御幸一也は暴露された

 きっと渡辺久志にとって、天城凪沙は特別な女の子だった。

「薬師と市大三高かあ。腕が鳴るねぇ、渡辺くん」

「天城さん、まるで自分が戦うみたい」

「私らの戦場みたいなもんだからね!」

 鼻息荒く気合を入れてペンを回し、まるで獲物を狩る獅子のような目つきで試合を見下ろす。天城凪沙ほどの『目』を持つマネージャーが他にいるものだろうかと、渡辺はいつも思う。

「──お、轟くん」

 ぺろりと舌なめずりする少女は、控えめに言っても中々に野性的である。その鋭い眼光はスタンドから光線でも発しているのだろうか、見つめられている轟はびくりと肩を震わせていた。

「……なーんか、轟くんに怖がられてる気がするんだよね、私」

「そりゃあ、そんな目で見てたらね」

「私、そんな怖い顔してる?」

「うーん、人一人射殺せそうなぐらい?」

「……今度から、御幸くんからスポサン借りてこようかな」

 眉間を揉むような仕草をして、渡辺にパッと笑いかける姿はどこにでもいそうな文系少女。こうして背をぴんと伸ばして、制服を着ているとますます物静かな佇まいに見える。これで試合が始まれば、それこそ人一人射殺さんばかりに試合や選手を観察しだすのだから、人は見かけによらないとはよく言ったものだ。

 そう、本当に人は見かけによらない。

「いいアイデアじゃない? 御幸も喜んで貸してくれるよ」

「……あの、ジョークだよ? 笑うところだよ?」

「あれ、そうだった?」

 茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべると、凪沙は決まりが悪そうに俯いた。その頬は、ほんのり赤く染まっている。これはきっと、夏のせいじゃない。

「御幸とはうまくいってるようで何より」

「あー、いや……あの、うん、ドウモ……」

 本当に、人は見かけによらない。この大人しそうな少女が、時には獣のような眼光で敵チームを視察することもあれば、時にはしおらしい少女のように恥じらいを見せる。付き合ってからもう一年近く経過するというのに、未だにこうしてからかえば彼女も、そして彼もこうして言葉少なになる。似たもの夫婦──もとい、似た者カップルである。

「だから、ずっと不思議だったんだけど」

「なに?」

「天城さん、三年間一度もスコアラーにならなかったよね」

「うん、そだね」

「──なりたいって、言わなかったの?」

 ぱちぱちと、瞬く瞳はまるで寝耳に水と言わんばかり。この三年、凪沙は一度たりとも公式戦の記録係としてベンチ入りすることはなかった。彼女はいつだってスタンド席で、お世辞にも上手とは言い難い応援歌を叫んでいた。それがずっと不思議だった。恋人の活躍を、一番近くで見る席が用意されているのに、彼女はその席に座ることはなかったから。

「……御幸くん、そんなこと言ってた?」

「ううん、僕の勝手な想像」

 そう、御幸はそんなことを恋人に求めるような男ではない。故にこそ、彼女もそうなのだろうか、と、ふと気になった。何でもない、試合が始まるまでの雑談。故に彼女も、うーんと唇を尖らせながら答える。

「まあ……私、字ぃ汚いからね……」

「……え、」

「さっちんやみたく綺麗に書ければ良かったんだけど」

 確かに──と言ってしまうと彼女に失礼極まりないのだが──凪沙の字はかなりの癖字だ。読めないわけではないのだが、読みにくいかと聞かれると、つい頷いてしまう程度には。ただ、まさかそんな理由だったとは思わずに、意表を突かれる羽目になった。

「え──いや、嘘、それが理由?」

「んー……まあ、それだけじゃないけども」

 少し気恥ずかしそうに頬をかく凪沙。

「ええと、うん……なんかこれ、自分で言うの恥ずかしいな……」

 視線をあちこちに泳がせる凪沙をじっと見つめる渡辺。渡辺には、その答えが分かる気がした。だからこそ、彼女の口から言って欲しくて。彼女自ら、肯定して欲しくて。

「──さっきも言った通り、私の戦場はこのスタンドだと思ってるんだ」

「……うん」

「一つでも多くの情報を持ち帰る。その為に此処でできることは、文字通り山ほどある」

「うん」

「ベンチで御幸くんたちの活躍を見守るのも、きっと素敵だと思う。ベンチでサポートするのだって、大事な役目だってのも分かってる。けど、あそこにいたんじゃ、次の──その次の対戦相手の情報は、得られない」

 ぎゅっとペンを握る彼女の横顔は、きらきらと輝いていた。分かってた。彼女の思いも、考えも。だってそれを教えてくれたのは、彼女の横顔だったから。

 試合に出れずとも戦える──そんな当たり前で、けれどとても大切なことを、少年はその横顔から学んだ。自らの役目を、立ち位置を、悩み苦しんでいた時期もあった。選手として? それとも、サポート役として? ベンチは遠く、伸ばした手はついぞ届くことはなかった。その苦みは、生涯忘れることはないだろう。けれど、その眼差しが全てを物語っていた。その横顔に、呆れるほどに勇気づけられた。多少の悔いはあったことは認める。けれど、ほんの少しの涙を乗り越えてみれば、未だ球児の誇りはこの胸に燦然と輝いている。自らの誇りに恥じぬように胸を張れば、その姿勢を肯定するように彼女は静かに横に並んだ。凪沙は決して、言葉で語ることはなかった。だからこそ、迷いや不安は一切断ち切れたのだ。

「私の戦場は此処って決めたから、まあ、いいかなって」

「そ、っか」

「言われてみれば勿体なかった気もするけどね!」

「──今からでも、遅くないんじゃない?」

 僕らと違って──なんて捻くれたことを言うつもりは、なかった。けれど悔いが残るというのなら、少しでもそう思うのなら、手遅れになる前にと思ってしまうのは、手遅れになったからこそ言える言葉でもある。だけど、流石にこんなことは、言えない、言いたくない。少年はその淀みを、そっと飲み込む。

「んー、そこまでやっちゃうと、ホラ、動機が不純じゃない?」

「そうかな。御幸のことだし、ひょっとしたら打率上がるかもよ」

「その程度で上がるような打率だったらバットでぶん殴っちゃうね」

「ははっ、厳しいな」

 愛しの恋人のため、なんてキャラではないだろうが、何かとプレッシャーに強いのが御幸一也という男だ。恋人がベンチから睨みを利かせていたらまた打率が変わるのでは、という邪推は手厳しい意見に却下された。けれど、そんな未来もあったのかもしれないと思うと、不思議と笑みが込み上げてくる。笑う渡辺に、凪沙は不思議そうな顔で首を傾げた。

「私、自分で選んだんだよ」

「──、」

此処でいい[・・・・・]、じゃないよ。私、此処がいいんだ」

 そうだ──そうだった。彼女はちゃんと選んだのだ。自分にできることと、やりたいことを天秤にかけて、自らの意志で選択したのだ。できることとやりたいことが必ずしもイコールでなくとも、自身で決めた──だからこんなにも、胸を張っていられる。例え他に選択の余地がなかっとしても、否応なしに進まされた道と、自らの意志で歩み出した道とでは、きっと、見える景色が違うから。

 だからこんなにも、彼女は輝いて見えるのだ。

「──さ、あなたたち。お喋りもそれくらいにしなさい」

「「!」」

「始まるわよ」

 高島の鋭い声に、二人して目を見張る。ああ、そうだ。此処は彼女曰く、『戦場』なのだ。自らが選んだ戦いの場なのだ。であれば、その役目を果たさなければ。

 彼女と共に挑む戦場は、嗚呼、こんなにも誇らしい。



***



「今更言うのもどうかと思ったんだけど」

「ん?」

「僕、天城さんのこと好きだったんだと思う」

 隣を歩く御幸一也の手から風呂セットがガシャーンと滑り落ちた。ふとした瞬間に、あの夏の日を思い出す。脳裏を過るのは、不思議とグラウンドではなく、彼女の横顔。誇りを今一度思い出すことができた、あの鋭い眼光と、それと反比例するような柔らかな声。

「えーと……えー……ええー……」

 さて、そんな暴露をされた御幸は物の見事に狼狽えていた。床に散らばったシャンプーやらタオルやらを拾い集めるその手は、驚くぐらい震えている。眼鏡の奥の視線はあっちへこっちへと泳ぎまくっていて、渡辺の真意を測るべく脳の回路が焼き切れんばかりに電流が走っているのが目に見えて分かる。当然の反応と言えば当然である。渡辺が知る限り、御幸と凪沙の交際は順調に続いているはずだ。恋人に対してあのような物言いをされれば、誰だって驚くだろう。

 ただ、此処まで動揺されるとは思わなかったが。

「そこまで動揺する?」

「いやするだろ……心臓止まるかと思った……」

 嘘偽りない迫真の表情で心臓あたりを抑える御幸に、渡辺はまたくすりと笑みが零れる。そんな渡辺を前に、ますます狼狽したように口元を引くつかせる御幸。

「えー……何、ライバル宣言? 奪っちゃうぞ宣言?」

「ぷっ、何その『奪っちゃうぞ宣言』って!」

「なんか……漫画でよくあるんだよ……なんでか知らねーけど……」

「へーえ。御幸は僕に、天城さんを奪われちゃうかも、って思うんだ」

「思──わねえけど……そりゃ、思わねえけど……」

「けど?」

「焦りは、する」

「君が?」

「……ナベさあ……俺のことなんだと思ってんだよ……」

「御幸こそ、自分のことなんだと思ってるのかな、と」

 そりゃあ、どこにでもいる誰かだったら、その反応も当然かもしれない。けれど、渡辺の隣にいるのは御幸だ。あの、御幸一也だ。プロ野球選手として進路を定めたほどの実力者。おまけに、入学時から女子に噂されるほど顔が整っている。頭だって馬鹿じゃないし、背だってずっと高い。同じ男として、異性を惹きつけるだけの『魅力』のある同級生であると、きっと誰もが認めている。そんな彼が、こんな一言だけで不安を見せるなんて、一体誰が想像できるだろう。心臓が止まるかと思ったなんて本気で告げる姿を、一体誰が思い描けるだろう。

「御幸って、案外自分に自信ない方?」

「自信っつーか……ナベに本気出されたら誰だってビビるって……」

「僕、そんなに略奪愛するような奴に見える?」

「そういうわけじゃねえけど……お前、いい奴だし……」

 いい奴──か。彼のことだから、嫌味なく心底そう思っているのだろう。御幸にそう思われているのが少しだけくすぐったく思う反面、得も言われぬ寂しさが胸を吹き抜ける。

「い、一応聞くけど、過去形なんだよな?」

「そうだよ」

「……なんで、今?」

「なんでだろうね。御幸の顔見てたら、そういえばそうだったな、って」

「そういえばって……」

「そもそも、彼女のこと好きだなって気付いたの、御幸と付き合ってるって聞いた後だったし」

「えー……」

 懐かしいな、と思い返す。御幸が凪沙と付き合っているのが全部員にバレた、秋大後の日の夜。渡辺は幸か不幸か、その現場に居合わせた。ただ、その時は何とも思わなかったのだ。友人同士が結ばれたと分かって、純粋な気持ちで祝福もした。ただ、秋が過ぎ、冬を超えて、春に辿りつく前に、賢い彼は気付いてしまったのだ。

 共に戦場に向かう彼女の横顔が、好きだったんだろう、と。

「だから、彼女のこと泣かせたら、ただじゃすまないかもよ、ってことで」

「……なあ、ほんとに過去形なんだよな……?」

「うん、そうだよ。監督に誓って」

 この場で監督の名前を出すのもどうかと思ったが、誓いを立てるにこれ以上ない相手だろう。御幸もそのニュアンスは伝わったのか、苦い顔のまま床に散らばった品々を拾い上げて立ち上がる。

「あのさ……マジで、なんで今? 天城となんかあった?」

「何もないよ。言った通り、御幸の顔見たら思い出しただけ」

「……そういうもん?」

「そういうもんだよ」

「……ナベ、怒ってる?」

「え、なんで?」

「……い、いや、なんとなく」

 どこか怯え──というか怯んだような御幸の目が、とても新鮮だ。その目に自分は怒って見えるのだろうか。それが不思議でならなかった。怒り、それは何に対しての怒りか。好きな女の子を奪われたから? いいや、奪われてなんかない。その思いに気付いた時には、凪沙はとっくに御幸を見ていた。とはいえ、それを目の当たりにしたことはさほどなく。渡辺の記憶にある彼女はいつもスタンドで、別の選手に睨みを利かせていて。

「あー、そっか」

「な──なに?」

「僕さ、御幸のことが好きなのに、御幸を見てない彼女が好きだったんだ」

 御幸を想い続けながら、彼女はいつだって野球部の為に御幸たちの活躍に背を向け、ただただ彼女の『戦場』に奔走した。渡辺もまた、共に駆け抜けた。恋よりも愛よりも、野球部の勝利を第一に優先したその横顔にきっと、憧れたのだ。憧れ、焦がれたのだ。

 それをきっと、『恋』と呼んでいたのだ。

「……つ、つまり?」

「つまり、君らはお似合いってこと」

「……?」

 どこか確信があった。御幸と付き合っていない彼女の横顔を好きになることは、なかったのだと。しかもそれはきっと、他の誰かじゃだめだった。倉持でも、沢村でも、前園でも、違った。彼女が好きになったのが御幸一也だったから、渡辺は天城凪沙に恋をしたのだ。決して並び立つことのない、誰にも届かないと思っていた孤高の天才。そんな天才に寄り添っていた少女は、どこにでもいるようで、けれど世界にたった一人しかいない少女。物静かな佇まいが嘘のような鋭利さを垣間見える、美しいナイフのような女の子。御幸一也という眩い光を受けて、きらりと刃で反射する。渡辺はただ、その煌めきに目を奪われただけなのだ。

 そんな輝かしいものを胸に抱いて、前へ進める幸運さを、強く噛み締める。こういうのもまた、青春のうちの一つだったのだと、いつか振り返る時が来るのだろう。その時になったら、改めて彼女に告げてみるのも悪くない。その隣には必ず、渋い顔をした御幸がいるに決まっているのだか──。

「ナベの考えてること、わっかんねェ〜……」

 一方で、青春の狭間に取り残された御幸一也は、一人頭を抱えることになった。

(彼女に憧れた“彼”のお話/3年秋)

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