

「気になって寝れねーの」

「減らず口!」

 むっと顔を顰めるも、御幸の目はすっかりと覚めてしまった。ころりと寝返りを打ち、話を促すように視線を向ける。彼女はますます困ったように目を泳がすも、やがて大きな溜息を一つ零した。

「……ええ、そうですよ。大昔の話ですが」

「どこ出身?」

「……桜が丘シニア、ですけど」

「は? すげえ名門じゃん、そんなとこで投手やってたのかよ」

「まあ……一応、関東大会には出ましたが……」

 聞き覚えのある名前に、御幸の脳はすっかり睡眠を忘れ去っていた。桜が丘シニア──西東京の名門だ。関東どころか全国大会出場常連チームだ。青道にも出身者がちらほらといた記憶がある。驚く御幸に、マネージャーはもっと驚いたように目を丸くしている。

「よくシニアまで覚えてますね……高校ならまだしも……」

「俺も東京のシニア出身だし」

「にしてもですよ」

「つーかコタさんが桜が丘シニアだろ」

「あ、そっか、盲点でした。あのオジサンとは世代違うし」

 そういえば、とばかりにしれっと雇い主を貶すマネージャー。

 それにしても彼女がシニア出身とは思いもしなかった。残念ながら御幸は江戸川区のシニア出身な上、さほど強いチームでもなかったので、そんな名門とは試合をしたことはない。尊敬する先輩が所属していた丸亀シニアなら、もしかしたらどこかで出会っていた可能性はあるが。世間は狭いものだと、御幸はしみじみと頷く。

「で、そんな名門で投手やってたわけ?」

「コントロールと打率が良かったので、都合よく使われてただけですよ」

「出た、打つ方が好きな投手」

「投げるの大変なんですもん……打つ方が性に合ってたんです」

「じゃ、高校もソフト部?」

「いえいえ、高校は野球部のマネージャーを」

「なんで?」

「……この会話、まだ続くんです?」

「聞かれて困ることか?」

「ってわけじゃないですけど……時間……」

「いーよ、今日くらいは」

 元々睡眠三時間弱の浅い眠りで稼働していた御幸だ。睡眠時間はまだまだ短い方だが、最近はぐっすりと眠れているため少しくらいの夜更かしは問題ない。寧ろ、半年付き従ったマネージャーの意外な過去に、御幸は自分でも引くぐらい興味を抱いていた。このまま眠れそうにはない。

 しばしの沈黙の後、彼女は気まずそうに視線を逸らした。

「……高校進学する前、進学予定校の野球部の試合を見に行ったんです」

「ソフトじゃなくて?」

「元々親が高校野球好きなんですよ。そんで進学予定の高校が今めちゃくちゃ勝ち進んでるって言うから連れてかれて──もう、ドボンです」

「どぼん」

「もう、ほんとに──すごい出会いだったんです」

 いつの間にか、彼女の指は止まっていた。夢を見るようにその光景を語る姿は、まるで恋をする少女に見えるほどで、御幸は密かにつまらなそうに鼻を鳴らしたが、まるで気付かれなかった。

「今までプロ野球もあんま興味なくて……見るだけなんて何が楽しいんだろって思ってたぐらい。でも、あの人を見て──あの人が戦ってる姿に、ほんとに素敵で……憧れて……」

「へー、そんなに?」

「当時の新聞の切り抜き、未だに持ち歩いてますもん。毎日その人の写真に挨拶して、私の一日は始まるぐらい──今でも、憧れ、尊敬する選手です」

 それは──きっと、恋だったのだろう。目を輝かせる彼女の言葉を聞けば、すぐに分かる。流石に十年近く前の出来事だろうが、未だ『憧れ』は鮮烈に彼女の胸の中に生きている。それが分かって、何だか少し面白くない。理由も分からず、御幸は意地悪く笑みを浮かべた。

「ああ、こないだ一人ででけー声の挨拶してると思ったら、そういうこと?」

「やっぱ聞かれてたんだッ!! あなたには知らないふりする優しさはないんですか!?」

「そんなにバレたくないなら声押さえろよ、筒抜けだったぜ?」

 ショック、とばかりに肩を落とすマネージャー。あれだけ大声で挨拶していたら流石に気付く。まさか写真に向かって挨拶していたとは思わなかったが。拗ねて唇を尖らす横顔に、御幸はまた笑う。せっかく話が聞き出せたのだから、このままへそ曲げられてもつまらない。天才捕手は、話の筋を逸らすことにした。

「なるほど。それでマネージャーになったわけか」

「……はい。まあ、一番の理由はソフト部が廃部になったから、なんですけど。でも、そうでなければこの仕事にも就いていなかったと思いますよ」

「まさに人生の転機だな」

「マネージャーの楽しさに目覚めた私の負けですね。だから将来は高校の寮母さんになりたくて、管理栄養士の資格を取るために専門学校に行ってたんですけど……何やかんやあってコタさんに拾われた、って感じです」

「拾われた、って……?」

「あれ、言ってませんでしたっけ。私、コタさんと従兄妹なんですよ」

「は? マジで?」

「マジです」

 静かに頷く横顔を見ながら、御幸は今日一番の驚愕に目を見開いた。眠気が吹っ飛ぶような話がポンポン飛んでくる。従兄妹──確かに仲がいいとは思っていたが、彼らが血縁者だったなんて、夢にも思わなかった。

「コタさんは母方の従兄妹でして」

「ああ、だから苗字が……」

「そうなんです。で、管理栄養士として学ぶ私に、私生活ダメ男がメンタルも病んでると、母が私を派遣したんです。で、アルバイトがてら色々サポートしていくうちに、球団マネージャーに声をかけられた、というわけっす」

「はー、そういう縁だったのか。なんで血縁者って隠してたんだよ」

「え、身内贔屓で就職したって、なんか聞こえ悪いじゃないスか」

「そうか? 実力があったから声かけられたんだろ」

「女の身ですからね。色々気を遣うんですよ」

 澄ました顔で肩を竦め、彼女の手が再びキーボードを叩き出す。若い女マネージャーと言うことで、『ハチ公』はそれなりに球団内でも有名だった。一時は山田小太郎がコナかけた女だの、元カノだの、隠し子だの色々言われていたほどだ。家族──確かに、どうして思いつかなかったのだろう。そりゃあ、雇用主だとか年齢だとか感じさせない関係のはずだ。

 なるほどと頷きながら、御幸はニタリと浮かべる笑みを隠せなくなってきた。それもそれで驚きだが、もう一つ気になっていることがある。御幸は隙を見て、話の筋を戻すことにした。

「それで?」

「はい?」

「『あの人』って、誰? 俺の知ってる奴?」

 桜が丘シニアは西東京にある。よほどの才能があるか、スカウトされるかしなければ、地元のシニアやボーイズに入ることが多い。ということは、彼女が進学する高校は西東京に位置する可能性が高い。それはつまり、その高校が勝ち進んでいたということは、御幸も知っている選手なのではないか。そんな狙いが読めたのか、彼女はぎくりと肩を震わせ、手を止めた。

「……い、言いたくないです」

「やっぱ知ってる奴か」

「ノーコメントです」

「ひょっとして俺だったり?」

「だとしたら御幸さんにこんな話してる私って強心臓すぎません?」

「それもそうか」

 残念──と言おうとして、口を閉ざす。別に、残念がるようなことでもない。そんな言葉が過った自分に驚きながら推理を続けるも、流石に材料が少なすぎる。

「お前、確か俺の二個下だよな」

「じょっ、女性に年齢を聞くなんて、失礼ですよっ」

「二十五が言うセリフじゃねーだろ。……入学前に見に行ったってことは、俺らが高二の頃だろ。『今めちゃくちゃ勝ち進んでる』って言われるってことは、強豪校でもなかったってことで──」

「あーあーもーおしまい!! もうそろそろ寝る時間ですよ!!」

 そう多くない選択肢を脳裏に思い浮かべた時、顔を真っ赤にしたマネージャーがそう叫んでノートパソコンばたんと閉じた。未だニヤニヤ笑みを浮かべる御幸の顔を見ないよう、ふいっと目を背けてしまう。

「早く寝てください!! そもそも、私の話に返事してたら意味ないんです!! 黙って、静かに、横になるんですよ、ホラ早く!!」

「はいはい」

 これ以上突くと本気でヘソを曲げてしまいそうだ。せっかくの有能なマネージャーを手放しては大変だと、御幸は大人しく体制を元に戻し、天井を見上げてアイマスクを装着する。ゆっくりと深呼吸して、色々仕入れた新情報を脳内から締め出す。色々言いたいことがないわけではなかったが、今ばかりは言うことを聞いておくとしよう。

「……そうですね、あんま身近な話はやめときましょう。うーん、どうしようかな。じゃあ、高校の先輩の娘さんの話なんですけどね、この間──」

 そうして、御幸にとっては取るに足らない話がスタートする。確かに、彼女が自分の身の上話をするのは初めて聞いた。身近すぎる話では、流石に睡眠導入剤にはならないようだ。とはいえ、思いのほか興味をそそる話題だったので、今度は車内で根掘り葉掘り聞いてやろうと御幸は心に決め、今日も穏やかな眠気に身を委ねたのだった。

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