4.少女曰く、類似

 天城凪沙は、すっかり野球の虜になっていた。

 野球は奥が深い。故に、楽しい。凪沙はその魅力に憑りつかれていた。おまけに、学べば学ぶほど推しへの造詣が深くなる。先日買ったゲームはよく調べたら『野球要素はおまけ』とまで言われていたが、それはそれとして面白いゲームだったのでさっとクリアしてしまった。部活は緩く毎回顔を出す必要は皆無で、バイトは週に二回か三回程度。暇な時間の多いオタクに敵はなかった。

 そして今、少女の興味は『配球』に向けられていた。

「速球の後の緩急ってそんなに打てないものでしょうか?」

「まーた難しいこと聞いてくんね……」

「きょ、恐縮です」

 推しはキャッチャーだ。扇の要、チーム頭脳。そんな彼らの主な仕事は投手の球を受けること、そしてどんな球を投げるべきかを導くこと──配球、リードと呼ばれるその行為に、凪沙がずぶずぶハマっていくのは当然のことであった。そしてその苦労を一番分かっているであろう御幸の元を、今日も訊ねる。先日購入したゲームを紹介してくれた倉持も野球部と聞いたが、流石にリード・配球については御幸に聞いた方がいいだろうと判断してのことだ。

 ただ正直、御幸が野球部であるとは未だに信じがたい。眼鏡だし、一見穏やかそうだし、眼鏡だし。偏見丸出しではあったが、事実友人に聞くまで彼が野球部だと知らなかったのだ。だが、実際話してみると経験者らしい話がポンポン出てくるものだから、『ああ、ほんとに野球やってるんだあ』という感覚。ただ、やはりこの目でそのプレイを見るまでは彼が推しと同じ防具を纏ってグラウンドに立っているイメージが浮かんでこないのだろうと思いながら、今日も御幸の話に耳を傾けながら青いメモ帳にペンを走らせる。

「ま、実際に経験してもらうのが一番だと思うけど、同じコースの同じ球って目が慣れりゃ打てるもんだぜ?」

「なぁるほど……最高速度が百二十キロの投手相手でも、百キロのスローボールを投げられたら打ちづらい、と」

「二十キロ差はえぐいなー。同じとこに放られたら打てるか自信ないかも」

「へええ……!!」

 運動が苦手な凪沙にしてみれば百二十キロだろうが百キロだろうが十分速い、全く打てる気がしない。最近の高校球児は百五十キロをマークすることも珍しくなくなってきたというのに、そんな彼らでも緩急には敵わないというのだから、謎の感動を覚えてしまう。配球、リードはそういった人間の動体視力も込みで組み立てられていくのだろう。推し、すごい。推し、頑張ってる。そう考えるだけで今日も世界が美しい。

 しみじみ頷いていると、そうだ、とばかりに御幸が笑みを浮かべる。

「なんなら天城さんも体験してみたら?」

「と、いいますと?」

「部活は厳しいけど、バッセンなら行けるんじゃね? この近くにもあるだろうし、そんな高くもねえし、緩急の体験してきたら?」

「バッセン……そっか、バッティングセンター……!!」

 御幸の一言に、世界がパアッと輝いた気がした。そうだ、その手があった。どうして気付かなかったのか。自分でも球児たちの経験を、お手軽に体験できる方法がこんな間近にあったなんて!

「名案! 流石扇の要! 神!」

「オーバーすぎだろ」

「いえいえ、天啓が如き閃きですよ!」

 主語が大きいと問題が生じるが、褒め言葉はいくら大きくしても良いというのが凪沙の主張である。そんなオタクに御幸はなんと反応したものか分からないようで、むずむずとした表情で肩を竦めるだけだった。

「早速、今日向かってみますね!」

「ほんと行動力の化身だな……」

「善は急げと言いますし! そうだっ、何か準備やお作法などありますか?」

「ねえって。動けるカッコと数百円あれば事足りるから」

「なるほど……あっ、あのかっこいい手袋って借りれますかね?」

「バッテのこと? 軍手なら貸し出してるとこあると思うけど──」

「ならそれも買います!!」

「せめて一回行ってからにしろって、通い詰めるわけじゃねえんだから」

 興奮気味な凪沙を宥めるように、御幸は言う。天城凪沙は所謂形から入るタイプのオタクだったので、すぐ財布を取り出そうとする。意外と倹約家の御幸の説得によりひとまず動ける格好だけでバッティングセンターへ行くことに決めた。楽しみとはしゃぐ凪沙に、御幸は疲れたように肩を落としたのだった。

 そして次の日。

「御幸さん、早速行ってきました! バッティングセンター!」

 昨日の戦果を報告すべく、少女は休み時間に御幸の机の元に飛んでいく。色々アドバイスをもらったからには、報告とお礼をしなければ、そんな思いで話しかけると、御幸は頬杖をつきながら頷いた。

「おおー。どうだった?」

「百四十キロすごいですね!! バットに掠りもしませんでした!!」

「なんで速球から試そうとするんだよ……八十キロとかあったろ」

「可能な限り高校球児の気分を味わいたくて……!」

 そんな意気込みで乗り込んだはいいものの、当然ながら全球空振り。傍から見れば金を無駄にしただけともいえる。だが、当たれば骨をも砕くそのボールを間近で感じられて凪沙としては大満足であった。空振りすら心地よいとさえ。そんな凪沙に御幸は心底理解できないとばかりの表情であったが、特に口にはしなかった。

「けど、打てればもっと楽しいぜ。子ども用のコースとかあるし、今度はそっち行ってみたら?」

「あー……え、ええと、そうですね、機会があれば、また」

「……どうかした?」

 先ほどの勢いが嘘のように歯切れが悪くなる凪沙に、御幸は当然のようにそれを訊ねる。しまったな、と凪沙は思った。もっと上手く誤魔化すべきだった、とも。だが、ちらりと見た御幸は、きょとんとした顔で凪沙を見上げるだけ。

 ──彼なら、大丈夫。この数日の間も、そういった気配はなかった。あるのは御幸への信頼だけではなく、自分の人を見る目。けれど、自分は……いいや、多分、きっと、大丈夫だ。瞬時にそう判断した凪沙は、溜息交じりに一呼吸を置き、口を開いた。

「……声を、かけられるんです。知らない人に、たくさん」

「あー……」

 言いよどみながらそう告げる凪沙に、御幸は理解を示したように気まずそうに頷いた。その反応に、やはり自分の目は間違ってなかったことに安堵した。

 自分の容姿が他人に──特に異性に、どう映るかはこの十六年嫌というほど思い知らされてきた。ありとあらゆる手段によって。その中でも、やはりナンパという行為は群を抜いて多かった。昨日だって、ただ推しの努力の片鱗に触れたくて剛速球相手に目も閉じずバットを振り回していただけなのに、教えてあげるだの手本を見せてやるだの可愛いねだの一緒に遊ぼうだの、雑音喧しいことこの上なしであった。バッティングセンターという場所に異性が多い、という意識はあったが、それでもブースに入ってしまえば大丈夫だと高を括っていた。

 確かに百四十キロのマシンに齧りつく凪沙のブースにノコノコ足を踏み入れる者はいなかった。それでもブースの外からセクハラまがいの声をかけられたり、ナンパされたりと鬱陶しいことこの上なかった。推しのことだけを考えたいのに、どうして邪魔をされなければならないのか。そう思うと、再びあの場所に赴こうとはならなかった。それだけが、唯一残念だった。嘆息する凪沙に、御幸は首の後ろをかきながら、遠慮がちに呟いた。

「……まあ、今度は友達連れてけばいいんじゃねえ?」

「──!」

「大人数で道塞ぐとかしてなきゃ、迷惑でもねえし」

 はっとして御幸を見つめる。御幸は決まりの悪そうに、机の上のスコアブックに目を落とす。その一言に、胸が詰まった。こういった話を誰かにすれば、絶対に言われるであろうその言葉を、御幸は選ばない。それだけで、嬉しい。それだけで、安心できる。それだけで、この人は信頼に足ると思えるほどに。

「……御幸さんは」

「ん?」

「いい人、ですね」

 御幸一也はいい人だ。間違いなく断言できる凪沙のようなにわかのオタクに対しても真摯にルールや野球の楽しさを教えてくれるし、そのお礼と経過報告をしに来る凪沙を鬱陶しがることなく相手してくれる。前者はともかく、後者なんか御幸にとって何の関係もメリットもない話だ。凪沙の報告なんか無視してもいいだろうに、こうして相槌を打ってくれるのは本当に優しいし、ありがたい。ソフト部の友人はいなし、漫研に運動の得意な友人もまたいない。野球の話ができるのは、御幸か野球漫画を教えてくれた瑠夏ぐらいだが、瑠夏もそこまで野球にのめり込んでいるわけではない。だから、こんなに話が弾むのは御幸しかいないのだ。

 その上で御幸は、凪沙に踏み込んでこない。こんな会話をしてなお、彼は『じゃあ俺と一緒に行く?』なんて言ってこない。正直フリになってしまったと思ったほどだが、彼は決して不用意な距離の詰め方をしない。それだけで、こんなに安心ができる。愛だとか恋だとか、そういうの抜きに自分の好きなことを話せるだけで、どれだけ安心できるか。

「……なんか、大変なんだな」

「いえいえ。推しの為ならなんだって」

 だから敢えて、そんな会話を終わらせるようにおどけて笑って見せる。あなたほどじゃないですよ──そんな一言を挟もうかと思ったが、喉奥に仕舞いこんだ。せっかく彼がそういった会話を避けてくれたのだ、自分から蒸し返すのも失礼極まりない。

 御幸とは野球の話だけをする。それだけで、いい。

「でも、みなさんすごいですよね。百四十キロのボール、当たったら骨折れちゃいますよ。怖くないんですか?」

「んー、打席に立つとそうでもないかも」

「ええっ!? ボールがジャージ掠めた時、生きた心地しなかったですよ!?」

「それ内側に寄り過ぎだろ」

「だって、なるべくなら間近で見たいじゃないですか!」

「天城さんの方がよっぽど怖いもの知らずだろ」

 そうやって、二人はわずかな時間を野球という話題で埋め尽くす。話しても話しても足りない凪沙に、御幸は相槌を打ちながら会話を広げてくれる。こうして男女の垣根を感じさせないさっぱりとしたその気風は、ほんの少しだけ推しキャッチャーに似ているかもしれない、と思った。

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