その日、奥村光舟は寮に教科書を忘れたことに気付いた。幸運なことに、忘れ去られた数Aの教科書が必要なのは五限、つまり昼休みの後。ならば昼に寮に戻ればいい、奥村は一人そう考えて授業を続ける。そうして一人昼食を胃に押し込んだ後、少年は一人寮の自室へ戻る。四月とはいえまだ吹き付ける風は冷たく、ブレザーを持ってこなかったことを悔いながら、奥村は二階に上がって自室のドアノブを回す──。 「(──ん?)」 ガチャガチャと、ドアノブが抵抗するだけ。内側から、鍵がかかっている──つまり、中に人がいるということ。ここで奥村の脳裏に描かれる最悪のパターンは二つ。一つ、真昼間から性欲処理をしている部員がいる。もう一つは、恋人を連れ込んでいる部員がいる──どちらにしても同じか、と少年は一人呻く。昼寝をしている、という線もなくはないが、ならばわざわざ鍵をかける意味もない、と奥村は判断する。つまり、疚しいことがなければ鍵なんかかけないはずだ。 同室は先輩が二人。気性の穏やかそうな二年生の木村、そしてキャプテンである三年の御幸。後者だったらより最悪だ。奥村はもう一度呻く。すると、内側からガチャリと錠を外す音がして、反射的にドア前から飛び退いた。 「あれ、奥村じゃん」 中から出てきたのは、御幸の方だった。こういう時は決まって悪い方の予感が的中するものである。だが、奥村の予想とは異なり、御幸の服装に乱れはない。あまり見慣れぬ、制服姿だ。口をもごもご動かしてるあたり、食事中だったことが分かる。 「わりーな、鍵かけてて。何か用?」 「いえ。教科書を取りに来ただけですので」 ただ単に、食事をしていただけなのだろうか。奥村はそう考え、御幸の脇を通り抜けてスタスタと部屋に入る。あっ、と御幸が息を呑むのと、部屋にいるもう一人の人物と目が合うのは、同時だった。 「……天城、先輩?」 「お、おじゃましてまーす……」 弁当箱と箸を持ったまま、こちらに遠慮がちに手を振るその人を、奥村はよくよく知っていた。三年のマネージャー、確か名前は天城凪沙。青道はマネージャーも多く、選手と違ってさほど交流もないため名前を覚えるのが大変だった。だが、凪沙に限って言えばほぼ毎日顔を合わせているどころか、毎日話しかけてくるので、流石の奥村も記憶していた。何故なら奥村もまた、どんぶり三杯の洗礼に苦しめられているうちの一人だったからだ。何故かいつも夜遅くまで残っている彼女は、それをみかねて白飯にふりかけやおかかを混ぜておにぎりにしてくれた。なんとか吐き気を堪えて食を進める新入生たちの中に当然奥村も含まれていたため、よく世話になっていた。優しいマネージャーがいてよかったなあ、なんて瀬戸あたりがへらへらしていたが、奥村にとってはおにぎりにされようがされまいが苦しいことに変わりはしない。まあ、味がつくだけマシと判断し、ありがたく頂戴しているのだが。 そんな彼女が、何故奥村たちの部屋で弁当を広げているのか。御幸と二人でいたことから、その理由は想像に難くない。が。 「……いいんですか。女性を寮に連れ込んで」 「よくはねーな」 弁明する気はないのか、御幸は開き直った様子だ。そんな御幸に凪沙も呆れたように嘆息する。 「少しは悪びれようよ、御幸くん……」 「別に疚しいことしてるわけじゃねぇんだしさ」 「そりゃ仕事なわけだから、別に疚しくはないけども」 「……仕事?」 奥村がそう問い返せば、凪沙はにこりと微笑んでTVを指差す。古ぼけたTVには、見知らぬユニフォームをまとった高校球児たちが映っていて。 「もうすぐ春大だからね」 「ビデオチェックなら飯食いながらでもできるしな」 「ほんとは『ながら食べ』ってあんま良くないんだけどねー」 「ちゃんと味わって食ってるって」 「私は消化の話をしてるんだよ!」 「知ってる知ってる」 今日もごちそうさん、と、人の神経を逆撫でするへらへら顔で言う御幸に、凪沙は慣れたようにいなして弁当を片付けるだけだった。そんなやり取りだけで、彼らの仲睦まじさが窺える。昼休みという短い余暇にさえ、野球部のためにつぎ込む凪沙と──認めたくないが──御幸は、部を率いる三年生としてさぞ模範的に映るのだろう。だが。 「……っ」 それを素直に認められないのは、同じポジション争いをする先輩だからか。自分は日々の練習、食事をこなすので精いっぱい。だというのに、たかだか二年先に生まれただけで、御幸一也は日々の練習も、食事も、試合も、私生活に至るまで隙が無い。いずれこの男から正捕手の座を奪うというのに、その背があまりにも遠いのだと、ここまで追いつけるものならそうしてみろとばかりの余裕綽々な笑みが──奥村には、なおのこと。 「──奥村くん、大丈夫?」 「え、」 「顔色悪いねえ。やっぱ食事、辛い?」 目を瞬いた先に、天城凪沙がいる。腕を伸ばせば何とか届く距離とはいえ、先ほどまでTVの前にいたので驚き奥村は後ずさった。だが、凪沙は奥村の動揺をさほど気にした様子もなく考え込んでいる。 「一年の頃は俺らも苦労したからな」 「にしても、今年の一年は例年より居残り多いんだよね」 「つってもフォローしようがねえだろ」 「いや、補食の時間ずらせないかなと思って」 「ずらすってどうすんの」 「夕方の分の一部を朝と昼の間に持ってく、とか」 「授業の合間十分じゃきつくねえか?」 「だよねー、準備も手間かかるし……」 「まあでも、可能なら朝と昼の間にも欲しいよな。早弁してる奴いるっちゃいるし」 「やっぱそうだよね。監督たちに要相談ってことで」 「頼むわ」 奥村を他所に、つらつらと話を進める二人の間にはやはり『らしい』雰囲気は微塵もない。ここが個室で御幸の自室でなく、例えば寮の食堂であれば、奥村だって気付かなかったかもしれないほどに、二人は自然体だ。だが実際は、二人きりの密室で──おまけに彼女の手作りと思われる──弁当を食べているのだから、『そういう仲』なのは誰が見ても明らか。そういえばこのマネージャーの送迎は必ず御幸がやっていた気がする。訝しむ一年が何人がいたが、なるほどあれはこういう意味だったのかと奥村はすとんと納得する。 「……口止め、しようとはしないんですか」 「いやー別に。隠してるわけじゃねえしな」 「何なら、今の一年生以外は監督含めて全員知ってるしねえ」 「(全員……)」 つまり、二人の関係は半ば部公認ということか。部内恋愛禁止などという昭和じみたストイックさをこの部に求めるつもりはないが、憎らしいとも鬱陶しいとも異なる複雑な感情が芽生える。 「安心しろって。部に迷惑かけたりはしねえよ」 「……当たり前です。それは、必要最低限の配慮ですよ」 「はっはっは、必要最低限か! そりゃそうだな!」 何が面白いのか御幸はけらけら笑い飛ばしている。この様子なら彼女を部屋に連れ込んでどうこう、という場面に出くわすことはなさそうだが、それでも気を遣うなという方が無理な話である。この手慣れた感じから、恐らくここで昼食を取るのも一度や二度ではないのだろう。今後は絶対に忘れ物などしまいと奥村は誓い、自分の机から数Aの教科書を引っ張り出す。 「では、失礼します」 「はーい。午後の授業頑張ってねー」 にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべながら見送る凪沙。同じ笑顔でも随分印象が違う、御幸とは正反対のタイプだと思った。案外、性格は正反対の者同士の方が上手くいくのだろうか、なんて思いながら踵を返す奥村の後ろを追うように、御幸も外に出ようとしている。 「ちょっとトイレ」 「分かった。ビデオ止めとくねー」 凪沙に背中を向けて捕手二人が靴を履き替えて部屋を出る。ぱたんとドアが閉まり、どっと疲れたような気分で背中を丸める奥村。すると、がっと肩を掴まれたかと思うと、そのまま肩に腕を回されて引き寄せられた。言わずもがな、御幸その人にである。 「……何ですか」 「いやー、ああは言ったけど、一応、な」 横を向けば、ニタニタと笑う扇の要の顔。この男の笑顔は人を苛立たせる成分でも含んでいるのか、恋人の邪気のない笑顔を見習えと内心悪態を付くも、二年も先輩相手にストレートに言うわけにもいかないので黙りこくる。 「火曜と金曜の昼だけだから」 「……?」 「俺らが、ここに居んの」 丁寧に曜日まで決めているのか、と変なところで律義なものだと奥村は思う。だが、素直に感心できなかったのは、その一言一言に有無を言わさない圧を感じたからだ──なるほど、そういうことかと、察した奥村は重々しい溜息をついた。 「……別に、邪魔をする気はないですから」 「助かる。二人の時間って中々取れねえからさあ」 「そうですか」 「お前も彼女できたらいつでも言えよ〜? 協力すっからさ」 「いりませんし、できたとしても言いません」 素気無く答える奥村に、御幸はまた腹立たしい笑みを浮かべながら奥村を離した。言いたいことは言い切ったらしい。ああ全く、なんて日だ。主将とマネージャーの恋愛事情なんか知りたくなかった。イチャイチャしていなかっただけマシかと、自分の妙な悪運を呪いながら、奥村は苦々しげに表情のまま奥村は振り返ることなく、自分の教室へと戻る。 *** 「御幸くんさあ」 「んー?」 「火曜と金曜のこと、奥村くんに言ってないのわざとでしょ」 「……バレた?」 昼食とビデオチェックを終えた二人は、束の間の、ほんのささやかな時間の中で、寂しさを埋めるように互いに触れ合うのが日常と化していた。足を崩して床に座る彼女の膝に頭を乗せたまま、御幸はにやにやと凪沙の顔を見上げる。よく日に焼けた髪を撫でながら、当然とばかりに凪沙は笑んだ。 「御幸くんにしては堂々としてるというか、全然狼狽えてなかったからさ」 「そりゃお前、去年散々弄られたんだし、慣れもするだろ」 「『慣れ』の顔じゃなかったね、あれは」 「ほーんと、人のことよく見てんなあ」 いけしゃあしゃあとそんなことを言う御幸に、凪沙は心底呆れた。先ほど、密室だと思っていた部屋が、突如ガチャガチャとドアノブが回る音がしたのだから凪沙は跳び上がらんばかりに驚いた。付き合い自体はほぼ公認とはいえ、年頃の女子が寮に出入りしているのは流石に褒められたものではない。だが、御幸は一切動じずに弁当に詰め込んだアジフライを摘まみながら堂々と部屋の鍵を開けるのだから、おかしいとは思っていたのだ。 「じゃー、俺がなんであんなことしたかも分かってんの?」 「……それを私に言わせようとするあたり、本当に性格が悪いと思います」 「今更だろ」 それもそうですね、と凪沙は内心独り言つ。それでも、機嫌のよさそうな御幸の顔を見ると、心が浮足立ってしまう自分の負けだと思う。重力に従って少しばかりふわりと浮く前髪を撫ぜ、きれいな額を見つめる。 「……一年生相手に、牽制することないと思うのですが」 「年上ってだけで五割増しによく見えるもんだって」 「分からないでもないけど、五割は増し過ぎでは?」 くすくすとたおやかに微笑む凪沙。そうはいっても、おにぎりのサポートがある以上、新入生がマネージャーの中で一番接触が高いのは凪沙だ。ほぼ部公認の付き合いとはいえ、今更一年に『俺たち付き合ってるんで』と言う気にもなれない御幸は、自分にしては随分手ぬるい牽制球のつもりだった──それに。 「奥村の奴、どーも俺が気に食わないみたいだからな」 「同ポジションだしね。向上心あるよねえ」 「だったら尚更だろ」 「……そういうタイプには見えないけどなあ、あの子」 「さあ、どうだかな」 当然、御幸とて奥村に後れを取るなんて微塵にも思っていない。正捕手というポジションも、彼女の膝を独占する権利も、だ。故にこそ、下らぬ諍いは芽が出る前に摘み取ってしまうのが吉と判断した。嫉妬や独占欲ですらないその想いに、凪沙はただ真っ向から受け止めるだけ。 「それとも、重い?」 「まさかあ。大事にしてもらえて、嬉しいよ」 やり方はともかく、これも御幸が凪沙を想ってなければできないこと。付き合いだして半年以上が経過したが、それでも一般的な恋人として過ごした時間はあまりに短い。故にこそ、こうして愛情の片鱗に触れるだけで、胸がいっぱいになる。だからこそ、凪沙もまた熱の籠った愛おしげな視線を返すのだ。しばし視線が絡み合い、御幸の表情から笑みが消える。 「……歯止め利かなくなるんで、勘弁してくんない?」 「残念、五限は高島先生の英語でしょ」 ぴしゃりとそう告げれば、御幸はウッと言葉を詰まらせる。若き青少年たちの束の間の逢瀬の最後の砦と化した教師たちの授業に、遅刻やサボりは許されないわけで。 「……お前さあ、だんだん人のこと言えなくなってきてねえか?」 「じゃ、御幸くんの影響だね」 敢えて何とも言わずにそう零せば、凪沙からは強かな言葉が発せられる。そうして二人して、視線を交わしてまた笑いを零す。余人にとっては取るに足らないそんなやり取りが、また一つ彼らの心に雪のように降り積もる。除雪も儘ならず、日を追うごとにひたすら広がる雪景色。御幸はそれを持て余した。どうすべきかと、苦心した。しかし、今は違う。同じ世界を眺める相手が、傍にいる。たったそれだけで、重く圧し掛かっていたはずの雪は煌びやかな銀世界に見えるのだから、相変わらず単純なものだと御幸は一人くつりと笑んだのだった。 (3年生になってすぐのお話/3年春) |