御幸一也は助けに来ない

「というわけでなんか合コンみたいになってるけど、特に気にせずかんぱーい」

「かんぱーい!」

『『『か、かんぱーい……』』』

 そう言いながらヤケクソ気味に乾杯の音頭を取る凪沙。当の本人以外はドストレートな嫌味に気付くことなくグラスを掲げているのだから、なんと幸せな男かと誰もが思ったことだろう。これぐらい図太くなれば人生もさぞ楽しいに違いない、と直箸でからあげをつまむ他中を見て、当人以外の全員が重々しいため息をついた。

 そんなわけで、真田や友人たちの強い反対を押し切って凪沙は居酒屋のURLと共に『めんどくさい人に絡まれてます助けて!』というSOSを発信したのだった。それから店に入り、凪沙たちと同じグループだと勝手に店員に言いつける他中のせいで凪沙たち女子会と真田たち男子会は広めの座敷に通され、半ば合コンのような状態に。それでも凪沙を守らんと女子たちは女子たちで固まり、男子たちは他中が面倒ごとを起こさないように角の席に隔離したのだった。本当に物分かりのいい人たちだと凪沙は感動する。どうしてこの気遣いの一欠けらが彼に伝播しないのか、と凪沙も取り分けられたからあげを口にする。美味しい。どんな状況であっても、からあげに罪はないのである。

「うわー、凪沙の彼氏、楽しみ〜!!」

「ねえねえ、どんな人なの?」

「写真見る感じだとイケメンだったよね?」

 友人たちが他中たちは見えないかのように鼻息荒く詰め寄ってくる。チューハイ一杯で出来上がりすぎだろうと思いながら、ちらりとスマホを見る。既読すらついていない。薄情な、と内心舌打ちしながらそれをおくびに出さずに曖昧に微笑む。

「んー、背が高くて、かっこよくて、スポーツできる人」

「雑ぅ!」

「あー、怒るとちょっと怖いかな」

「怖い?」

「へー、でも凪沙にだけは優しい、と」

「ヒューゥ、惚気てくれちゃってモ〜!」

「いやいやそんなそんな」

 懐かしいねえ、なんて言いながら一人ウーロン茶を呷る。友人たちはまだ見ぬ凪沙の恋人を想像して浮足立つ。

「いつお迎え来るの?」

「んー、どうだろ。一時間後ぐらいかなあ」

「そういや忙しいんだっけ、彼ピ」

「そうだね。遠距離だし、月に一回会えるかどうかって感じ」

「毎日会ってた高校の同級生と遠恋だもんねー、寂しくない?」

「寂しいけど、私もバイトやサークルで忙しいし、トントンかな」

 そりゃあプロ野球選手の忙しさと比較すべきではないとは思っているが、そうはいっても凪沙だって暇ではない。比較的真面目な学生身分ではあるし、一人暮らしの上に週三回ものスポーツインストラクターのアルバイトに週一回のサークル活動。基本的に一日オフ、という日は凪沙のスケジュール帳には存在しない。それに、何だかんだ高校時代だって毎日会えていたとはいえ毎日ゆっくりと過ごせていたわけではない。短い時間をたくさん過ごした高校時代、長い時間を月に一度過ごす大学時代、トータルで言えばおんなじぐらいかもしれないな、と凪沙は思った。

 その後は、最初のトラブルが嘘のように女子は女子だけで大いに盛り上がった。運ばれてくる料理もそこそこに、友人たちの胃には大量の酒が流し込まれていく。バイトやサークル、授業の愚痴から恋愛、見たい映画、高校時代の話、あっちこっちに話が飛び交い、凪沙たちはひたすらげらげら大笑いしながら本来の目的ではないにしろ、楽しい時間を過ごした。そのうち、友人の一人が完全に出来上がってしまい、凪沙はその世話役を買って出た。二人で席を外し、ふらつく友人を支えてトイレまで運ぶ凪沙。

「待ってて〜……ちょっと吐いてスッキリしてくる〜……」

「その吐くまで飲む癖やめなって……」

「だあって、みんなで飲むのたぁのしくて」

「はいはい」

「凪沙もありがとね〜……面倒おかけします〜」

「いえいえ、元マネージャーですから」

 そう言ってトイレに消えて数秒、元気に嘔吐する声が微かに聞こえてくる。呆れながら、凪沙はトイレの傍でスマホを引っ張り出す。返事が来ている。幸運にも、あと十分ほどで迎えに来てくれるらしい。助かった。会計の準備だけしておこう。そう思いながら返事を返しながらしばらく待っていると、トイレからスッキリとした面持ちの友人が出てきた。

「はースッキリ! もう一回飲めるドン!」

「いいけど、私はもう介抱しないからね」

「え、なに。お迎え来たの!?」

「もうすぐ来るってさ。だから、あんま飲みすぎないように」

「ちえっ」

 ふてくされたような友人の腕を引いて座席に戻ると、先ほどとは異なる光景が広がっている。男女交えて席を移動していた。真田が──あの、真田に仄かな思いを寄せるという友人と何やら盛り上がっている様子。邪魔はできない。それは分かっているのだが、にやにや笑いながらこっちに手招きする諸悪の根源を前にすると『真田くんカムバック』と言いたくなるというもの。

「天城、ほらこっちこっち」

 ビールジョッキを片手に、ご指名である。参ったなと腕を引く友人を見ると、ゴキブリでも見るような目付きになっていた。

「凪沙」

「あー、いいよいいよ。自分で何とかしないと。どうせすぐお迎え来るし」

「だけど──」

「それより、真田くんがこっち来ないようにしてて。せっかくいい雰囲気だし」

 ぐっと言葉に詰まったような友人は、ちらりと真田の方を見やる。彼女にとってはどちらも非常事態である。だが、凪沙は友人の手を放し、手招く他中の隣の席を軽く無視し、正面に座る。

「何でそっち行くんだよ」

「帰る支度したくて」

「なに、もー帰んの」

「うん。ダーリンがお迎えに来てくれるらしいので」

 彼の顔をなるべく直視しないように、テニスバッグから財布を引っ張り出す。一人三千円もあれば足りるか。学生の胃と財布に優しい居酒屋に感謝である。だが、つれない凪沙に他中は不満げだ。

「まだ解散には早くね?」

「ごめんねえ、愛が重い人でさ」

「えー、ノリ悪いなあ。いいじゃん、ちょっとぐらいさ」

「いーの。みんな分かってくれてるし、私も久々に会いたいから」

 付き合い始めてもうすぐ三年になるが、気持ちに一切の陰りはない。寧ろ会えなくなって思いは募る一方だ。お熱いね、なんてからかいも全く気にならないほどに、いつだって会いたい。一緒に居たい。だというのに──。

「天城さあ、そういうのいいって」

 下卑た笑い、どこか見下したような物言い。意味は理解できるが、敢えて分からないふりをしてウーロン茶を一気に呷る。

「……そういうの、とは?」

「ダーリンとか、お迎えとか、なんでそんな演技すんだよ」

「演技じゃないよ」

「いねーんだろ、付き合ってるやつなんか」

「いるよ、高校の頃から付き合ってる人」

「またまた」

「なんでそんなに疑うの?」

「だってお前、女捨ててんじゃん!」

 げらげらと酒に焼けた声が言う、からかいがちの言葉。冗談のつもりなんだろうな、と凪沙は思う。冗談のつもりで、二十年生きてきたんだろうな、とも。凪沙の無言を良いように受け取ったのか、他中はその軽い口をペラペラと喋り倒す。

「ゴリラばっかのソフトサークルいるし、SNSは食いもんの写真ばっかで色気もねえし、飲み会にはジャージで来るし、おまけに酒一滴も飲まないぐらいノリ悪ぃし、どんな物好きがお前と付き合ってんだよ!」

「──ちょっとあんたねえッ!! さっきから黙って聞いてりゃッ!!」

 がんっ、と安っぽいテーブルを殴って立ち上がったのは、先ほどまでげーげー吐いていた友人。怒りをむき出しにする友人に、真田たちも顔色を変えてこっちを見ている。しまった、そっちの爆弾を忘れていた、とばかりの表情だ。それぐらい楽しんでもらえたら、この暴言も浴びせられた甲斐もあったと思いながら、友人を片手で制す。

「いいよ、言わせておけば」

「凪沙ッ!! あんたが甘やかすからつけあがんのよ!!」

「別に甘やかしてるんじゃないよ、わざわざ正す気がないだけ」

「は──」

 そう言いながら、凪沙は伝票の下にお札を数枚差し込んでから立ち上がる。ぽかんとする彼の背に、ゆらりと大きな影を作る待ち人を見つけたからだ。怒りに滲むその顔に、変わらないなとくすりと笑みが込み上げた。

「ダーリンと違って、私は優しくないからね」

 はっ、と誰もが凪沙の視線の先を振り返る。真田の口が『まさか』と形作るのが視界の端に見えた。百八十を超える身長に、何年も野球で鍛え抜かれた肉体は見るだけで威圧感を与える。おまけにその顔は数年ぶりに見るほど怒りに滲んでいて、近寄る者全てを遠巻きにしそうなほどの雰囲気である。


「誰の、女が、『女捨ててる』、やと……ッ!?」


 ──まあ、そんなドラマのような展開は起こらないのだが。

 他中の肩を握り潰さんばかりにぎゅうっと掴み上げているのは、懐かしきチームメイト。なんだかんだ野球部員とは理由にかこつけて集まっているので、懐かしいというわけではないけれど、人のためにこれだけ怒りを露わにしてくれる姿は懐古の記憶が蘇る。三年前、同じ形相で自分の恋人の胸ぐらを掴んでいた前園健太は、変わらず情に厚い男であった。

「ようそんなこと言えたな、お前……!!」

「ち、ちがっ、そんな、冗談のつもりで──」

「冗談やと!? お前らがどんな仲か知らんが、冗談でも言ってエエことと悪いことがあるやろうがッ!! そんなことも分からんのか、アア!?」

「う、うう……っ」

 怒鳴りながら凄む前園に他中は完全に怯えきっていて、今にも泣き出しそうだ。座敷席でよかった。店中どころか上の階下の階にも聞こえてそうな声量で、友人たちは完全にぽかんとしている。ただ一人真田だけが笑いを堪えたような顔で俯いていたが。二、三言怒鳴り散らしてから、前園は思いっきり他中の胸ぐらをつかみ上げた。

「ええか、二度とこいつに近寄んなッ!!」

「す、すみませ……!」

 スーツを着た姿は『本職』とからかわれただけあって、前園の迫力は凄まじく、他中はこくこくと頷いてから、半泣きでお金だけ置いて逃げるように座敷から飛び出していった。ちょっとお灸を据えて欲しいと言った甲斐があったというものだ。他中が飛び出して、しいんと静まり返る座敷席で、前園が凪沙を見やる。

「……こ、これでええんか?」

「うん、最高。完璧だよ、前園くん」

 ちょっと恥ずかしそうに振り返る前園に、凪沙はにこにこと笑いながら拍手した。素晴らしい役者っぷりだ。御幸だったらこうはいかない。やはり持つべき者は信頼できる友人である。一方で、真田以外の大学の友人たちは、呆然と凪沙と前園を交互に見ている。

「というわけで、私はお迎えが来たので帰りまーす」

「え、う、うん……」

「お金は此処に置いとくから、お釣りは来週ちょうだいね」

「わ、分かった──じゃなくて、凪沙っ」

「なに?」

「そ、その人、ほんとに彼氏なの?」

 どこか不安げに凪沙と前園を交互に見る友人。確かに、友人たちには凪沙の恋人と称して御幸のバンドマンのコスプレ写真を見せている。どう見ても前園はバンドマンには見えまい。これが女子会ならネタ晴らしも辞さないところだが、今は真田の友人たちもいる。もともと他中は彼らの友人──もとい顔見知りだ。真実を明らかにして、そんな情報がまた他中の耳に入らないとも限らない。だから凪沙は悪戯っぽくはにかんだ。

「言ったでしょ。背が高くて、かっこよくて、スポーツできて、怒るとちょっと怖い人だって」

 むずむずとした顔の真田以外は、どこか納得したようなしていないような。困惑した表情の面々に、前園もどうしたものかと所在なさげに立ち尽くしている。これ以上いるとぼろが出かねない、と凪沙はテニスバッグを背負って前園の背中をぐいぐいと押す。

「では、私らはこれにて退散! また来週〜!」

 そう言いながら凪沙は前園を連れて居酒屋を後にする。冷房の効いた店内から一転、外に一歩踏み出しただけで重たげな熱気が身体にまとわりつく。暑い。日が落ちてなおこの熱気だ、夏だなと凪沙は額を拭う。

「やー、助かったよ。来てくれてありがとう! もう大丈夫!」

「ええって別に。家この辺なんやろ、ついでに送ってくわ」

「いやいや、流石に悪いよ」

「あのアホがまだうろついとるかもしれんやろ、念のためや」

「そ、それは確かに……」

 あのビビりようなら大丈夫な気もするが、いかんせん話の聞かない相手である。何をしてくるか全く予想ができない。申し訳ないが、今日は前園の言葉に甘えさせてもらおう。メールボックスと青道のグループを開いて、『前園くん現着!解決しました!』と一言メッセージを送ってスマホを仕舞い、二人で人通りの多い道を歩き出す。

「いやー、ほんとありがとね! あの人ほんとめんどくさくてさあ!」

「それはええねん。たまたま近くで飲んどったし」

「おおいこらこら、前園くんまだ誕生日じゃないでしょ」

「俺は飲んどらん! 倉持たちとおったんや」

「あ、そっか、倉持くんは五月だっけ。みんなが成人したらちゃんと飲み会やりたいねえ」

「ゆうてもノリが遅いからなあ──じゃないわ!!」

「おお、どうしたの、ノリツッコミ?」

 きょとんとする凪沙に、前園は脱力する。それからややあって重々しく顔を上げる。

「……御幸は」

「試合だよ。あ、勝ってるかな」

 そう言いながら再度スマホに手を伸ばすが、やめる。歩きスマホは怪我やトラブルの元である。曲がりなりにもスポーツで賃金を稼いでる身である、大事にせねば。

「ようあるんか、こんな面倒事」

「いやいや、流石にあれはレアケースだよ」

「御幸は知っとるんか?」

「話通じない人がいるー、とは言ったことあるよ。でも、こんな風に飲み会にまでついてこられたのは初めてで、相談も何もない、って感じ」

「……そうか。まあ、御幸も暇やないしな」

「そうだね。だから、今日前園くんが来てくれてほんと助かった。ありがとう」

 心の底から感謝の気持ちを伝える。あってよかった人望、なんておどけて笑うも、前園の表情は暗い。思いつめたような表情に、相変わらず繊細でデリケートな人だな、と思った。

「……なあ、ほんとはお前、」

「御幸くんが来るなんて、私、思ってないよ」

 努めて明るく告げたつもりだった。だが、それでも前園の表情は晴れない。前園が気にすることなんて、一つとしてないというのに。

「まあ、言い方悪いけど、こういう時に御幸くんに期待はしない。できないよ。今日試合やってるって分かってるんだから、なおさら」

「せやったら、バレへんようにすべきなんちゃうか!?」

 我慢ならない、とばかりに前園は声を荒げる。すれ違ったほろ酔いのサラリーマンがぎょっとした顔で前園を見て、そそくさと足早に去っていく。ああ、全く。いい人だな、としみじみ思う。答えない凪沙に、前園は言いづらそうに言葉を選ぶ。

「お前、今日連絡寄越したん、俺らの代のグループやろ」

「そうだね」

「御幸も入ってんの知ってて送ってきたんか」

「勿論」

「……どうせ来れへんの分かっとるんなら、御幸には伏せとくべきやろ」

 前園の気遣いも、まあ分からないでもない。そうだね、と凪沙は静かに同意した。凪沙がSOSを飛ばしたのは、所謂御幸世代と呼ばれる年代のグループ。当然、その名を冠する御幸だってグループの一員である。恋人のトラブルなのだから恋人が解決すべきだと、誰もが思ったことだろう。それこそドラマのように、恋人たるヒロインのピンチに颯爽と駆けつけるヒーローでありたいと、思う心理は凪沙にも分かる。

 だが、それができる環境に御幸はいないこともまた、誰もが知っていた。だから前園は思うのだ。どうせ助けには来ないのだから、そもそもトラブルに巻き込まれたことさえも伏せておくのが──優しさなのではないか、と。

「……でもさ、前園くんの恋人がさ、自分の知らないとこでピンチになって、自分の知らないとこで勝手に解決してて、それを知らなくてあーよかった、なんて思う?」

「そんなん──思うわけ、ない、やろ」

「私も同意見。だから御幸くんにとって残酷なことでも、私はちゃんと自分の身に何が起こったかは伝えるべきだと思う」

 それが、凪沙の誠意だ。決して彼には嘘を吐かない。可能な限り隠し事もしない。御幸はきっと、そんな優しい嘘は望まない。例え試合が終わって凪沙からの連絡に顔を真っ青にしたとしても、己の無力さに失望したとしても、隠し通してしまうよりは、いい。何事もありませんでした、挙句の果てにはあなたではない男の人の助けを借りて事無きを得ました、なんて事実を隠してしまうよりは──きっと。

「ありがとね、前園くん」

「……難儀やなぁ、お前ら」

「そうだね。でも、そういうの込みで、私たちやっていくって決めたから」

 御幸を思えば、そもそも凪沙は進学などしなくてもよかったのだ。すでに稼ぎのある身なのだ、深窓の姫君のように夫の帰りを待つ貞淑な妻を演じればいい。家事やら御幸のサポートやらに精を出し、御幸の為だけに生きていれば、こんなトラブルを呼び込まずに済んだ。

 けれど、二人はそうしないと決めた。凪沙は御幸が捨てた『ただの』人生を生きると決めた。姉のようにはなるまいと、自分の世界を広げようと学業に、サークルに、バイトに専念すると決めた。そして御幸は、それを良しとした。二人で考えをぶつけ、二人で決めたことだ。

「あ、私の家、ここね」

 なんて話しているうちに、凪沙のマンションの下まで辿り付いた。エントランスホールを指差すと、前園は先ほどまでの暗い顔を忘れてぽかんとした。

「……マジか。高いんちゃう、こんなとこ」

「ちょっとね。でも、その分セキュリティはばっちし」

「そうか。……とりあえず、家入ったらすぐ戸締りせえよ」

「分かってるよ。ほんと、今日はありがとね。倉持くんたちによろしく!」

「おお」

 もう一度お礼を言って、前園を見送る。茶の一杯ぐらい出してやりたいところだったが、それこそ御幸が知ったらなんと言うか、と考えて踏みとどまる。流石に一人暮らしの家に信用できる友人とはいえ男を呼ぶほど、凪沙も女を捨てていない。他中曰く、捨てているらしいが。

「……捨ててこれなんだもんなあ」

 穴が開いてりゃなんでもいいのか、と凪沙は品の欠片もないようなことをぶつくさ言いながら、マンションに入っていくのだった。



***



 その夜、がちゃんと錠の落ちる音で凪沙は目を覚ます。スマホに手を伸ばして時間を確認する。十二時をとうに過ぎている。そして、山積みになった未読のメッセージの山。出迎えようか、寝ぼけた頭で判断に迷っている間に、それはベッドで微睡んでいる凪沙に覆いかぶさってくる。優しく頬を撫でる手は、どこまでも温かい。額に寄せられたのは、唇の感触だろうか。暗くて見えない。見えないけれど、分かる。

「……なんでチェーンかけてねえんだよ」

「んー……なんか、来る気が、してたから」

「不用心」

「御幸くん、だけだよ」

 ばかじゃねえの、そんなことを零しながら御幸の温かな頬が触れる。ちょっとひげがチクチクする。でも、どうでもよかった。本当に来てくれた。それだけで、何もかも。

「明日は、東京ドームに十八時、だっけ」

「そ、十三時には行くつもり。天城は?」

「夕方からバイト」

「じゃ、朝はゆっくりできんね」

「こらあ」

 もぞもぞとパジャマのボタンに手をかける御幸に、笑いながらデコピンする。だがその程度、御幸の抑止力にはなりえないらしい。未だ抗いがたい眠気が燻っているが、御幸からの口付けでそんなものは静まり返ってしまった。現金な身体だ、と呆れながらねじ込まれる舌に、凪沙もまた舌を絡める。飲み込まれるような、深いキスだった。鼻から抜ける息に、ぴくりと肩が過敏に反応してしまう。やがて静かに唇が離れていく。暗闇に慣れた目が、寂しげな笑みを浮かべる御幸の輪郭を捉える。

「……ごめんな」

「御幸くんが謝ることじゃないよ」

「謝るぐらいさせろって、言ったろ」

「そうだったね」

 首裏に腕を回してぎゅっと頭を抱き寄せる。試合後だし、シャワーでも浴びてきたのだろうか。知らない匂いがする。でも、この髪の感触は同じ。手のひらで堪能していると、なあ、と御幸の低い声が訊ねる。

「なんでわざわざ、俺にメールしてから俺ら全員にメッセージ送ってきたの」

 その問いに、思わず笑みが込み上げる。こういうところにはちゃんと気付くんだな、と。くすくすと忍び笑いをする凪沙に、御幸の形のいい眉が顰められた。

 前園たち含むグループにSOSを送る、ほんの数分前。凪沙は真田の前で新規メール作成画面を立ち上げた。そして、全く同じ文章をいの一番に御幸に送ったのだ。居酒屋のURLと、厄介な男に絡まれている、と。助けに来ないと分かっていながら、凪沙はまず御幸にだけSOSを発信した。まあ、ものの数分でグループにメッセージを飛ばしたのだが。わざわざそんな面倒くさいことをする理由など、一つだけ。

「私、自分が一番に助けを求めるべき相手は弁えてるつもりですよ?」

「……ほーんと、お前のそういう、律儀なとこ、」

「きらい?」

「すき」

 間髪入れず答える御幸に、凪沙はふはっと零れるような笑みを浮かべた。その正直さに免じて、胸元を這う手を咎めることはしなかった。結局流されに流されてしまったとしても、それを咎める不届き者なんか、この世界のどこにも存在しないのだから──。





 ただ、何事もうまくいくとは限らなくて。

「天城さん、今度は筋モンと付き合ってるって噂が流れてんだけど」

「……パパ活とどっちがマシだと思う?」

 前園の存在はあまりに強烈なインパクトを残したらしく、高級時計をいくつも所持する凪沙と前園のカップルをそのように過大解釈した根も葉もない──ことはないけれど──噂が流れていると、真田から聞かされる羽目になったのだった。

(御幸が助けに来なくても大丈夫なお話/プロ2年目夏)

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