御幸一也はプライドをかけた

基本的に体育の授業は男女別である。ただ、天候や競技内容によってはその限りではない。外は柔らかな雨がグラウンドを濡らし、ほんの少し肌寒いが運動にこれほど適した気温もない。三年生になった春先、御幸たちB組とA組は男女一緒に体育館に押し込められ、紙とペンを配られた。

「それでは、持久走とハンドボール投げ以外の項目は全て実施するように。五十メートル走は第二体育館で計測してください。それでは、はじめ!」

 体育教師の一言で、生徒たちは仲のいい友人たちと一緒に各種目の列に並び始めた。今日はAB組合同での体力テスト実施日だった。

 とはいえ、似たようなテストは野球部でも散々やっているので今更という気持ちが大きい。しかし、手を抜く理由もないので倉持と一緒に真面目に検査をしていく。五十メートル走、上体起こし、立ち幅跳び、握力、反復横跳びを終えて、自分の結果を紙に書いていくと、ひょいっと紙を覗き込む小さな頭。

「ううーん、流石。どれも十点か」

「お前に言われてもな」

 この距離感を許すのは、世界でただ一人だけ。自分の恋人である天城凪沙が、見慣れた体操着姿で御幸の手の結果表を覗き込んでいる。腐っても一軍選手ともあれば結果なんて平均値より大幅に上回る。とはいえ倉持も似たり寄ったりの結果なので、面白みもない。五十メートル走は倉持に、ハンドボール投げは御幸に軍配が上がるだろうが。しかし、その面白みのなさはお互い様である。

「さっすが、スポーツおばけ」

「どやってキープしてんだよ、この数値……」

 御幸と倉持もまた凪沙の手の中にある結果表を覗き込む。流石に握力は男子に大きく劣るものの、それ以外は男子の平均値すら上回る数値を叩き出している。惚れ惚れするような結果である。運動部顧問が彼女の入部を求めてスカウトしに来るのも分かるというものだ。そのせいか、傍にいる梅本と夏川はどこかげっそりした顔だ。

「凪沙と一緒にテスト受けたくない」

「ツヨイ、カテナイ」

「いやでも流石にこれは差つかないでしょ」

 そう言いながら凪沙が指差すのは長座体前屈のコーナー。確かにこの項目に限っては男女すらさほど差は出ない。そうしてマネージャー三人が並んで座り、箱のような物を押しながら前屈する。

「もう無理〜〜〜!! 限界〜〜〜!」

 夏川が悲鳴を上げながら箱を押している。一方で、梅本と凪沙は涼しい顔で、額と膝がくっつくほどの柔軟性を発揮している。そうして三人が記録を記載して、その場を退くと次は御幸たちの番。倉持と二人並んで壁を背にして座し、ぐっと前屈して箱を押す。

「倉持くん六十四! おおーすごい! 御幸くんは……五十六! あれ?」

 凪沙のはしゃいだり困ったりした声が聞こえる。どうやら柔軟性も倉持の方が上回ったようだ。二人して顔を上げて彼女の言った通りの数値を紙に記入する。だが、凪沙は不思議そうに床に伸ばされたメジャーを見つめている。

「五十六ぅ? 御幸くん、全然身体曲がってなかったように見えるけど……」

 凪沙の言う通り、御幸はあまり身体が柔らかくない。全く前屈できないとは言わないが、沢村やレスリング経験者の倉持には遠く及ばない。柔軟性は怪我のしにくさに繋がる。クロスプレーの多い捕手としては極めて重要な項目だ。とはいえ、数値としては決して悪くない、平均以上である。ゆっくりと立ち上がりながら、不可思議とばかりに首を捻る凪沙に声をかける。

「ま、手足が長いからじゃね?」

「殺すぞ」

 後ろから殺意の籠った声と蹴りが飛んできた。いてえ、と呻きながら御幸と倉持は次の検査項目へ向かい、凪沙たちと別れて第二体育館へ移動する。次は五十メートル走だ。流石にこれは『チーター様』には敵わない。ただプラシーボ効果ではないが、倉持と走ると気持ち記録が伸びるような気がするで、もしや新記録が出るのではと期待に胸を膨らませた。



***



 やがて体育館でできる全てのテストが完了すると、男女別に分かれて整列させられる。これからシャトルランのテストを行うのだという。雨天により授業スケジュールの兼ね合いから男女一緒にテストを実施するというので、AB組の全員がのろのろと位置につく。他のテストと違って体力を消耗するそれを歓迎する生徒は運動部所属の生徒ぐらい。文化部所属の生徒はうんざりした様子だ。

 そうして全生徒が、教師の合図によってスタートする。等間隔に刻まれる音階が最後まで響くより先に、ハーフコートの端から端まで走る。最初は速足で歩いても間に合うレベルのスピードだが、音階は徐々に狭まっていく。カウントが五十まで進むころには女子のほとんどがリタイアしており、黄色い声で応援が飛び交う。

「(──にしても、流石だな)」

 未だ息の乱れぬ御幸はちらりと女子サイドを見る。誰よりも速く、誰よりも軽やかに、頭一つ抜けて駆け抜けるのは自分の恋人。笑顔の多い彼女が、あれほど真剣な顔で運動に取り組む姿を見る機会は中々ない。去年の体力テストは天候に恵まれてたので男女別だった。彼女はどれほど長く走り続けるのだろう。純粋な興味。この程度ではリタイアしないだろうと、御幸は笑みを零しながら足を動かし続ける。

 六十回、七十回、八十回にもなると、男子だってリタイアする者が続出する。残っている女子に至ってはもう片手で足りるほど。当然のように天城凪沙に、どこか誇らしく思う。流石の彼女も息を乱しており、足取りは重々しいが、それでもまだ余裕の表情。九十回、百回のカウントが刻まれると、ついに女子は凪沙含めて二人だけになった。男子も野球部は全員残っているが、サッカー部やバスケ部ですら脱落しているほど。流石の御幸も肺が悲鳴を上げ始める。だが、ここまでくるとお互い意地である。男子は流石に女子に負けたくないという危機感、女子は一人でも多く男子より長く走り続けたいという謎の使命感が芽生えた。シャトルランは百二十五回以上で十得点がつく。あと二十五回。誰が脱落するかと汗だくの男女は互いに顔を見合わせた。

「いけー!! がんばれー!!」

「男子に負けるなー!!」

「あと二十五回だよ、いけるいける!!」

 女子は完全に凪沙たちの味方だった。黄色い声援は、少なくとも彼女たちをやる気にさせたようで、表情は非常に明るい。一方で男子は冷や汗ものだ。万が一女子に負けるようでは小さなプライドに傷がつく。おまけにこちらは追われる立場。どんな状況であっても追う方よりも追われる方にプレッシャーはかかるもの。百回も走り続けた彼らの足には徐々に限界が近づいており、気を抜くともつれて転んでしまってもおかしくない。ちらりと横を走る倉持と目が合う。青道野球部主将副主将として、女子に体力テストで負けるとは思っていない。しかし、予想外の粘りを見せる彼女たちに「まさか」という不安が過ったのも本当だった。二人は結託したように頷き合い、正面を向く。集中せねば、追い上げを食らってしまう。

 百五回、サッカー部の誰かが倒れる。百七回、女子の誰かが倒れた。凪沙ではない。御幸も足が震える。肺が縮まり、唾液を飲むことすら儘ならない。サッカーやバスケと違い、野球をやっていてこんなに長い時間走り回ることはない。強豪校の野球部なのだからスタミナはあるものの、何分『走り続ける』という運動には慣れていない。この辛さは冬合宿の寒々しい記憶が脳裏を過るというもの。思わずちらりと女子サイドを見る。苦しそうの胸を抑えながら、まっすぐ前を見て走る恋人の横顔が一瞬見える。今にも倒れそうだ。流石に倒れてくれ、と祈ってしまう下らないプライドが──天に届いたのだろうか。

「も〜〜〜無理〜〜〜ッ!!」

 悲鳴を上げながら叫んだかと思うと、凪沙は百十回目という女生徒とは思い難い驚異的な記録を叩き出して体育館の床に崩れ落ち、女子は大歓声を上げた。それを見てバスケ部の誰かも一緒に足を止めた。ついに残りは野球部だけになった。こうなると意地の張り合いは大爆発。絶対に最後まで走り切ると誰もが歯を食いしばって百二十五回きっちり走り切ったのだった。

 音階がトラウマになりそうだった。誰もが息を上げ、床に転がり息を切らせていると、観客たちは拍手をした。結局野球部は全員が百二十五回走り切った。おかげで足が痺れる。肺に息が入らない。汗が滝のように流れ落ちる。倒れこむ床の冷たさが、すぐに消え失せるほど熱を持っている。水、水が欲しい。全員が床から起き上がろうとした時──。

「水、持ってきた」

 天の恵みとばかりにペットボトルが差し出される。それを差し出していたのは、我らが投手の川上。彼もしっかり百二十五回走り切ったはずだ。息は上がっていて顔も赤い。けれどしっかりと自分の足で立って、歩いている。投手はスタミナが重要と言うが、こんな形で見せつけられると思わず感動やら尊敬の念が浮かぶ。普段弱気で何となく頼りなさそうな印象の強い彼が今は、誰よりも頼もしく見える。

「いやあ、流石に勝てないなあ」

 一足先にリタイアした凪沙が梅本と夏川と一緒に床に転がる野球部たちに近づく。二人ともすでに息が整っている。

「天城も流石だよ。一瞬負けるかもってヒヤッとした」

「とか言って川上くんまだまだ余裕そうだもんねえ」

「そりゃあ、体力ぐらいはね」

 肩を竦める川上に、流石とばかりに拍手喝采する凪沙。自分たちよりは少ない回数とはいえ女子の最高得点値よりも遥かに多く走った凪沙と、自分たちと同じだけ走ったのに人を気遣うだけの余裕を見せる川上。夏は長い。長くするのだ。長い長い夏を戦い抜くのにスタミナなどあるに越したことはない。御幸たちは二人を見上げながら、スタミナ強化を心に決めたのだった。

(体力テストのお話/3年春)

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