11.夏の幻を追いかけて

 御幸一也は、返ってきたテスト結果を見てほっと胸を撫で下ろした。

 天城塾の影響力は甚大で、野球部二年に赤点は一つもつかなかったと聞いたのは、あまりの成績の良さに訝しんだ部長・副部長・監督の三人に何があったのかと問いただされた時だった。同じクラスの天城凪沙と最近友人になった関係で勉強の面倒を見てもらったのだと告げれば、誰もがなるほどと頷いた。天城凪沙の名前は先生たちにとっても馴染み深いものだったようで、すぐに納得がいった様子だ。ただ、彼女は野球が好きだと告げたその時、高島礼の鋭い眼光が煌めいた。

「御幸君」

「な、なに、礼ちゃん」

「──天城さんとは、今後も仲良くね」

 使えるものは何でも使うという精神は、何も御幸だけじゃなかった。野球に集中するあまり、勉学が疎かになる生徒に頭を抱えるのは何も高島に限った話ではない。部長ならまだしも監督までコクリと感慨深く頷くので、次は何を差し出せば天城塾は開催されるのだろうかと、御幸は算段を付ける羽目になったのだった。

 何にしても凪沙のおかげで補習を回避できた者たちは大喜びで、『天城さんにお礼を』と言伝を承った御幸は──直接言おうとしないのは、やはりあの美人に気後れしているのだろうか──テスト結果が書かれた小さな紙をつまらなそうに見下ろす凪沙に告げる。すると彼女は、にこりと穏やかに微笑んだ。

「それは僥倖です。これで皆さん、野球に集中できますね」

「ああ、ほんと助かる。夏はもうすぐだからな」

 輝くばかりの太陽が降り注ぐグラウンドに目を向ける。先輩たちの最後の夏が始まる。クリスを差し置いて正捕手として選ばれた責任は、果たさなければ。課題なんか山積みだ、補習なんぞにに時間を取られるわけにはいかない。そう思えば、防具を見せるぐらいなんと安い対価だったか。

「楽しみです。絶対、球場行きます」

「熱中症には気を付けろよー」

「ええ、ええ、そこは大丈夫です! 漫画にも描いてありました! 帽子と飲み物、それから塩分タブレット、食事を摂ってくることも忘れずに、ですね!」

「そうそう。そこまで分かってりゃいーや」

 鼻息荒く答える凪沙に、相変わらずだと御幸は笑みを零す。すると凪沙は友人に呼ばれて席を立ち、女生徒の集まりの方へと向かう。そんな彼女からひらりと何かが落ちてきて、特に何も考えることなく拾ってあげたのだが──紙に書かれた文字が否応なしに目に入って、思わず顔が引きつった。

「(が、学年一位……!)」

 テスト後、結果が大々的に張り出されることはなくとも、こうして自分が学年何位なのか、教科ごとに何位なのかと手のひらサイズの紙に書かれて配られる。御幸の成績だって人に見せるようなものではないにしろ、決して悪いものではない。しかし、この紙に比べればなんとお粗末だろう。彼女の名が書かれた紙には、現国も古文も英語もオーラルも数学も世界史も地理も化学も生物も、輝かんばかりの『一位』の文字が並んでおり、総合結果もまた当然のこと。

 天城さんとは今後も仲良くね──紙を凪沙に返しながら、高島礼がそんな風に言った意味を、御幸はようやく理解したのだった。



***



 七月になり、大会の開幕は滞りなく行われた。来る試合に備えて日夜練習に明け暮れる日々。そんな中で、高島の望むまでもなく天城凪沙との交友関係はそれなりに続いた。何分、席が隣なのだ。授業の合間、何でもない会話をするにはひどく都合のいい座席だった。彼女は相変わらず『推しキャッチャー』に夢中らしく、その魅力を直接語られることはないにしろ、『キャッチャー』という生き物として御幸の生態や考え方を知りたがるようになった。

「最初はボール多いですね」

「ああ、立ち上がりにムラがある投手だからな」

「対する相手方は──すごい……ほとんど四球がない……」

「なんせ、精密機械とか言われる投手だからな。ボール一個分内外分けて放るんだぜ、どんな制球力だよ」

「(漫画みたいで)かっこいい……!」

 先日の明川戦のスコアブックを嬉しそうに眺める凪沙。不思議と彼女の伏せられた言葉が読み取れるようになってきた気がする。褒められた特技ではないなと思いながら、弾む会話に身を任せる。

「三回で六十球は相当投げさせられてますね……投手のスタミナを削るためでしょうか」

「だろーな。元々ノーコンだし、本人にとっても厳しい戦いだったと思うぜ」

「だからこんなに早く交代をしたんですね」

「監督も流石だよな。代えるタイミングギリギリまで引っ張った。なのに降谷の奴、マウンドから降りねえもんだからさ〜」

「引きずり下ろした?」

「人聞き悪ぃの。ま、その通りだけど」

「手厳しい!」

 そう言いつつ、凪沙は満面の笑みだった。何故そんな笑顔なのか分からないが、訊ねると長くなりそうなので御幸は静かにスルーした。

「次はベスト四を決める試合なんですね」

「もう夏休み入るし、いよいよって感じだな」

「そっか、もう夏休み……」

 そう、彼女とこうして顔を突き合わせるのも、今日で最後。次にこうして学校で会う時は、夏が終わった時。その時御幸たちは何を見、何を得るのだろう。夏が終わり、勝とうが負けようが先輩たちは引退する。次は自分たちの代になる。正直、あの先輩たちのように後輩たちを引っ張って秋の大会に挑む自分が、まるで想像できない。なのにあと一か月半もすれば、夏は終わってしまう。否、次の試合に負ければその時点で終わるのだ。暢気なことは言っていられない。

 そんなネガティブな思考をシャットアウトする。ダメだ、気持ちで負けていては勝てるものも勝てない。次は薬師、その次はきっと稲実だ。そこまで勝たなければ甲子園の切符は手に入らないのだから。そんなことを考えて黙る御幸に、凪沙は不思議そうに首を傾げる。自分の世界に入ってしまったと、慌てて話題を転換する。

「天城さん、夏休みはバイト?」

「夏は──そうですね、バイトと、八月にはイギリスにホームステイを」

「ホームステイ!?」

「はい、学校の留学プログラムの一環で何人かと、二週間ほど」

「す、すげえ……」

 いつもは野球に夢中なクラスメイトだが、その実、学年一位の成績を誇る才女。海外留学なんて御幸たちの生活において一ミリも選択肢に浮かんでこない。改めて、別世界の住人のようだと感心する。

「なので皆さんが甲子園行くと、試合見れないんですよね……」

「あー、そっか。イギリスじゃ中継も見れねえよな」

「ええ、時差的に厳しいかと。……正直、面倒であまり気乗りしないんですよね。夏休みぐらい、遊んでいたいです……」

「フツーの学生みたいなこと言うんだな」

「失敬な。どこからどう見ても普通の学生ですよ」

「例えば?」

「友達の家に泊まり込んでお絵描きやゲームしたり、漫画読んだりしますね!」

 あまりオタクであることを隠さないらしく、聞けば凪沙は素直に答える。オタク=インドアというイメージだが、ほとんど室外で過ごす御幸にとってそのインドア生活はにわかに信じがたい。

「どっか出かけたりしねえの?」

「あんまり、ですね。(コラボ)カフェや(グッズの)買い物ぐらいでしょうし、海に行くとか、花火するとか、お祭り行くとかは、全く」

「へー。そういう寂しい学生生活は俺らだけだと思ってた」

「寂しくはないでしょう? 私たちには熱中すべき趣味があって、御幸さんたちには野球があります」

 きっぱりと言い切る凪沙。人からはよく『寂しい学生生活』と表現されることの多いため、凪沙の言葉はひどく新鮮に響いた。やはりこの人は変わってる、きりりとした表情の凪沙を横目に何度となく思った。

「でも、野球詰めだと流石に疲弊してしまいますよね?」

「そりゃあ、まあ」

「オフの日に、部の人と遊びに行ったりしないんですか?」

「行かねーなあ。あいつらとは友達って訳でもねえし」

「そういうものですか」

「そういうもんじゃね?」

 あまり理解できないとばかりに、凪沙はコテンと首を傾げた。一緒に居るから仲がいい、チームメイトだから親しい、というのは実態を知らぬ者たちの幻想だと御幸は思う。良きチームメイトであろうとも、友人かと言われれば素直に頷き難い。ましてやオフの日に過ごすなんて、よほど趣味が合う者ぐらいだろう。

 とはいえ、必ずしも親密さがないと言えばそうでもなく。倉持や小湊兄弟はオフの日も一緒にゲームをしているし、白州と川上は音楽の趣味が合うという。三年の先輩たちもオフの日はよく互いの部屋で遊んだり漫画読んだりとだらだら過ごしていることが多く、御幸もそれに巻き込まれて先輩のマッサージをしたり、将棋に付き合ったりしているが……。

「じゃあ、御幸さんってオフの日何してるんですか?」

「んー……スコア見たり、試合見返したり、色々?」

 正直、この手の話は苦手だ。どうしても、話題に困る、何だこいつ、とばかりの顔をされるからだ。御幸に趣味嗜好は野球だ。息抜きにゲームだとか、音楽だとか、漫画だとか、その手合いに全く興味がないのだ。強いて言えば『料理』を特技に挙げることもあるが、休み中にウキウキと厨房を借りて自分で料理する、なんて面倒なことはしない。

 ただ、凪沙の反応はといえば、御幸の想像だにしないもので。言葉なく黙っているのだが、明らかに笑っている。笑っているというか、正しくはニヤついているというべきか。むずむずした顔でにやにやと笑みを浮かべながら、御幸を見つめているのだ。見たことのない反応に、思わず身構える。

「……なんだよ」

「ご、ごめっ──い、いや、あの、すみません……!」

 さっと目を逸らして謝罪を述べながらも、凪沙の端正な顔はニヤついたままだ。どういう感情の表れなのか長年培ってきた観察眼でも読み取れなかったが、どういうトリガーでこの顔になったかは何となく理解した。

「いや、その……推しも似たようなこと言ってたなあ、って」

「……それで?」

「こう……その、ぎゅんっっっ、となりまして……!」

 そんなことだろうとは思った。本当にその『推し』が好きで好きでたまらないのだろう、上品な動きで口元を押さえながら顔を逸らしている少女だが、心なしか肩が震えているような。彼女の言う『ぎゅんっっっ』がどういう感情なのかは分からないが、少なくともマイナスではないようだ。どこか拝むような面持ちだ。

「ありがとう、高校球児……」

「俺、何もしてねえんだけど」

「ン──フッ……ほんとに、そう……!」

 何にどういう感情を抱いているのか分からないが、ついにニヤけ面を隠さなくなった凪沙は実に楽しそうだ。そういう反応は予想外で、本当に変な子だと思う。

「御幸さん」

「な、なに」

 ようやく表情筋を律することに成功したのか、凪沙はキリッとした顔で御幸を見つめる。天城塾講師時の少女を思い出し、思わず背筋が伸びる。すると。

「捕手の、鑑だと思います……!!」

「……」

 褒められた。いやこれは褒めているのだろうか。真剣な顔で太鼓判を押す凪沙に、御幸は何と返したものか言葉を紡ぎあぐねていた。相手が気まずい空気になるよりは良かったのだろうが、これはこれで反応に困る。結局のところ「どーも」と当たり障りのない返事しかできなかった。

「それくらい捧げて初めて、甲子園に手が届くんですね」

「どーだかな。俺一人が捧げる程度じゃ足りねえよ」

「そっか。……そうですよね、きっとそう」

 そうだ、その程度で甲子園に辿りつけるなら、誰だって捧げるだろう。春も夏も飽きも冬も、夏休みも学校行事も余暇でさえかなぐり捨ててなお、あの舞台には届かない。ただ、それらを犠牲にしているつもりはない。自ら望んで野球をしているだけだ。それを痛ましいとは思わず、真っ直ぐに肯定する少女の横顔に、目を瞠った。ちらりと凪沙の目がこちらを向き、不自然ないように逸らした。

「そういえば、なんですけど」

「ん?」

「御幸さん二年生ですけど、今後も試合出るんですか?」

 がくっ、と肩の力が抜けた。あわや机に額を強打するところだったのを、寸で留まった。この口ぶり、まさかとは思うが、彼女は御幸一也が青道高校の正捕手であることさえも知らないというのか。今までだって何度も試合に出たし、そのスコアを彼女に見せてきたはずなのに、一体御幸一也を何だと思っているのか。いや、しかし、青道が強豪校だと知らなかった凪沙である。ありえなくはないだろうが、どれだけ他人に興味がないのだろうかと心底度肝を抜かれた。

 だから──多分これはきっと、ささやかな意趣返し。

「どーかな。監督次第じゃね?」

「なぁるほど……では、スタンドで会えたらよろしくです!」

「(スタンドでは絶対会わねえだろうなあ……)」

 なるほどと、御幸の言うことは何一つ疑いもせずに頷く凪沙。やっぱりこの少女は分かってるようで、変なところを分かっていない。ただそれをこの場で説明するのは、何となく面白くなかった。だから、せいぜい球場に行ってそのふわふわした認識を改めればいい。グラウンドに立つ御幸一也は去年からずっと正捕手の座をキープしているのだと。

 御幸の名を告げるウグイス嬢の声を耳にしてこの綺麗な少女が呆然と佇む様を想像して、自然と口元が緩んだ。

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