御幸一也はキャッチボールした

 部を引退し、朝から夜まで野球漬けだった日常にほんの少しだけゆとりができた。勿論、後輩指導だの取材だの、現役時よりはやることも増えているが、受験生の道を選んだ凪沙もまた勉学に打ち込む必要があったので、さほどすれ違いは訪れなかった。ただの御幸一也に残された時間は、あまり多くはない。故にこそ、一日一日を慈しむように歩んだ。凪沙もまた、志望校合格を目指しながら、つかの間の休息の時間を御幸と共に過ごした。

 そんな中、冬空高いある晴れの日、御幸と凪沙は数駅先の駅の近くにある大きな公園に訪れていた。天気は快晴。風はなく、空気はやや乾燥している。

「絶好のデート日和ですねえ、御幸くん!」

「これ、デートなのか?」

「二人で遊びに来てるんだから、デートだよ」

 土曜の午前中、勉強の息抜きにと凪沙は珍しく自ら御幸をデートに誘った。家にこもって勉強ばかりでは健康に良くないのだと。たまには体を動かしたいと、彼女は恋人を連れて公園にやってきた。二人して、グラブを手にして。

「高校球児とデートでキャッチボール、ロマンだねえ」

「そこは遊園地とか夜景見るとかじゃねえんだな」

「だってあの御幸一也とのキャッチボールだよ! 子どもたち大興奮ですよ!」

「お前もその子どもたちの一人なのかよ」

「高校三年生はまだ子どもじゃない?」

「はっはっは、そりゃそーだ!」

 そんなことを言いながら、二人並んでストレッチを行う。寒空の下の朝方という時間帯もあり、ランニングをしている老人や大型犬を散歩させている夫婦ぐらいしかいない、静かな公園だ。このご時世、キャッチボールが可能な広場や公園は案外少ない。電車に乗ってまでやってこなければならないなんて、子どもの野球離れが進むはずだと御幸は思う。故にこそ、女性ながらも自前のグラブを手にキャッチボールに誘ってくる凪沙が意外でならなかった。

「お前、そんな頻繁にキャッチボールやんの?」

「最近はあんまりだけど、小中の頃は甥っ子や従兄弟たちとね」

「そーいや、従兄弟も野球一家なんだっけ」

「そうそう。現役球児に元球児、球審やってる人もいるよ」

「天城も男だったら、球児やってたんだろうな」

「家系的に身長は期待できないし、案外三年間ボール拾いかもだけど」

「あ、野球部には入るんだ」

「入ると思う。野球部なら、うん」

 愛おしそうに、目を細める彼女は本当に野球が好きなのだろう。かつて周りとの意識の差にすり潰された少女が同じ男だったらと、考えたのは一度や二度ではない。彼女ほどのポテンシャルがあれば、どんなポジションでも十全にこなすだろう。一人の選手として、ついついそんなことを考えてしまうほどの潜在能力が、彼女にはあって。

「ポジションは?」

「希望はキャッチャーかな」

「そこはピッチャーじゃねえんだ」

「御幸くんとはバッテリー組むんじゃなくて、レギュラー争いしてみたいなあ」

「……へえ、俺と?」

 ゆっくりと屈伸する少女を、横目で見る。三年間、御幸はついぞ『レギュラー争い』の機会に恵まれなかった。正捕手として努力を怠ることはなかったけれど、一度ぐらいは憧れた選手や仲間と競い合ってみたかった、という心残りはあった。向上心の強い後輩は自分の背中を追いかけてくれたが、二年分の壁は分厚かった。そういう意味では、降谷や沢村を、ほんの少しだけ羨ましく思えて。

 けれど彼女は、当たり前のように御幸の欲しかった言葉を、口にする。

「来世、男の子に生まれるとしたら、御幸くんのライバルになりたいな」

「俺と競うんだ」

「競うよ。そのために、挑む」

 強気な瞳を見て、ほんの少し惜しむような感情が湧く。彼女が本当に男だったら、そんな未来もあったのだろうかと。天城凪沙ほどの少年は、どのような球児になっただろう。この細腕でも一四〇キロのマシンをミートするだけのセンスがあるのだ、バッティングとその足だけでも一軍入りは固いだろう。捕手──捕手か。彼女はどのようなリードをするだろう。投手たちにはどのように接するだろう。そんな、ありもしない可能性を考えてしまう程度には、その言葉をずっと、御幸は。

 けれど、彼女が球児だったらきっとこんな風に過ごすことはなかっただろう。いや、どうだろうか。彼女の性別が何であれ、御幸は天城凪沙に『恋』をしたのだろうか。分からない。ありもしない世界の話だ。現実はただ目の前にいる少女が全てだ。御幸は彼女に恋をした。彼女もまた、御幸に恋をした。そんな彼女が、そんな言葉を御幸にくれたのだ。それだけで、十分だ。

「そんじゃ、来世のキャッチャーのお手並み、拝見といきますかね」

「任せて。私の肩、結構強い方なんだよ」

「だからミットもサード用なわけ?」

「や、これはただの従兄弟のお下がり」

 そんなことを言いながら、十分なストレッチを行って二人はグラブをはめる。そうして軽く十メートルほど離れて、向き合う。遠いこの距離で向かい合うのは、新鮮だ。いつもの癖でメガネのフレームに触れようとするも、今日は危ないからとコンタクトをつけてくるよう言われてきたことを思い出す。指は自身のスポーツサングラスに当たり、くつりと笑みがこぼれる。そうして御幸は、パシンッとグラブに拳を叩き付けた。

「っし、来い!」

「いくよー!」

 そう言って、彼女はキャッチボール用のボールを掲げる。そういえば投げ方を教えてないが大丈夫だろうか、なんて杞憂は文句のつけどころのないワインドアップを見て吹き飛んだ。そうして放物線なんて可愛げのない真っ直ぐなストレートが、バシンッという軽やかな音を立ててミットに収まる。

「ははっ、すげ……オマエ、できない動きねえのかよ」

 思わず笑みが零れてしまう。全く、異性であることを惜しむほどの強肩だ。そういえば凪沙がバスケットボールを片手で投げて体育館の端から端まで投げ飛ばしている姿を見たことがある。マネージャーで留まっているのを嘆く他部活の顧問たちの憂いが、ほんの少しだけ理解できるような気がした。

「どー? 来世でレギュラー争いできそー?」

 にこにこ笑いながら呼びかける声に応えるように、御幸は頷いてからあくまで軽めにボールを返球する。加減しすぎたせいか、ボールは放物線を描いて彼女のミットに、ぱしんと収まる。掲げたミットからボールを取り、彼女はにやりと挑発的に笑む。

「どうしたのー? こんなんじゃ、来世の私に正捕手奪われるよ!」

 そう言いながら、彼女は再びおおきく振りかぶって、ボールを投げてくる。確かに、これだけ投げれるなら問題はないだろうと、徐々に出力を上げていき、最終的に異性相手であることもほぼ忘れて、ごくごく普通にキャッチボールを楽しんだのだった。

 しばらくそうしてキャッチボールを続けて、休憩がてらベンチで飲み物を飲む。寒気が頬を撫でるも、動いているだけで寒さなど吹き飛ぶほど身体は温まっていた。

「ただボール投げてるだけなのに、なんでキャッチボールって楽しいんだろうね」

「考えたことなかったわ。言われりゃゲーム性も何もないのにな」

「本能的に、こう、ボール追いかけるのが楽しいのかな」

「じゃー俺ら、前世は犬だったのか」

「御幸くんはわんこってタイプじゃないなあ」

「お前はまんま犬って感じだけど」

「降谷くんにも言われたけど、どの辺が……?」

 不思議そうに首を傾げる彼女はあまり自覚がないらしい。人間、何かと『犬っぽい』『猫っぽい』の二択に振り分けるのが好きらしいが、よく分からない感性だと御幸は思う。ただ、どちらかを選べと言われれば、凪沙は『犬』に振り分けられるだろうとは思っているが。

 しばらく談笑を交えながら水分補給と休憩を取る。すると凪沙は、ポケットに手を突っ込んでにやりと笑んだ。

「じゃあ、今世で人間に生まれたからには、その有用性を活かそうか」

 そう言って凪沙が鞄から取り出したのは、白いボール。ただ、普通のボールではない。八つの穴が開いたプラスチック製のそのボールに、御幸は「へえ」とほくそ笑む。

「これ、知ってる?」

「ウィッフルボールだろ?」

「正解。私らのキャッチボールといえばこれなんだよね!」

 ニッと笑う恋人は、どこか少年のような無邪気さがあった。似ていないはずなのに、彼女の甥っ子の笑顔が過ったような気がした。

 ウィッフルボール。野球を原型としたマイナースポーツだ。プラスチックのバットとボールで行うクリケットのようなルールだったと記憶している。特筆すべきは『誰でも簡単に変化球が投げられる』という謳い文句の専用のボールだろう。八つの穴が開いたプラスチック製のボールは、握り方や投げ方一つで『魔球』なんて揶揄られるほどに曲がる。どうやらこれでキャッチボールをしようという提案らしい。

「今日この日限りのピッチャー・御幸一也を見てみたいなあ〜?」

「キャッチャーはお前? 即席バッテリーすぎるだろ」

「大丈夫大丈夫。絶対捕るから、任せて!」

 ぐっとガッツポーズを見せる凪沙。変化球を捕れと言われるのかと思いきや、投球をご所望とは。つくづく予想という予想を裏切ってくる恋人である。二人で投げ方の動画を見ながら、ベンチの上で投球フォームや握りを確認する。

「普通に投げるとスクリューになるのか」

「そう、ストレートはサイドスローの方がキレるんだよね」

「へーえ。……え、このライズボールって何、浮くってこと?」

「そう。誰でも浮いたストレートを投げられる、ってわけ。基本の握りはこの六つだけど、他にも穴の塞ぎ方や握り方、投げ方次第でオリジナル魔球作れるのが楽しくて!」

「天城もあんの、オリジナル魔球」

「もちろん! 従兄弟たちを何度となく打ちとってきた、最強の魔球がね!」

 オリジナル魔球だなんて、小学生男子のようなセリフを恥じらいなく言いながら凪沙ははしゃぐ。そうして休憩と予習の後、凪沙から託されたボールを手に二人でまたもや距離を取る。

「よっしゃこーい!」

 グラブを手に笑顔で呼びかける凪沙。確かにシニアにいた頃は『ピッチャーでもやっていける』なんて監督に言われたこともあるが、キャッチャーにしか興味のなかった御幸は投球などしたこともなく。投げたこともない軽いボールに不安を過らせながらも、オーバースローでボールを投げた。

「!」

 軽いボールは空気抵抗を受け、いとも簡単にぐねんと打者を襲うように曲がって飛ぶ。ただ凪沙の『目』は流石だった。ストライクゾーンなどまるでお構いなしに逸れていくそのボールをしっかりと追いかけて、キャッチして見せた。

「へいへいピッチャー、ノーコンだよ!」

「うるせーな! スライダーなんか投げたことねえんだよ!」

 安い挑発に御幸は大声で返答する。慣れぬ動きに体がついていかず、どこか落ち着かぬ御幸の視線の先で、凪沙はげらげら笑っている。

「次は私の番! 捕逸したら監督に言いつけるからね!」

 そう言いながら、彼女は再び振りかぶる。スリークォーター気味で、リリースポイントはやや高め。だが、驚くほどボールの軌道は落下していき、ぱすんとミットに収まる。見事なコントロールだ。寧ろ普通のゴムボールよりもコントロールがいい。こちらの方が慣れているのだろうか。

「おお、お見事!」

「フォークか。どんな握り方したらあんなに落ちるんだよ」

「甥っ子や従兄弟たちとの特訓の成果かな。さあさあ、次いこ、次!」

 そうして、二人でありとあらゆる変化球を投げあっては、ありとあらゆる方向に飛んでいくボールを追いかける。ウィッフルボールは御幸の想像を遥かに超えた、文字通り『魔球』をいとも容易く投げられてしまうので、二人とも右へ左へ大きく揺さぶられる羽目になった。二人して汗だくになるまで走って、投げて、また走る。まるで幼い子どものように、体力の上限などまるで考えずに、ただ無邪気に遊び倒す。

 ──先日、御幸はドラフト会議の末に正式にプロ入りが決まった。これから険しくも狭き道が続いていく中で、御幸は天城凪沙との未来を望んだ。彼女はそれを前向きに受け止めた。そうして二人で歩んでいくために、それぞれの努力を始めた。そうして少年と少女は少しずつ大人になっていく。一人で生き、二人で歩くため、彼らは周りの子どもたちよりも足早に階段を駆け上がっていく。それをほんの少しだけ寂しく思う自分がいた。御幸が『ただの』少年でいられる時間は残り僅か。その道を共にする彼女も、多かれ少なかれ『ただの』少女ではいられないだろう。そんな道を選ばせていいのかと、迷う日もあった。けれど。

「おお、だんだん狙いが定まってきたんじゃない?」

「言ってろ、次はぜってー入れる!」

「……なんであんなきれいな二塁送球ができて、ストライクゾーンに入らないんだろ」

「聞こえてんぞ、天城!」

 笑って、呆れて、叫んで、また笑う。童心に帰ったような気分で二人はただただボールを投げ合う。他にも道はあった。無数の可能性を握り潰した自覚はある。いつか、彼女は言った。『御幸が選ばなかった景色を見る己を生きる』と。プロの道を選択した御幸はきっと、彼女の言うように『ただの』天城凪沙が見る景色は、きっと見ることはできないだろう。

 それでも、二人でいる時だけは、こうして悪態をつきながら笑い合っている時は、自分はただの御幸一也なのだ。だから決して、その手を離してはならないのだと、うねり来る“自称”高速スライダーを掴み取りながら、御幸は決意を新たにしたのだった。

(デートでキャッチボールするお話/3年秋)

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