天城凪沙は、呆気にとられた顔で聳え立つ球場を仰いだ。 七月三十一日。その日凪沙は、友人の瑠夏を誘って人生初めての野球球場にやってきた。『明治神宮野球場』と書かれた大きな文字を見上げ、二人の少女は驚いた。人が多い。まるでこれからコンサートでもやるのかといわんばかりの賑わいである。確かに、今日は甲子園出場をかけた戦いである──本当はベスト四を決める試合にも来たかったのだが、瑠夏のバイトの都合がつかなかったのだ──、にしてもこの人だかり。生徒も多いが、明らかに関係者とは思えない大人も多い。みんな顔を輝かせ、どんな戦いを見せてくれるのかとばかりに球場に足を踏み入れている。 「な、なんかすごいとこ来ちゃったね……」 「あづいー……真夏の真昼間からスポーツって頭おかしーよ……」 乗り気ではない瑠夏のテンションは終始低めだ。確かに、死者さえ出る気温である。更には屋根もないような球場で、スポーツを行う。野球とは本当に酷なスポーツだと思う。同時に、故に人々が熱狂するのだ、とも。そんな“熱”に直接触れるのだ。いつか推したちも辿りつくこの場所で。そんなことを考えながら、二人の少女は拡声器を手に入場を呼びかけるスタッフの指示に従って歩き出した。 スタンドも超満員だった。本当に人気歌手やアイドルのコンサートでもやるのか、といわんばかりの人だかり。その熱気に押されながら、凪沙たちは青道側──三塁スタンドへ向かう。そこには見覚えのある制服や、中には見覚えのある顔たちが、いそいそと応援の準備をしている。 「あっち側、行く?」 「んー……いやー、いいよ。知り合いに見つかりたくないし……」 「会いたくない人いるの?」 「陽キャには分からないわよ、オフは知り合いに会いたくないこの思い……」 重々しい口ぶりの瑠夏の考えは、彼女曰く陽キャの凪沙にはとんと理解できない。ただ、確かに応援席には男子生徒も多い。あまり絡まれても面倒だと、生徒の集団からは少し離れた場所に二人は座した。 「あちー……溶ける……」 「瑠夏ちゃん、大丈夫?」 「一生分のセロトニン生んでる……」 「私が言えたことじゃないけど、たまには外出ようね」 オタクは一般的に言われるほどインドアではない。イベントは常に外で行われるのだ、金と足さえあればどこへだって飛んでいく人種が多い。ただ、そうはいってもこの炎天下に長時間滞在することは極めて稀だ。凪沙と瑠夏は塩分タブレットをもごもごさせながら、球場を見下ろす。 「……まあでも、いい取材になるかな」 「だよね! この空気感は実際来ないと分からないし!」 「そーね。これで新刊出たら私のこと笑って」 「笑わないし、瑠夏ちゃんの新刊楽しみにしてる」 「製本手伝ってくれる?」 「アンソロ参加してくれるなら」 「取引成立」 そうしてオタク二人はカラカラと笑い合う。そうして眩いばかりのグラウンドを見回す瑠夏は「それに」と付け加える。 「知らないプロ野球より、知り合いが出てる試合のがおもろいしね」 「あれ、瑠夏ちゃん野球部に知り合いいるの?」 「いないけど、御幸は出るでしょ」 「え? そうなの? 御幸さん二年生でしょ?」 「あんたそれ御幸ファンの前で言ったらぶっ殺されるわよ」 凪沙にしてみれば、部員百人の強豪校のレギュラーは当然三年生一色と認識しているのだ。御幸は試合に出ているようだが、ベンチなのだろうと、そんな思い込みを今の今まで持ち合わせたまま此処に辿りついたのだ。どんな勘違いしたらそんなことなんのよと、悪態をつきながら瑠夏もまた凪沙のトンチキな勘違いを正すことはなかった。 そして御幸の思惑通り、御幸の名を告げるウグイス嬢の声を耳にして、凪沙は呆然と佇む羽目になった。 *** 幕引きは呆気なく、そして無常であった。 「──え、終わり?」 敵チームが胴上げせんばかりに盛り上がっていた。大して青道の選手はグラウンドに泣き崩れている。そんな光景を目にした瑠夏が呆然と呟いたその一言に、凪沙はようやくこの試合が負けて終わったことを悟った。 未だに野球部員が疑わしい御幸一也が先発でマスクを被って出てきた時は、凪沙は椅子から引っくり返るほど驚いた。友人に訊ねると、どうやら彼は『天才捕手』として校内でも有名らしく、百人いる強豪野球部で一年生にして正捕手だったというのだから、なんて人に下らない話を持ち掛けてしまったのだろうと流石の凪沙も頭を抱えた。けれどそんな後悔も、目の前で繰り広げられる激戦を前には塵も芥。味方の活躍には周りの応援に負けないぐらい大声で選手の名前を叫んだし、敵のバットが唸るたびに息を呑み、拳を握り、生きた心地がしなかった。そうしてアウトあと一つで青道の勝利まで辿り付いたその瞬間。 敵のエースのバットがそんな甘く儚い希望を、文字通り粉砕した。 「瑠夏ちゃん……い、行かなきゃ……!」 凪沙もだが、瑠夏はそれ以上に呆然としてた。まるで、業火にくべられ灰になったようだ。試合が始まるまで溶ける暑いもう無理とぶつくさ呟いていた瑠夏だったが、試合が始まるや否や誰よりもでかい声で応援していた。彼女のこういったところが好ましいと思っているのだが、熱を入れるあまり今は魂が抜け落ちたようだった。だが、いつまでもこの場に佇んでいるわけにもいかない。ある者は悔しそうに、ある者は泣きながら、またある者は落胆しながら席を立つ群れの中に、瑠夏の腕を引いた凪沙も紛れ込む。 球場の外には、一足先に退出した観客たちと、荷物を抱えて出てきた青道の選手たちがいた。バスの時間はまだなのか、みな荷物の回りで泣き崩れている。それに続いて先ほどまでグラウンドで戦っていた選手たちが出てくるので、観客たちは温かな拍手で出迎える。凪沙もだ。そして、キャプテンと思しき先輩──名前は確か、結城哲也先輩──が、泣き腫らした顔をそのままに勢いよく頭を下げた。 「期待に応えられなくてすみませんでした!!」 ──すみませんなどと、どうしてそんなことを口にしてしまうのだろう。観客の誰もが責めることなく、立派だったと褒め称えるも、彼らにとってそんな慰め無意味なのだろう。選手全員が腰を折って一礼する。 「応援、ありがとうございました!!」 選手全員が頭を下げる。そんな姿が痛ましく、凪沙は思わず顔を背けた。横にいる瑠夏に至っては堪えきれなくなったのか、大きくしゃくり上げながら悔し涙を流している。そんな声にもずきんと胸が痛みながら、凪沙も手が痛むほど拍手を打ち鳴らす。 選手たちは一礼すると荷物をまとめ、急ぎ足でバス乗り場へと向かう。その中にはクラスメイトの御幸の姿があった。凪沙をこの場に誘った張本人も、悔し涙に塗れたのだろうか。眼鏡をしているせいでよく分からなかった。けれど、そこにいる御幸は、いつだって余裕めいた笑みを浮かべる彼とは別人のように、唇を真一文字に結んで俯きがちだ。その顔に、再び胸が疼いた。ああ、本当に彼はあそこで戦っていたのだという今更過ぎる実感と、そして彼が負けてしまったという事実が、一気に押し寄せる。 凪沙たちは彼らが乗り込むバスが発車するその時まで、炎天下も気にならないほどに拍手を打ち鳴らし、見送ったのだった。 「……」 「……」 そうして二人は無言のままひとまず駅に移動し、手頃なカフェに入る。先ほどまでの猛暑が吹き飛ぶような冷房にぶるりと震えながら、心ここにあらずといった少女二人で紅茶やケーキを注文する。 「……なんか、すごかったね」 「うん。言葉出なかった」 注文した品が静かにテーブルに並べられる頃になって始めて、二人の会話が動き出した。凪沙は紅茶のシフォンケーキを、瑠夏はレアチーズタルトを緩慢な動きで口に運びながら、陽炎の向こうに見た激戦を思い返す。凄まじい光景だった。長時間夏空の下にいることに慣れていないせいか、まるで眼球が焼けてしまったようだった。これが目に焼き付けるということか、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えた。 「瑠夏ちゃん、私より熱心に応援するからびっくりしちゃった」 「だってぇ……こう、引き込まれちゃって……」 「分かる。上手くいえないけど……私も、そんな感じだった」 「めっずらしー、三次元一切合切興味ナシの凪沙が?」 「……多分、そういう次元の話じゃなかったから」 そう言いながら、キレイに膨らんだシフォンケーキをフォークで掬う。そうだ、二次元とか三次元とか、そういう話じゃなかった。そこに人の“熱”がある。それだけで人はこんなにも心を動かされる。オタクでなくとも身に覚えのある話だ。そうだ、その“熱”があんまりに尊くて美しかった。最初はそこに推しの姿を見ていたけれど、すぐに現実に塗り替えられた。選手たち一人一人の名前を必死に叫んだせいで、温かな紅茶が喉に染みるほどだ。 試合に関して、二人に言えることはない。彼らは死力を尽くした。そして一歩及ばなかった。それ見た自分たちが望むのは、次こそ勝って欲しいね、なんて口にするのもおこがましい願いだけ。けれど口に出してしまうと、あそこはああすれば、あの時こうすればと、蚊帳の外からいくらでも言葉が出てしまいそうだった。だから二人は自然と試合についての話題を避ける。すると不思議なことに、凪沙の思ってもみない流れになった。 「かっこよかったぁ……純さん、ほんとすごくて、はあ……」 「え、うそ、瑠夏ちゃんそんなに!?」 「べっ、別にそういうんじゃないって! かっこよかったなあ、ってだけ!」 そう言いつつごにょごにょと言葉を濁らす友人に、凪沙は心底驚いた。確かにみんなかっこよかった。ただ、『日に焼けた』なんて言葉では庇い切れないほど、瑠夏の頬は赤かった。ひええ、と嬉しいようなむず痒いような表情でいると、むすっとしたような瑠夏がねめつけてくる。 「凪沙こそ、どーなのよ」 「どう、とは」 「御幸。何なら倉持でもいいけど」 「……どうもない、かなあ?」 流石にこの文脈で話が分からぬほど愚鈍ではない。これが大して親しくもないクラスメイト相手なら突っぱねるところだが、相手は親友だ。無下にするわけにもいかず、誠実に答えたつもりだ。だが、瑠夏は納得しない。 「嘘。御幸のことずっと見てたくせに」 「だってまさか正捕手とは思わなかったから、つい……」 「倉持だってレギュラーだったの知らなかったんでしょ?」 「うん、全然。二年生なのに二人ともすごいよね」 「でもあんたはずっと御幸のこと見てた」 「やっぱ、キャッチャーだし……」 「ほんとにそれだけ?」 瑠夏は一歩と引かない。凪沙が忌避する話題と知ってなお、珍しくぐいぐいと迫ってくる。ただ、嫌がらせや興味本位からくる言葉じゃない。そんな子であったら、こうして二人で仲良くお茶など飲まずにさっさと帰っている。彼女には彼女なりに、何か引っかかるところがあったのだろう。だから、真剣に考える。 要は御幸を好きになったかどうか、という話だ。久しく“恋”なんて感情を三次元に向けた記憶がないので、確かにどういう感覚だったのか思い出すのも苦労した。だってそれは、自分さえも忘れ去った場所にある。埃を被ったまま箱に仕舞われ、記憶の奥の奥の底に沈めてしまったそれをゆっくりと持ち上げる。別段、自分の恋に何らかのトラブルやトラウマがあったわけではない。ただ最後の恋はいつだっただろうと、かぱりと箱を開けて驚いた。 おかしい、何も入っていない。 「……?」 ぺろりと平らげたシフォンケーキの皿の前で、少女は腕を組んで黙り込んだ。瑠夏も茶化すことなく黙って言葉を待ってくれた。店内の穏やかなBGMと周りの人々のざわめきを心地よく聞きながらしながら、凪沙は改めて考える。 箱が空だった。もしかしたら別の箱に仕舞ったのかもしれないが記憶がなく、仕方ないと凪沙は自らの経験ではなく広義に当てはめることにした。漫画やゲーム、映画やドラマで『恋愛』を取り扱わない作品を探す方が困難だ。二次創作も含めれば何百もの恋愛模様を記憶に刻んできたのだ。定義たる材料は揃っているはずだと、凪沙はさらに思案に暮れる。 凪沙がもし御幸に懸想しているとしたら、きっと瑠夏のようになるはずだ。その人のことを思うだけで身体的に変化が生じる。鼓動が早くなり、頬が上気し、落ち着きなくソワソワしたり、終始その人のことを考えるはずだ。凪沙にそれはない。念のため、別ケースも想定しよう。例えば御幸に恋人がいたり──まあ、あの様子では百パーセントいないだろうが──、好きな人がいたらどうだろう。敵わぬ恋に胸が苦しくなったり、涙したり、嫉妬で御幸の想う誰かを恨んだり憎んだりするはずだ。やはり、凪沙にそれはない。 結論、やはり凪沙は御幸を好いているわけではない。 「うん、違う」 「ほんとにぃ?」 「御幸さんのこと、いい人だと思ってる。友達だとも。ただ、御幸さんに好きな人がいても苦しくないし、御幸さんのこと考えて胸がどきどきする、ってこともない。だからこれはきっと、恋じゃないよ」 「……そーお?」 「疑り深いねえ、瑠夏ちゃんは」 仕方ない、と凪沙は正面に座る瑠夏に向かって左腕を差し出す。手首を上にしてテーブルに乗せる凪沙を、瑠夏はぽかんとした表情で見つめる。 「脈、触ってみて」 「え?」 「瑠夏ちゃんには嘘言ってないって、証明になるから」 凪沙は努めて誠実であろうとした。嘘なんかついていないのだと、親友には示したい。そんな真剣な表情の凪沙に、瑠夏は恐る恐るその手首を握る。とくんとくんと、規則正しく脈打つ鼓動は、しゃんと背を伸ばす凪沙の人となりを表しているようだと、瑠夏は思った。 「くそお、なんで私だけ沼ってんのよー……」 「別にいいでしょ? 私は私、瑠夏ちゃんは瑠夏ちゃん」 「人に勧められて軽い気持ちで履修したジャンルに沼落ちした気分」 「私に野球漫画教えたの瑠夏ちゃんだし、因果応報だね」 「えーんえーんリアルは舞台だけで留まりたかったのにぃいい……」 凪沙の手首から手を放し、嘘泣きしながら瑠夏はテーブルに突っ伏す。瑠夏の気持ちは決して凪沙に分からぬものではない。まあまあと慰めるように声をかける。 「大丈夫。責任取って相談には乗るから」 「えーんえーん恋愛童貞クソモテ女のアドバイスなんか参考になるかーい」 「酷い言われよう。……ん? 酷い言われよう、かな?」 まあ瑠夏のいう通り、凪沙のアドバイスなど恋愛マニュアル本以下の価値しかないだろうが。まさかまさかの被弾をした友人の愚痴を耳にしながら、既に冷め切った紅茶を一気に喉奥に流し込んだ。喉はちくちくと痛みを訴えるが、気にしない。 こんな痛み、彼らが負った傷に比べればなんてことはない。ふと、俯きがちの御幸の顔が過った。愛だとか恋だとか関係なく、友人の憂う姿はただただ物悲しいものだと、凪沙は未だ瞼に焼き付いたグラウンドの眺めを思い出した。 |