5.変な子=悪い子≠いい子

 御幸一也にとって、天城凪沙はとにかく変な子だった。

 頭は良いし、野球に対する熱量は本物だし、よく見ると確かに綺麗な顔をしている、と思う。ただ、そういった美点が霞むぐらい変な子だった。特にこの、野球に対する熱量だ。具体的にどうおかしいのか言語化するのは難しいのだが、とにかくおかしい。ルールも分からないのにスコアブックは読めるところとか、ろくに運動もできないのにバッティングセンターで百四十キロのマシンを好んで利用するところとか、とにかく、なんかこう、色々ちぐはぐで、変なのだ。

 ただ、変だとは思うが、見ていて悪い気はしなかった。好きなものを頑張って覚えたい、がむしゃらにあれこれ手出しする姿は寧ろ見ていて微笑ましいものがある。自分に弟や妹がいて、野球を教えるとこんな気分になるのだろうか、一人っ子の御幸はそんなことを考える程度には彼女に気を許していた。故に御幸一也の日常に、天城凪沙の存在が組み込まれるまで、そう時間はかからなかった。

 そしてその日もまた、御幸の生活がほんの少しだけ変化する。

「あ」

「お」

 席替えというイベントほど面倒だと思ったことはない。近隣住民はガラッと変わるし、景色が変わるのは好きじゃない。なのに数か月に一度こうして机と椅子を抱えて大移動しなければならない。けれど、その日の御幸はツイていた。一つ、窓際で後ろから二番目の席を確保できたこと、そしてもう一つ、隣の席の住民だ。ここ最近よく正面から見上げていた顔が、今は隣に移動していて。

「これは、神様がもっと野球を学べと言ってるんですかね!」

 いつ見ても人生楽しそうな少女は、そんな能天気なことを言いながら席に着いた。変な子ではあるが必要以上に騒ぎ立てないし、深く踏み込んでない彼女は近隣住民としては当たりの部類である。ラッキー、と御幸は笑みを浮かべながら、窓の外に見えるグラウンドを眺めた。

 ──ああ、野球がしたい。



***



 天城凪沙は変な子だ。変な子であるが、とんでもなく頭がいい。隣の席になったことで、それを嫌というほど痛感することになった。

 御幸の知る限り、彼女が教師に指名されて答えられなかった問いはない。小テストはいつも満点で、互いにテスト用紙を交換して採点するたびに情けなくなる程だ。ノートには手本のような綺麗な字が綴られており、良く友人やクラスメイトにノートを貸し出している。それ故か、席が近くなっても話しかけられる頻度に変化はなく、あくまで彼女は周りに誰もいない時だけ御幸に話しかけに来ていたのだと知る。

「この時、n=1の時、左辺は3です。じゃあ、右辺はどうでしょう?」

「ええと……あ、そっか、3になるんだ!」

「そう、だから等式が成り立ちますよね。ここまでできれば簡単ですよ。n=kって成り立つと仮定すれば、あとは何すればいいでしょうか?」

「えー……あ、代入!」

「そういうことです!」

「なるほどねー! ようやく分かったあー!」

「いえいえ、力になれて何よりです」

「ほんと助かるー。説明上手いね、天城さん!」

「いえいえ、それほどでも」

 そして今日も、授業と授業の合間の貴重な休憩時間に、彼女は嫌な顔一つせずにクラスメイトに授業の解説を行っている。次の数学は教師が厳しいことでお馴染みで、宿題や予習で躓いた女生徒は必ずといっていいほど天城塾に駆け込む。男子は尻込みしているのか、それとも露骨に敬語を使う彼女の壁に敗北を喫しているのか、さほど集まりはしないが。

 ただ、彼女の壁は思いの外硬く、そして高いことを初めて知った。

「(女子相手にも敬語なのか)」

 てっきり男子相手だけかと思いきや、凪沙は女子相手にも敬語を崩さなかった。ただ、全員が全員に敬語を使っているわけではないようで。

 チャイムが鳴るわずか一分前、凪沙の席にとある女生徒が転がり込む。

「凪沙ー!! ごめんっっ、電子辞書貸して!!」

「瑠夏ちゃんまたあ? 忘れ過ぎだよ!」

「予習しようと思ってそのまま家に置いてきちゃったの! お願い、次の時間片岡先生なの、忘れ物したなんて言えない……っ!!」

「……しょうがないなあ、今回だけだよ」

 そう言いながら、鞄から電子辞書を出す凪沙。この瑠夏と呼ばれる他クラスの少女はどうやら親しい仲らしく、凪沙の敬語が外れる数少ない相手のうちの一人だった。物忘れが激しいのか、電子辞書やら教科書やら資料集やら、とにかく何かとつけて物を借りに来るので、御幸もすぐ覚えたほどだ。

「ひー! 助かる! 愛してる!」

「分かった分かった」

 誰に対しても敬語の鉄壁を張る凪沙とは思えないほど雑な対応だ。瑠夏はそんな凪沙に慣れた様子で電子書籍を受け取り、踵を返すその時、ぱっと御幸と目があった。

「──!」

「……?」

 瑠夏はハッとしたような顔をしたが、何かを発することはなかった。チャイムの音に背を押されるように自分のクラスに戻る友人を、凪沙は見送ることなくノートと教科書を用意する。こういう対応の差を目の当たりにすれば、壁を感じると男たちが凪沙相手に尻込むのも分かるような、分からないような、だ。ただ、御幸にとってその壁はさしたる問題ではない。寧ろ相手から話しかけてくるのがほとんどだ、向こうから超えてくる壁に対して思うことなど何もないわけで。

 そんなことを考えているうちに気だるい授業がスタートする。この教師の授業は分かり辛いのにぽんぽんと進んでいくため、自ずとクラス中に緊張が走る。ただ、横にいる凪沙だけは余裕そうな顔でペンを回しているのだから、羨ましい限りである。

「(……なんでこの人、青道入ったんだろ)」

 青道はスポーツ強豪校だが、決して進学校ではない。この頭なら、もっと偏差値のいい学校に行けただろうに。スポーツには全く興味がない様子だし、私立の青道になぞ通わなくとも、偏差値の高い公立高校なんか山ほどあるはずだ。能力に不釣り合いな場所に立つ人間は、いい意味でも悪い意味でも目立つ。御幸の疑問は当然のものである。とはいえそれを訊ねるほど親しいわけでもないので、疑問だけが渦巻くだけなのだが。

「──それでは問い三は……御幸さんに回答いただきましょうか」

「(んげ!)」

 ぼうっとそんなことを考えていた時、数学教師からの直々のご指名があり、思わず背筋が伸びた。しまった、あまり聞いていなかった。数学はさほど不得意ではないが、咄嗟に答えられるほど得意でもなく。黒板に綴られた数列が何故四の倍数であるのか、どうやったら証明できるのかと書かれている。証明せよというからにはその数式は成立するわけだから──ええと、つまり──。

「(御幸さん、御幸さん)」

 その時だった。隣から蚊の鳴くような小さな声が、御幸の名前を呼んだのは。バレないようにちらりと横を見れば、真摯な顔で黒板を眺める少女がいる。だが、机の隅に不自然に寄せられたノートに、ちょうど問い三の証明式がつらつらと書かれていて。

「(──なるほど、そういうことか)」

 すぐさま脳内に式をコピーし、立ち上がって黒板の前へ向かう。チョークを手に取り、長々と式を書いていく。こうして描いていけば何となく、その式が理解できるのだから、さぞ分かりやすくて綺麗な式なのだろうと思う。そうしてこの式が証明すると記載し、御幸はチョークを置く。粉で汚れた手を制服のズボンで拭いながら、教師の舐めるような視線に耐える。

「……正解です。このように倍数の証明問題は基本中の基本ですので、みなさん覚えておくように」

 助かった。ふうと人知れず安堵の息を漏らしながら、御幸は自席に戻る。生徒たちはみな彼女が組み立てた数式をノートに取るので手一杯だ。

「(サンキュ、助かった)」

 ノートの捲る音とペンが走る音を良いことにこっそりとお礼を告げる。どこか暇そうにペン回しをしていた彼女は、形のいい唇に笑みを灯した。

「(いえいえ、いつも助けてもらってますので)」

 そう返して、彼女は再びノートに目を落とす。鮮やかすぎるほどの助太刀だった。きっと、今までもこうして困り果てた生徒たちをこうして手助けしてきたのだろう。

 天城凪沙は間違いなく変な子だと断定できる。だが、悪い子ではない。だからって好きだとか好意を抱くとかそういった感情は過らない、ただそれだけのこと。倉持もまたあの野球への熱量を前に『なんか違う』と思ったようで、凪沙との仲を邪推することはなくなり、本人も積極的に凪沙に話しかけには行かなかった。多分、彼女はきっとそういう存在なのだと思う。ちょっと変だけど、野球が好きな女の子。だからそれ以上の関係にはならないし、互いにそれを望まない。

 だというのに、周りだけがそうは思わないようで。

「あの、御幸くん。天城さんと付き合ってるって、ほんと……?」

 御幸一也と天城凪沙はデキている。そんな噂は本人たちの耳に入るより先に第三者に駆け抜けるのだから、頭の一つや二つ抱えたくなるものである。頭の痛くなるような噂を、よりによって告白された相手から聞かされるのだから、御幸の気持ちなど語るに及ばず。本当に勘弁して欲しい。今はそういう暇はないからと断ったのに、どうしてそんな発想になるのだろうか。

「……いや、そういうんじゃねえけど」

「でも、最近仲良いって聞いて……」

 確かに最近よく話すようにはなった。だからってどうして恋愛関係とイコールになるのか。発想が安直すぎると、御幸はかぶりを振る。

「別に、最近ちょっと話すだけ」

「だ、だったら私も──」

「ごめん」

 だったら友達からでも、何度そんな風に食い下がられただろう。期待は持たせないようきっぱり断って、御幸は教室に戻る。昼休みの貴重な時間の半分が使われてしまった。この時間は少しでも身体を休めていたいのに、どっと老け込んだような気分になる。溜息交じりで教室に戻ると、自分の席の周りに女生徒が集まっているのが見えて。

「ねねっ、御幸くんと天城さんって、やっぱ付き合ってるの?」

 タイムリー過ぎる話題に、思わずそのまま踵を返す。人がいないからって、どうしてそんなことをでかい声で話せるのか。そこ俺の席なんですけど。なんて文句を胸の中で告げたところで何にもならず。あれを蹴散らすほどの厚顔もない御幸は、せめて彼女たちが退散するまで教室の外で待機する他なく。

「最近仲いいもんねぇ!」

「いいなあ、美男美女カップルって感じ!」

「そこんとこどうなの? もうデートした?」

 姦しいとはまさにこのこと。自席に座る凪沙に矢継ぎ早に質問するのは、クラスメイトだったか、それとも他クラスの生徒だったか、御幸の記憶はおぼろげだ。参った。ちょっと話しただけでこれなのだから、彼女が敬語の壁を崩さないわけだ。今度から自分も真似してみようか。なんてガラにもないことを考えていた、その時だった。


「──そんなこと、あなた方に何の関係があるのでしょう」


 凛とした声が、浮ついた会話を一刀両断した。

 その話に聞き耳を立てていた者含め、全員がぎょっとしたに違いない。悪気一つない顔で、とんでもない突っぱね方をしてのけた天城凪沙は、何か問題でもとばかりにきょとんとしている。信じられない、まだ御幸の方が穏便に事を進める自信がある。完全に面食らった女生徒たちは、困惑したように言葉を濁しているほどだ。

 凪沙はそれだけ言って満足したのか、周りに女生徒たちがいるにも関わらず本を読み始めてしまった。そのうち予鈴が鳴り響き、女生徒たちは何とも言えない気まずい顔で教室を出ていくので、入れ替わるように御幸も教室に足を踏み入れる。席に戻る御幸に少女は声をかけない。黙々と、御幸がおすすめした配球・リードについて書かれた分厚い書籍を読み耽っている。

「……すげーこと言うね、ほんと」

「対話すると付け込まれますからね、これぐらいでいいんですよ」

 ほぼ独り言であったその声に、凪沙は本に目を落としたままきびきびと返してきて二度驚いた。信じられないが、この口ぶり。どうやら彼女は御幸が戻ってきたことに気付いていたらしい。ぱたんと本を閉じて、少女はにこりと微笑んだ。

「ああいう方は肯定しても否定しても食い下がるでしょう? だから、対話しないようにしてるんです」

「……意外だわ。天城さん、誰にでも親切なタイプかと思った」

「礼には礼を、ですよ。礼を欠いた相手に、まともに取り合う必要はありません」

 綺麗な顔して中々切れ味の鋭いことを言う。御幸自身、思ったことをずけずけ言う方であるが、事恋愛やら人間関係やらになるとそれができずにいた。運動部に所属しながら先輩相手に軽口は叩くより、告白してきた女の子をスマートに断る方が何倍も難しい。何故なら部活の先輩たちと違って、実力だの理屈だのでどうにかなるような相手じゃないからだ。

 けれど少女は、そんな御幸を嘲笑うかのようにキッパリと跳ね除けて見せた。その横顔は──女の子にこんなことを言うのもお門違いかもしれないが──かっこいい、と思ったほどだ。

「御幸さんは、いい人ですね」

「……」

「でも、いい人が過ぎると思いますよ」

 彼女はよく御幸一也を、『いい人』と表現する。お世辞にもあまり人当たりがいいとは言えない御幸が性格を褒められることは稀である。ただ今回に限っては、賛辞ではないようで、御幸は笑みを深くする。

「……いーね。天城さんのそれ、参考にするわ」

「ええ、ええ。構いませんよ」

「誰かからごちゃごちゃ言われたらごめんな?」

「いえいえ、そんなのお互い様ですから」

 澄ましたように告げる彼女は、だからといって『自分の所為だ』とは謝らなかった。もともとは彼女が蒔いた種だろうに、そこは気にしないらしい。まあ、その種が芽を出す前に摘み取ることはできただろうに、そうせずに水をやったのは御幸だ。だから賢い彼女は、それ込みで『お互い様』と片付けたのだろう。

 天城凪沙は変な子だ。だが、悪い子ではない。だからといっていい子とも限らない。なんとも変な証明式だと、御幸は人知れず笑みを零した。

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