御幸一也は勘違いされた

 御幸一也と付き合い始めた──マネージャー仲間で友人の天城凪沙からそんな報告を受けた時、梅本幸子と夏川唯が最初に思ったことは『え、マジ?』だった。秋大会が終わり、春に向けての調整を進めるある日の夜、そんなメッセージがぽんと飛んできたのだから即座に通話を繋げたのは言うまでもない。どちらもさほど親しい様子はなかったのに、聞けば付き合ってもう二か月が経過したというのだから梅本と夏川の驚きたるや。しかもあの御幸一也からの告白で、おまけの今日の今日、御幸のレーザービームのようなド派手な牽制球によって野球部全員にバレたというのだから、途中から一体誰の話を聞かされているのかと梅本も夏川も困惑したものだ。しかし、何だかんだトラブルもなく二人の付き合いは順調に進んでいき、恥ずかしがる凪沙から稀に零れる御幸とのささやかな日々の話を聞いて、彼女たちは安心したのだ。親友はちゃんと、人並みに、高校生らしく、穏やかな毎日を過ごしているのだ──と。

 そんな認識が覆ったのは、ある二月の日。雪もちらつく寒さの中、唯一のオフ日をゆったり羽を伸ばして過ごし、朝練へ向かった時のことだった。

「おはよお、さっちん、なっちゃん」

「おはよー。今日冷えるねー」

「おはよ。天気悪いし、雪になるかも──」

 そこまで言って、まず梅本の言葉が止まった。凪沙は基本的に部活時は髪を結ぶ。結び方は様々だが、大体はポニーテールにして、よく尻尾をゆらゆらと揺らしながらあちこちを駆けずり回っている。それによって首筋がむき出しになり、夏場はこんがりと日に焼けるとぼやいていた。その細い首筋にぴったり張られた絆創膏を見つけた。変なところを怪我したものだと、梅本は何気なくそれを尋ねようとして──寸でのところで踏みとどまった。

「さっちん?」

「い──いや、なんでも」

「そ? 私、洗濯回してくるねー」

 そう言って、いつも通り仕事を専念しようと凪沙が寮の方へと駆けていく。それを見届けてから、ちらり、と梅本は夏川の顔を盗み見る。気まずそうな目線が、同じように返ってきた。

「……さっちん、見た?」

「首のあれって──やっぱり、そういう……?」

「だ、だよね……!」

 休み前にはつけていなかった、首元の絆創膏。しかも、普通のタイプではなく、かなり大きめ、正方形の絆創膏だ。ただの怪我──と、思うには、少々条件が整いすぎている状況に、自然と深読みしたくなるのが人間というもの。何せ昨日と一昨日は受験により丸二日オフ日だった。しかも、約束をしたわけでもないのに出先で御幸とばったり出会ったのだと、凪沙とは休み中にそんなやり取りをしていた。八月末からとカウントすると、彼女たちの付き合いはおおよそ半年ほど。時期としては、決して早すぎるわけではない。だが、しかし、いざ身近な友人が──と考えると中々、どうして、中々である。

「ま、まあ、凪沙のことだし、『実は蚊に刺されて〜!』ってオチかもだけど!」

「こ、この雪が降ろうって時期に……?」

「……やっぱないか」

「ない、と思うけど……」

 今が夏場ならそんなオチも予測できたが、蚊が飛び交うには些か時期が早すぎる。そもそも、虫刺され程度で絆創膏を貼る理由はない。では何故、と考えれば自然と下卑た想像をしてしまうのが人間だ。怪我という線も無くはないだろうが、首元を怪我するなんて日常で早々起こるはずもない。であれば、絆創膏の下は必然的に、怪我以外の何かを隠すための物、と考えるのが自然だろう。

「なんだか、急に凪沙が遠くに感じる……」

「大人になっちゃったんだねえ、凪沙ちゃん……」

 昨日まで隣にいたはずの彼女が、急に自分たちの二歩も三歩も先を進んでいるように思えた。しかし、同時に喜ばしくもあった。上手くいってるんだかいっていないんだかいまいちわからない二人だったが、彼女はちゃんと、御幸と仲良くやれているのだろう。思えば部活に専念しているせいで、ろくにデートにも行けないような二人である。せっかくイケメンの彼氏──中身については梅本も夏川もノーコメントだが──をゲットしたにもかかわらず、青春真っ盛りの女子高校生にしては少しばかり味気ない日々を送っていたのだ。一足先に大人の階段を駆け上がった友人と、彼女の手を引いた野球部主将を思い、マネージャー二人は心からの祝福を送った、のだが。

「……でも、相手が御幸くんってのが、こう、ね」

「一応、世間一般的には、イケメンって言われてるけど……」

「いくら顔がよくても、ねえ……」

「そう、だね……」

 何度となく雑誌の特集を組まれ、ファンも多く、女生徒からも絶大な人気を誇る御幸一也ではあるが、その性格はお世辞にも『良い』とは言い難い。凪沙のいう『風説の流布』やバレンタインの事もあり、主に同学年は御幸はもっぱら『観賞用イケメン』として広く知られている。老若男女問わずズバズバ物を言う御幸は顔ほどとっつきやすさは無く、恋愛対象として見るにはあまりに無神経が過ぎた。そのため、御幸から凪沙への矢印はまだ分からないでもないが、凪沙から御幸への矢印は一体どのように芽生えたのか、引退後にはぜひ問い詰めてやろうと梅本と夏川はひそかに結託していることを、凪沙はまだ知らない。

 絆創膏を見た時にはぎょっとしたものだが、よくよく考えれば何も悪いことはない。だから二人は昼時に昨日一昨日の件について詳しく深堀でもするかと、ドリンクの準備に向かったのだ。



***



「お、おい、天城のあれ、どういうことや」

「お前らなんか聞いてねえか?」

「気になりすぎて練習に身が入らねえよ」

「おかげで天城の顔、直視できなかった……」

「逆に俺は御幸の顔見れなかったっつの……」

 しかし、平和に過ごしていたのは午前中まで。その日の昼、昨日一昨日の出来事について聞こうにも、当の本人は恋人と一緒に昼食のため大きな弁当箱と小さな弁当箱を抱えて姿を消しており、代わりに梅本と夏川の元にやってきたのは野球部二年の面々。彼らもしっかりとその絆創膏を目撃していたようで、思春期真っ盛りの部員たちが梅本たちと同じく邪推をしたのは想像に難くない。そんな彼らが、凪沙に近しい梅本たちに『そういうこと』なのかと聞きに来るのも、時間の問題と言えば問題で。思いの外厄介なことになったな、と梅本は朝の考えを改めざるを得なくなった。

「し、知らないわよ……聞こうにも凪沙、御幸くんとご飯行っちゃったし……」

「そうか……やっぱあれか、昨日のオフ」

「御幸、天城と会ったゆうとったもんな……」

「やるな御幸……」

「いやこの場合は天城やるな、と言うべきか……」

「──私がどうかした?」

 聞き慣れたその声に、全員が全員幽霊でも見たかのような顔で振り返る。そこには、きょとんとした顔の天城凪沙が弁当箱片手に立っていた。昼休みが始まってまだ三十分と経過していないのに、随分早いお戻りである。

「珍しいね、野球部一同。何か用?」

「い──いや、別に! なあ!」

「そ、そうそう! たまたまノリに話がさ!」

「ふうん?」

「そ、それより、凪沙こそ早いじゃん。御幸くんは?」

 取り繕い方がへたくそすぎる部員たちのフォローもマネージャーの務めかと、梅本が助け舟を出す。凪沙がああして手作り弁当を御幸に作り出してからは、時間いっぱいまで教室に戻ってこないというのに、どうして今日に限って早い戻りなのか。そう問えば凪沙は少しだけ苦々しく笑みを浮かべる。

「あー、なんか御幸くん寝不足みたいでさ、仮眠取らせてきた」

「そ──そう」

 寝不足、御幸が。当然、野球部の朝は早い。毎日五時起きの生活である。だから御幸に限らず野球部全員が昼間は眠気に襲われがちである。ただ、昨日の今日でそんな話を聞かされてしまうと、寝不足になるまで一体何を──などと邪推をしてしまうのは自然の流れで。益々気まずそうに顔を背ける野球部員たちに、凪沙も怪訝そうだ。

「何みんな、どうしたの。今日、変じゃない?」

「い、いやいや別に!!」

「そうそう!! 俺らいつも通りだって、な!」

 麻生、関のコンビが見るに堪えない誤魔化しを繰り広げる。当然、観察眼に優れる凪沙がその不自然さに気付かぬはずもない。ただ、無理に聞き出そうとする性格でないことが幸いし、追及はしてこなかった。

「じゃあいいけど、そこ退いてよー。座れないじゃん」

「お、おお、悪ィ」

 倉持が占拠していた席は凪沙の席だ。夏川とは前後の並びになっているので、よく此処に梅本が弁当を持ってやってくるのだ。そんなことを知らぬ他クラスの野球部員たちを蹴散らして弁当を仕舞う。流石に本人のいる前では追及する気にはなれず、川上の席の方にぞろぞろと移動していく男たち。それを見てから、夏川は凪沙の背中をつんと小突く。

「ねえねえ」

「んー?」

「首の絆創膏、どうしたの?」

 むき出しになった絆創膏に居てもたってもいられず夏川が果敢に切りかかり、梅本も、少し席を離れた野球部員たちも慄いた。この場面で、しかも人の多い教室でそれを聞くか、と。いやしかし、周囲が散々騒いでいるが、あの絆創膏の下が『そういった』痕とは限らない。故にこそ、胸に抱えるもやもやをかき消すべく、夏川は訊ねたのだ。早とちりであればそれに越したことはないのだ、と。しかし──。

「──っ!」

 凪沙はさっと首筋を押さえ、恥ずかしそうに言葉を詰まらせた。それは少なくとも、『虫刺され』的な反応ではない。スリーアウトか、と白州が呟く。まだワンアウトぐらいだろ、と倉持は返す。が。

「これは……えーと……」

「虫刺され?」

「違うよ──……分かるでしょ、年頃なものですので……」

 ぼそぼそとそんなことを言って俯く凪沙に、これは二死満塁、と梅本は呻く。まさか本当に『そう』だったとは。正直、実は虫刺されでした的なオチだと思ってたのだ、五割ぐらいは。だが、この反応、どう見てもただ事ではなく。

「そ、そっかあ……た、大変だね……?」

「ほんとだよ……でっかい絆創膏買う羽目になったしさあ」

「(でかい絆創膏じゃないと隠せへんてことか……)」

「(御幸そういうタイプだったのか……)」

 苦々しくそう言う凪沙の言葉を、少し離れた場所にいる野球部全員が息を殺して一言も漏らすまいと聞き耳を立てていることをマネージャーたちは知らない。正直、知りたいか知りたくないかで言えばあまり知りたくないのが彼らの本音だった。身近な人間の性事情、両者の顔がありありと想像できるからこそ、耳にしたくないとでもいうべきか。そりゃあ彼らとて、やれ付き合うだのデートするだの、といった話であれば全力でからかえるのだが、それ以上の話になると手出しし辛い。いわば、親のそういったアレコレを想像するような気分になるのだ。しかしながら、一度片足を突っ込んでしまえば気になって仕方が無くなるのだから、人類は何度となくパンドラの箱を開けてしまうのだ。

「そ、それで、どうだったの?」

「……どう、とは?」

「──や、やっぱり、痛かった?」

『『『(夏川ァアア──ッ!?)』』』

 真昼間の教室で切り込むにしては果敢過ぎる話題に、男たちは沈黙したまま動揺が津波のように広がる。しかし、聞き耳はでっかくなる一方なのだから、野次馬根性とは恐ろしい。マネージャー三人は聞き耳をたてられていることなど知りもせず、興奮気味に顔を寄せている。

「いた──くは、なかったかな、あんまり」

「お、おお……」

「それより血の方がやばかったかな」

「血!? そんなに……!?」

「そりゃあそういう話は聞くけども……だ、大丈夫だった?」

「うん。でも、ベッド血だらけになっちゃってさあ」

「う、うわーっ……」

「もーびっくりしたよ」

 げんなりしながらも生々しすぎる話をする凪沙に、梅本も夏川も興奮気味にキャアキャア騒ぐ。もう男たちすら疑わない。完全に『そう』だったのだ。あののほほんとした笑みが似合うマネージャーが、と考えると一抹の寂しさやら何やらが過り、男たちの顔はさらに険しくなる。ひとまず御幸は一発殴らねば、とその場にいる全員が心に誓う。今一度首元の絆創膏に触れる凪沙の横顔はひどく大人びて見える。夏川も梅本もまた、そんな友人にどこか寂しさを覚えたようで。

「なんていうか……大人になったね……」

「そ、そう……? どっちかっていうと、子どもの証じゃないかな」

「いやまあそればそうなんだけども……!!」

 またもや動揺の波が野球部一同を襲う。確かに、こんな風に目立つような場所にわざわざつける道理はない。牽制目的か、或いは独占欲か、何にしてもどこか大人びた考えの御幸らしからぬ、子どもじみた行為である。それをばっさり切り捨てるあたり、凪沙としても不可抗力だったことが分かる。益々、天城凪沙が大人びて、遠く、遥か彼方の存在に思えてしまう。

「だからさー、どうしたらいいと思う?」

「ど、どう、て」

「コレ。どうにか治らないかなあ」

「「えっ……」」

 思わず引き攣った声がマネージャー二人から発せられる。どうにかもこうにかもない。嫌なら御幸本人に言うしかあるまい。ただ、御幸に負けず劣らず物怖じせず物を言う凪沙がこう言うということは、言っても聞かない、という可能性が大いになる。

「そんなの私たちに聞かれても、ねえ……」

「そ、そうそう……」

「あれ、さっちんこないだ効く薬あった! って言ってなかったっけ?」

「は!?」

「え!?」

「え?」

 驚く梅本に夏川はさらに驚き、男たちもぎょっとして梅本の方を見てしまった。効く薬とは何だ。何に効くというのか。内出血なのだから薬も何もないはずだ。しかし此処にいるのは揃いも揃って童貞集団、経験者のみが知るクスリがあるというのか。まさか梅本も、なんて驚きやら焦りやらの目が一斉に梅本に向く。だが、当然梅本本人には全く身に覚えはない。そもそも彼氏もいないのに何を言っているのかと胸倉掴みたくなる梅本に、凪沙はこてんと首を傾げた。

「こないだ、皮膚科行ったんじゃなかったっけ?」

「いやそれはニキビができた──から──で……」

 大声上げて反論する梅本は、徐々にその語勢が弱まっていく。確かに、一か月ほど前にニキビができた。それだけなら市販の薬を使って何とかするところだが、うっかり潰してしまって変な痕が残ってしまった。それを気にして皮膚科に行ったことを愚痴ったことを、思い出して。

「……ニキビ?」

「そ、そうだけど」

「血が、出たって……」

「場所が場所でしょー。寝てる時にぶちっと潰れちゃったみたいで」

「さっき、子どもの証って……」

「大人になるとあんまりできないって聞かない?」

「え、じゃあ、御幸くんは……?」

「御幸くん? え、なんで? 何の関係が!?」

 凪沙にしてみれば大きなニキビができて思春期らしくそれを恥じらっていただけの話なのに、突如として恋人の名前を出されるのだから理解が追いつかない。そんな凪沙に、マネージャー選手問わず野球部一同はこう叫びたくなったのだった。

『『『(ま、紛らわしいっっっ!!)』』』

 部員たちは少し、御幸に優しきしようと心に決めた。



***



「──ってことがあったんだけど、御幸くんはいつまで笑ってるの……」

「だ、だって、お、おまっ、それ……ヒーッ、腹痛ぇ……っ!!」

 その日の帰り、いつものように凪沙は御幸と共に暗い夜の道を二人で歩く。昼間の様子のおかしい部員たちの言動を伝えるうちに御幸は笑い過ぎてその場に蹲り出すのだから、相変わらず笑いのツボが浅いなと凪沙は思った。浮かんだ涙をぬぐいながら、御幸はようやく立ち上がる。

「はー、おっかし。だから朝あんなに睨まれてたのか、俺」

「笑い事じゃないよ、ほんと……」

「お前も話してておかしいって思わなかったのかよ」

「流石に御幸くんの名前出されたら気付くよ……」

 ぱたぱたと顔を仰ぎながら凪沙が嘆息する。最初から何かおかしいとは思っていたのだが、絆創膏一つでまさかそんな勘違いをされているとは思わなかった。その場ではすっ呆けたが、後々彼らの動揺はそういうことだったのかと理解し、恥ずかしさのあまりぶっ倒れかけた。下手なコントよりよくできた綺麗な勘違いである。

「まあでも、首に絆創膏だもんなあ、そりゃ邪推されるか」

「分かってたら一昨日の時点で言ってよ……」

「こんな騒ぎになるって分かってりゃ先に言ってるって」

 御幸とて、部内で妙な雰囲気になるのは避けたい。まさか絆創膏一つでそこまで発想を飛ばすとは、御幸とて思わなかった。つくづく思春期の男女の想像力豊かさには驚かされる。にやにやと底意地悪そうな笑みを浮かべつつ、御幸は凪沙の襟首をぐいっと引っ張った。

「うえっ」

見えるとこに付けなくて[・・・・・・・・・・・]正解だったな[・・・・・・]

 暗がりの下でも、はっきり分かる鬱血した痕。凪沙の背中から胸元にかけて、御幸が残した爪痕が二日経ってもくっきり残っていた。

 一昨日の土曜のオフの日、偶然出先でばったり会った二人は当たり前のように食事を共にし、親がいないからと再び凪沙の家にお邪魔することになった御幸。一か月ぶりのデート、しかも自宅に二人きり。談笑もそこそこに、ベッドになだれ込むのはごく自然と言えよう。そうして梅本たちの想像通りの流れに運んだのだが、それを部員たちに悟られずに済んだのは不幸中の幸いと言える。ニキビ様様である。なお、凪沙の首筋に巣食うニキビを見つけたのは御幸だった。

『天城、首にでけえニキビできてっけど』

『げっ、ほんと?』

『潰す?』

『潰したらだめなんじゃないっけ。髪結んで風通し良くしとくよ』

 結果としては、御幸の言うように潰しておくべきだったのかもしれない。デートを終えて御幸を帰したその夜、首のほぼ真裏にできたそのニキビは、寝る際にちょうど枕に当たって痛いなあ、なんて思いながら眠った。翌日、目を覚ますと頭の重みで潰れたニキビから思いの外出血したせいで、ベッドと枕が血だらけになってしまい、日曜の朝からシーツを洗う羽目になった。そんな経緯を経て凪沙の首裏には情事とは全くちっとも関係ない絆創膏がぺたりと張られることとなったのだ。なお、御幸の寝不足は、全然全く何の関係もない、ただの偶然である。

「もー、引っ張らない!」

「悪い悪い」

 頬を染め、襟元を正す凪沙に御幸はただにたりと笑うだけ。求め合い、奪い合うような熱の記憶は二日経って尚、凪沙の身体に色濃く残っていることが、ひどく喜ばしく、愛おしい。そんな満足げな御幸を見上げながら、凪沙はどこか呆れ顔だ。

「御幸くん、つけるの好きだよね……」

「天城はつけられんの嫌い?」

「嫌いじゃないけど……人に見られたらどうしようって、どきどきする……」

 一つ二つならまだしも、背中から胸元にかけて何度も何度もつけられたそれを、虫刺されだ怪我だと誤魔化すには限界がある。ただでさえ部活で毎日着替えるのだから、インナーを脱がないように細心の注意を払う必要があった。冬場だからまだインナーを着替える必要はさほどないが、夏場なら完全にアウトだ。

「引退するまでは、清いお付き合いの体を貫かなきゃなのに」

「そーだな。誤解が解けなきゃ俺、呪い殺されるところだったし」

 誤解も何も本当にやることやっているのだが、誤解にしておいた方が都合がいい。それは計らずとも、今日の朝練中に証明された。凪沙の絆創膏を見た部員たちはそりゃあもう鬼気迫る顔で御幸を睨んでくるのだから、一体何事かと焦った。だが授業後の部活はいつも通り、寧ろどこか生温かな視線を浴びせられたのだから、いよいよもって意味が分からなかったが、凪沙の話を聞いてようやく腑に落ちた。睨まれた理由を思うと、少なくとも引退までは高校球児らしい『清く・正しく・真面目な』付き合いを振る舞う必要があるらしい。

「高校球児も楽じゃねえなあ」

「じゃあつけなきゃいいと思います……」

「それはヤだ」

「……」

 ジトっとした目が御幸を睨むが、本人はどこ吹く風。滅多に機会のない、二人きりの時間。束の間のその時が、少しでも長く続けばと、少年はささやかながら爪痕を残す。皮膚が薄いのか、凪沙につけた愛の証は一週間経とうと残り続けるのだという。少しでも、深く、色濃く、鮮やかな痕を残したい。触れ合えない期間もその爪痕を見て、何度だって思い出してほしい。そう願うのは、おかしなことだろうか。

 とん、と薄い背中を軽く叩く。コートやブレザー、Yシャツとインナーに守られたそこにもきっと、御幸が刻んだ紅い華があるのだろう。

「……ほんと、そういうとこだよ、御幸くん」

「それが分かってて付き合うお前も、大概いいシュミしてるってことで」

 ああ言えばこう言う。機嫌のいい御幸の口はいつも以上に良く回る。これは何を言っても勝てまいと、凪沙は降参の意を示す。こういう性格の悪さがあるからこそ、あの夏の日の夜、無邪気に笑うその横顔にときめいた凪沙の、負けなのだから。

(二年生に変な誤解をされるお話/2年冬)

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