御幸一也が家に来た

 がちゃん、と錠の落ちる音を、一人暮らしというこの環境下で聞くのはどうにも新鮮な気持ちになる。けれど一向に扉が開く気配はなく、鍋の火を止めて玄関に向かう。ぱたぱたとスリッパを鳴らしてドアを見れば、鍵は開いている。けれど未だに扉は開かれない。

「入っていいよー」

 鉄の扉越しだろうが、流石にこの近さなら声は届くだろう。けれど未だに扉は開かない。首を傾げながら扉に近付き、ドアスコープのカバーをスライドし、外の様子を見る。けれど、そこには想像通りの人が佇んでおり、スコープ越しにこちらを見ている。誰か見ていたらどうするつもりだ、と思いながら凪沙はドアを押し開けた。

「何のために鍵渡したと思ってるの!」

「いやー、お迎えして欲しくて?」

「もー!」

 直接会うのは、卒業式から数えて三か月少々経過した。たったそれだけなのに、身体が一回り大きくなったような気がする。玄関に御幸一也の巨体がいるだけで、狭い玄関がより狭く感じるほどだ。扉がぱたんと閉まり、御幸はこちらを見たまま鍵をかけると、荷物も靴もそのままに凪沙を抱き寄せた。雨の湿った匂いと、懐かしいとさえ感じる御幸の匂いに包まれて、堪えきれずに凪沙もぎゅっと抱き返す。

「会いたかった」

「うん、私も」

「ごめんな、遅くなって」

「全然。寧ろ、もう半年は会えないかと思ってた」

「シーズン終わるまで会えないとか、どんな拷問だよ……」

 強く強く抱きしめられる。苦しいほどの腕の力でさえ、今は愛おしい。抱き潰されたって構わないほどだ。会えないことが拷問だと思ってもらえる──それだけのストレートな愛情に、思わず笑みが零れる。けど、いつまでも玄関いるのも勿体ない。

「上がって。ゆっくりしてて」

「……もーちょい」

「別に玄関じゃなくてもさ」

「逆に燃えね?」

 がぶがぶと、首筋を甘噛みする御幸。気持ちは嬉しいが、抵抗の言葉よりも先に腹部がぐうと唸る。一瞬の沈黙の後、首元で御幸が吹き出した。

「食欲には勝てねーな」

「不可抗力だよ……今の今までカレーかき混ぜてたんだし……」

「マジでカレー作ってくれたんだ?」

「リクエストでしたので」

 素直に食欲への敗北を認めた御幸は、ようやく凪沙を解放する。玄関の向こうのキッチンからは、微かにカレーの匂いと米の炊ける匂いが漂ってきて、ますます空腹を刺激される。ぐうぐう唸るお腹を抱えながら、靴を脱ぐ御幸をぼんやり見つめる。御幸がいる。御幸一也が自宅にいる。鍵を渡したのは自分だし、今日やってくることも知っていたけれど、どうにも不思議な光景に見えてしまう。

『今週の土日、そっち行ってもいい?』

 つい先日、そんなメールがやってきて、凪沙は文字通り飛び上がった。卒業して三か月、大学に入って二か月目の六月の雨続き、少しばかり欝々とした日々が秒で吹き飛んだ。プロ野球選手として険しい道に飛び込んだ恋人の目覚ましい活躍は一つたりとも逃さぬとばかりに追いかけた。故障やらリハビリやらで一軍捕手の椅子に空きが出たこともあり、オープン戦から本塁打をかっ飛ばす御幸は、何度か一軍の試合に出場し始めていた。高卒新人としては素晴らしいスタートである。その顔立ちから既にファンがついているがサービスはほとんど行わず、ストイックに野球に打ち込む姿に、スタメン固定はもはや時間の問題と囁かれているほどで。

 そんな活躍を見て、これはシーズン終わるまで顔を見ることはないだろうと凪沙は勉学にサークルにバイトに専念していた。毎日朝晩のメールを行う習慣は続いていたが、互いの近況報告レポートと化していた。それでもそんなささやかなやり取りが嬉しくて、幸せで、遠くの地で戦う恋人との微かなつながりが愛しかった。御幸はどんなに忙しくても、必ずメールを返してくれた。高校時代よりもまめになったのではないかと思うほど。なお、既にアプリに乗っ取られ、レポートの提出ぐらいにしか使われなくなったメール機能はほぼ御幸専用の連絡手段となっていた。ただ、その時代遅れなやり取りが、逆に好ましかった。御幸用のメールボックスにメールが増えるのが、目に見えて分かる。それが何よりも嬉しかった。だから、そんなやり取りがあと半年は続くものと思っていた。なのに。

『月曜、来れるの!? 休み!?』

『休み。もしかしてバイト?』

『調整します!!』

 本当はあまり調整の利くバイトではないが、二か月間真面目に打ち込んだこと、それから人当たりの良さが功を奏したのか、快くシフトを変わってくれる人を見繕えた。それからはそわそわしながら御幸との自宅デートを胸に一週間を乗り切った。夕食はカレーがいいとか、見たい映画があるとか、お土産何がいいかとか、そんなやり取りが重なっていって。これが漫画やドラマだったら直前でドタキャン、なんてイベントが起こるが、現実は意外にも恋人たちに優しかった。或いは御幸の球団は福利厚生が充実しているのか、何にしてもこうして御幸は有言実行とばかりにこの家にやってきた。春から一人暮らしを始め、ようやく馴染みだした自分の家に、だ。

「なに?」

「んー、御幸くんがいるなあ、と」

「……なつかしーな、それ」

 ゆるりと瞳を細める御幸。もう一年以上前だったか、実家に遊びに来た御幸を見ながら、凪沙同じことを言ったのだったか。よく覚えているものだ、お互い様だろうが。そんな言葉一つとっても、喜びが募っていく。

「明日は何時に帰る?」

「ん−、何時でも。どうせ帰りもタクシーだし」

「おお……流石、ブルジョワ……」

「でもいちいち呼ぶのめんどくせーから、今年中に免許取るつもり」

「いいね! 私もバイト代貯まったら免許取ろうかな」

「車ねえのに?」

「御幸くんは車買うでしょ?」

「買うっつーか、買わされるっつーか。なに、俺の車乗るの?」

「何かあった時に迎えに行けるかなーって」

「何かって?」

「車で飲み屋行ったのに人に飲まされた時とか?」

「あー……そうなる日が来ないことを祈るわ」

 そんなやり取りをしながら部屋に入る。一人暮らしにしてはリビングとキッチンがある、少し広めの部屋。セキュリティに重きを置いたこの部屋は、親の仕送りだけでは決して暮らしてはいけなかっただろう。姉からの支援に感謝だ。おかげで大学生の一人暮らしにしては随分いい部屋を押さえられたように思う。入り口は自動ドア付き、風呂トイレ別、キッチンと洋室が繋がった1DK、築七年で駅まで徒歩十分、大学までは徒歩十五分。一人なら十分すぎる生活空間でも、巨体が入ってくるだけで手狭に感じずに入られないのだから不思議である。

 宣言通り大きなベッドが部屋の隅に鎮座し、少し型の古いテレビと勉強机に本棚とハンガーラックが置かれている見慣れた部屋。実は物の配置は実家の部屋とほとんど変わらない。もっと冒険してもよかったな、などと今更思ってしまう。

「あ、これお土産」

「おおー! ご当地のお菓子!?」

「そ。どれが美味いとかよく分かんねーから、先輩のおすすめ買っといた」

「ありがと! うわー、楽しみ!」

 紙袋にはいくつかご当地の菓子の箱が入っている。甘いものが苦手な御幸のチョイスなら無難にメジャーなお菓子かと思いきや、あまり聞いたことのないメーカーだ。先輩のお墨付きなら間違いはないだろう、うきうきと冷蔵庫にお菓子をしまいに行くと、すすすと御幸もついてくる。

「なーに?」

「んー、別に。お、カレーってこれ?」

 ぱか、と底の深いフライパンの蓋を開ける。スパイスたっぷりのカレーが煮詰められている。空腹を刺激する匂いに、へらりと力が抜けそうになる。

「いー匂い」

「初めて作ったよ、スパイスカレー」

「え、ルーじゃねえの」

「日曜は休みだし、ついつい頑張っちゃいました」

「俺のため?」

「御幸くんのため」

「……はあ〜」

 冷蔵庫の整理を始める凪沙を後ろから抱きしめてぐりぐりと頭をこすりつけてくる。幸せをかみしめたようなその吐息がくすぐったい。変に考えないように作り置きしておいたサラダの入ったタッパを引っ張り出す。

「ほら、カレー温め直すから待ってて」

「えー……」

「キッチン狭いんだから!」

「ええー……」

「それとも、『待て』もできなくなっちゃった?」

「……こんにゃろ」

 軽い挑発に、御幸はようやく腕の拘束を解いた。最後に、ちゅ、と首筋にリップノイズを残して。全く、と火照る頬に冷蔵庫のひんやりとした風が撫ぜる。カレーに再び火を入れて、凪沙は夕食の準備を再開する。

 カレーと白米を皿に盛り付け、サラダを取り分け、お待たせと御幸の元に向かう。手を洗って着替えて来いと脱衣所に押しやってから食事の準備を進め、二人揃ってようやく両手を合わせた。

「「いただきます」」

 そうして初めて作ったスパイスカレーを頬張る。スパイスキットを買ったとはいえ、中々本格的なものが仕上がった。香りもいいし、普段ルーを溶かしているカレーとはまた一味違う。

「うっま」

「ね! 時間かけた甲斐あるなあ、これ」

 ただ、毎回これをやれと言われたら中々厳しいものである。味を取るか時間を取るか、中々難しいとこだと思いながらひとまずカレーを堪能する。御幸のカレー皿はみるみるうちにカラになり、凪沙が半分食べきる前におかわりに行ってしまった。念のため白米五合炊いたが、明日まで持つだろうか、と凪沙は育ち盛りのスポーツ選手の胃袋に慄いたのだった。

 カレーがなくなる頃には流石に腹の虫は静まっていた。御幸は結局カレー三杯も平らげたのだから、良く食べるなあ、と目を丸くする。食後のデザートに御幸のお土産のわらび餅に舌鼓を打ちながら、会えなかった時間の隙間を埋めるかのようにとりとめのない会話に花を咲かせる。

「あれが、商売道具?」

 そんなことを言いながら、御幸は部屋の隅を指さす。そこには凪沙のテニスラケットが収められたテニスバックが立てかけられている。わらび餅を口に含んだまま頷く。

「お互い、スポーツで金稼ぐことになるとはなあ」

「ただのサブコーチだよ。そこまで大層なものじゃないから」

「俺も天城コーチのレッスン受けてえなあ?」

「御幸くんテニスできないでしょ」

「……バットには当たるんだし、ラケットなら余裕だろ」

「御幸くんのサーブ、全部オーバーフォルトだったの忘れてないからね」

 どうにも御幸の運動神経は野球にしか発揮されないらしく、授業で一緒に行ったテニスのサーブテストでは物の見事なホームランを叩きだしていた。懐かしいものだ。そんな風に授業で少しかじった程度のテニスの、インストラクターのアルバイトに精を出すことになるとは思わなかったが。

「よく未経験で受かったな」

「この手のバイトって、案外未経験オッケーだったりするよ?」

「そういうもん?」

「そりゃメインコーチは結構大会出場経験あるけどさ。私はあくまでサブのコーチだから。メニュー組むとか、直接的指導はまだできないし」

 とはいえ、未経験とはいえ凪沙は御幸と違ってスポーツ全般にはそれなりの自信があった。コンビニ、居酒屋といったアルバイトよりはかなり高額な給金に惹かれて応募してみたら物の見事に受かったのだから、ラッキーだったと言える。

「けど、なんでテニスコーチ?」

「時給がよかったからさ。塾講師と迷ったんだけど、人に教えるほど頭よくないし」

「へー。そんなに金欲しいの?」

「御幸くんや、遠征はお金がかかるのですよ」

 関東県内であればまだしも、関西となると中々日帰りとはいかない。交通費、宿泊費、チケット代やら食事代やらと何かとかさむものである。いずれはグッズ代も乗っかってくる。お金など、いくらあっても足りない。嬉しい悲鳴である。うきうきと回答すると、まさか、とばかりに御幸の顔が曇る。

「……お前まさか、俺の試合見に来るつもり?」

「そりゃ授業もあるし、全部が全部は無理だけども」

「だからチケットはやるって言ってんのに」

「だめだよ! 御幸くんの売り上げになりたいの!」

「アイドルじゃあるまいし」

「経済は自分の手で回してこそだよ?」

 鼻息荒く語る凪沙。御幸はいい顔をしないが、凪沙は楽しいのだ。御幸の試合を見るためにバイトに精を出し、勉学にも打ち込み、息抜きにサークルに顔を出す。そんな生活サイクルが始まって二か月。御幸の成功を時に直接、時にTVやスマホ越しに見ながら、生活サイクルを回す。忙しくもあるが充実した毎日だと自負している。そんな喜びが顔に出ていたのだろうか、御幸は渋い顔をしていたが、やがて重々しきため息をついた。

「……無理、すんなよ」

「当然。流石に飛行機必要なとこは難しいかもだけど」

「北海道とか、海外よりたけーもんな」

「そうそう。あーでも、サークルのみんなと旅行ついでになら……団体割引とか利くかもだし……」

「サークルって、ソフト部だっけ?」

「部活ってほどじゃないよ、愛好会って感じ。週に一回、練習したり、他の大学の愛好会と試合したり、みたいなゆるーい感じの」

「テニスコーチのバイトしてんのにな」

「テニスサークル、所謂『飲みサー』だったからさ……」

「あーだめだめ、そういうのはお父さん許しませんー」

「御幸くんに育てられた覚えはありませんー」

 向かい合う凪沙の手を引いて、膝の上に乗っけて腰に手を回す御幸に凪沙はけらけら笑うだけ。固い膝に座れば、凪沙の座高は御幸よりも少しばかり高くなる。日に焼けた茶色の髪をわしゃわしゃと混ぜ返せば、御幸はくすぐったそうにはにかむ。険しい顔で試合に赴く時とは、別人のような笑顔に胸が高鳴る。

「そういや、ポジションは?」

「サードだよ」

「え? キャッチャーじゃねえの?」

「キャッチャー本職の先輩がいるんだよ」

「そこはこう、レギュラー争いでもしてさ」

「そしたらサードいなくなるんだよねえ」

「人数カツカツすぎだろ」

「愛好会ってどこもそんなもんだよ」

 四年生にもなると就職活動などでサークルに顔を出さなくなる先輩も多い。下手したらプレイできなくなるかもしれない人数だが、百人近くいた青道の野球部と違って少人数独特の緩やかな雰囲気がある。勝利にだけこだわらない凪沙にとって、これほど心地よい空間もない。

「サークル、楽しい?」

「うん。先輩たちもいい人だし、野球好きな人も多いし、話合うんだよね」

「俺のこと、言ってたりする?」

「まさか、言えないよ。けど、彼氏いないと合コン連れてかれそうになるから、『県外でバンドやってる彼氏がいる』ってことにしてる」

「……お前まさか、あの写真見せてんのか」

「あったりー。まさかあの時のコスプレが活きるとは思わなかったよ」

 渋い顔の御幸が面白くて、けらけら笑い飛ばす。いつだったか街中で遊ぶために凪沙の姉の手腕により御幸はバンドマンのコスプレをして、記念にと撮影した写真は訳あって野球部全員に知れ渡る羽目になったが、まさか愛好会にまで広めることになるとは。

 とはいえこれも凪沙の自衛手段である。全員が全員でないにしろ、『彼氏が欲しい』『いい男と出会いたい』『年頃の女の子は全員彼氏を求めている』という考えの子は多い。その考えを押し付けられても面倒なので、凪沙はしっかりと『高校から付き合っている恋人がいる』と言っていた。中々会えないことと、駆け出しとはいえイケメンで一部界隈には有名な御幸一也と付き合ってるなどととても言えない凪沙は、偽装写真を手に『県外でバンドやってる彼氏がいる』などと吹聴していたのだ。

「そもそも、球団から恋人がいること伏せろって言われてるんでしょ?」

「そこまで直接的ではねーけど……まあ、似たようなことは、な」

「じゃー仕方ないよ。ワガママ言えるようになるまでは我慢しないと」

「分かってる。分かってんだけど、さ」

「?」

 そう言いながら、今度は御幸の両手は凪沙の頬を挟む。ぐにぐにと揉んだり伸ばしたり好き勝手する御幸の表情は、少しだけ暗い。

「お前がちゃんと自衛してんのは分かってるけどさ」

「不安?」

「そーかも。だからほら、あれ。『言葉だけだと些か心許ない』って奴」

「鍵、あげたでしょ?」

「俺からはなんもあげてないなって思ってさ──だから」

 そう言いながら、そのままの姿勢で御幸は自分の荷物を手繰り寄せる。鞄に手を突っ込んで何かを取り出したかと思うと、それを凪沙の胸元に寄せる。いかにも高級感のある、手のひら大のブルーベルベットの箱だ。この時点でだいぶ嫌な予感がする。だが、その予感をごくりと飲み込んで訊ねる。

「こ──これは?」

「いーから、開けてみて」

 にっこりと、笑みを浮かべる御幸に凪沙は一瞬躊躇ったのち、恐る恐る箱を受け取る。しっとりとしたその質感の箱を、御幸の膝に乗っけられながらおもむろに開けた。

 そこには、二つの時計が並んでいた。所謂、ペアウォッチと呼ばれる類の代物だろう。二つとも、ステンレススチールのベルトにサファイアブルーの文字盤の比較的シンプルな腕時計。三時を示す部分には日付が刻まれる、所謂デイデイトタイプ。フォーマルな場にも、或いは日常的にも使いやすいデザインに色使い。とても良いものだと分かる。分かりすぎて、思わず文字盤に刻まれているロゴから目を逸らしたくなる。ベルベットの箱の裏と、十二時を指し示す部分に刻まれた二つのロゴ。ブランド物にさほど詳しくない凪沙ですら聞いたことのある高級メーカー。

「こ……これは……!」

「婚約時計、兼、虫除け?」

 そう言いながら、御幸は大きな時計を手に利き腕にするりとはめる。よくお似合いだ。だが、小さい方を手に取って、それを凪沙に差し出すのだ。早く受け取れ、とばかりに。

「リューズの使い方はこれ読んで。あ、テキトーにごちゃごちゃやってると、中のゼンマイがズレて壊れるらしいから気を付けろよ」

「御幸くん!」

「なに」

「こ、こんな──む、無理だよ! こんな、こんなの!」

 自分の手首にはまっているそれが、いくらするのか想像もつかない。ただ、御幸がこれだけの笑顔でよこしてくるということは、恐らく一万や二万なんてレベルの話ではないだろう。ひょっとしたら自分の学費レベルのものでは、なんて考えたら震え上がる。

「こ、こんな高価なもの、受け取れない!」

「高価だからこそ、お前に受け取ってほしーんだけど」

「む、むりむり! 普段使いとかできないよ!!」

「使ってくんなきゃ虫除けになんないだろ」

 言い分と目的は分かる。要は、『こんな高価な時計を贈れる彼氏がいるんだぞ』というマーキングをしたい、というご要望らしい。分かるのだが、物が物である。

「記念日でもないのに!」

「お前だって記念日でもないのに鍵くれたろ」

「値段が違うよ!」

「いいだろ、俺が稼いだ金なんだし」

「そりゃそうだけど!!」

「俺が使いたくて買ったわけだし」

「それも……そうなんだけど……!」

「だったら所謂、『お揃い』ってのやってみてえな、と」

 うぐう、と呻く凪沙に反論の余地はない。御幸の稼いだ金を御幸がどう使おうが御幸の自由だし、決して使えない贈り物ではないし、お揃いという魅力的なワードも抗いがたい。だけど──と迷う凪沙。

 そんな凪沙の左手を、御幸はゆっくりと取る。まるで結婚式で指輪を取り交わすように、御幸は小さい方の時計を手に取って凪沙の手首に滑り込ませる。それは何か特別な儀式のような光景に思えて呼吸が上ずる。冷たいステンレススチールの感触に、どうしてだろう、逃げ道を塞がれたような気分になる。一呼吸置いてカチリとベルトが止まる音が静かな部屋に響いた。

「似合う」

 腕時計ごと、するりと腕から手の甲を撫でる大きな手のひらに、言葉が出ない。愛おしげな目が、指先が、溢れる情熱を物語っているようで、こんな顔をしている恋人の贈り物を突っぱねることなんて。できない。できない、そんなこと。

「ありがとう。大事にする」

 ぎゅっと、御幸を抱きしめる。少し高い座高でのハグのため、御幸の頭は凪沙の胸に埋められた。大事にしよう。時計も、この恋人も。これが正しい愛情表現方法なのか、凪沙には分からない。分からないが、御幸と凪沙の関係性における『正しさ』とは、誰が定めるのだろう。答えはない。自分たちで定める他ない。ならば、凪沙がそれ御幸のそれを『正しい』と定めてしまえば、他に何も必要がない。だから、これでいいのだ。たぶん、きっと。

 ぱっ、と眼鏡のずれた御幸がぱっと顔を上げる。至近距離で緩む御幸の笑顔に、全てがどうでもよくなった。この人が喜んでくれるのなら、もう、なんだって。

「サークルはいいけど、大学とバイトの時はつけてけよ」

「な──なるべく、そーする」

「あ、一個じゃレパートリー少ないか。オッケー、任せとけ」

「待って! 何も言ってない! 何も!!」

「気ぃ利かなくて悪い悪い。誕生日やクリスマス、楽しみにしてろ」

「怖い怖い怖い!!」

 結果として、御幸は宣言通りに誕生日やクリスマス、ホワイトデーという記念日にかこつけて誰もが知る高級メーカーのペアウォッチを贈ってくるようになった。アルバイトでスポーツをする身なので、確かに下手なアクセサリーよりは腕時計の方が使用頻度が高いのは認める。しかし、ずらりと並ぶ高級時計の数々に鍵付きのケースを購入するはめになった。

 おまけに。

「天城さん、パパ活してるって噂流れてるけどマジ?」

「はい?」

 誰もが分かる高級時計を普段使いするごくごく普通の女子大学生は、誰が見ても異様である。確かに虫除けにはふさわしかったのかもしれないが、その虫よけスプレーの効力と引き換えに『パパ活をしているのでは』という大変不名誉な噂が流れていると真田から聞かされるはめになるまで、そう時間はかからなかったのだった。

(1人暮らしを始めた家に御幸が来たお話/プロ1年目夏)

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