御幸一也が揉めている

「──お前、マジでそんなこと言うたんか!! 考えられへんぞ!!」

 椅子の倒れる音、怒鳴り声、剣呑とした雰囲気。夜の食堂の片隅で仕事をしていた天城凪沙は、そんな声にPCから顔を上げた。前園が御幸の胸倉を掴み上げているという、中々に緊迫した光景が広がっている。周りの二年たちは諫めようと声をかけているが、頭に血が上った前園には届いていないようで。まあ、その怒りも尤もか、なんて思いながら凪沙は仕事を続ける。

 渡辺がチームを辞めたがっている──と、御幸は解釈した。御幸はそれを引き留めなかった。前園はそれがキャプテンとしての態度かと、怒りをぶつけた。仕事をしながら話を耳に入れながら、凪沙自身ならなんと声をかけるだろうかと、考える。だが、すぐに詮無きことだと棄却した。本人もいない中で、その真意も計りかねた者たちの勝手な想像に、勝手に怒る者がいる──おや、どこかで見た光景だ、なんて記憶の中を検索する。すぐに見つかった。去年、先輩である結城たちを中心とした新チームの始動の際も、こんな空気だった。お世辞にも器用に部員をフォローできるタイプではない結城と、情に厚く直情的な伊佐敷はとにかく部の方針でぶつかり合っていた。それをこうして、仕事の片手間に耳にしていた。最初こそはその怒鳴り合いに委縮していたものの、あれが彼らなりのコミュニケーションであることに気付いてからは、先輩たちの喧騒は仕事のBGMと化していた。不器用な人たちだと思っていたが、まさか自分たちの代でもお目にかかるとは思わなかった。まあ、御幸も前園も別段器用な振る舞いを得手としているわけではない。彼らが主将、副主将に選ばれた時点で遅かれ早かれこうなっていたのだろう。

「──俺は絶対に認めへん!! お前を主将として認めへんからな!!」

 対話は平行線を辿る一方、倉持のフォローも入ったが結局前園は怒りに任せて食堂から出ていってしまった。秋大中だというのに、チームワークにヒビを入れるなと言いたいところだが、マネージャーの口出す領分ではないだろうと凪沙は仕事を続行する。頑固すぎる、前園も、御幸もだ。まあ、二人らしいと言えばらしいのだが、残された者たちの空気感をどうしてくれる。凪沙はPCから顔を上げ、ちらりと倉持に目を向ける。倉持洋一はこう見えてチーム内のバランサーだ。さっきと同じように場を収めてくれというアイコンタクトを受け、倉持は静かに頷いた。流石、野球部一空気の読める男。彼を副主将に据えた監督の慧眼に間違いはなかった、としみじみ思っている、と──。


「天城、お前はどう思う?」


 違う、そうじゃない。

 そんな名曲が脳裏をよぎる。まさかボールがこっちに飛んでくると思わず、ぶほっ、と吹き出すところをなんとか必死に堪えた。ギリギリのところでボールを取り落とすことはしなかったが、何故こっちに送球するのかと倉持に目を向ける。だが、倉持の厳しい目は、まるで『俺にだけ任せるなアホ』、と言わんばかり。おかげさまで食堂に居る全員が──御幸までもが──凪沙に目を向けている。

「え、ええと……どう、って、」

「今日の試合、ナベちゃんと見に行ったんだろ。マネージャーの目から見て、どうだったんだよ。あいつ、本当に辞めたがってたのかよ」

 確かに、今日の鵜久森戦の偵察に行ったのは当の渡辺と凪沙だった。倉持のキラーパスと思われたが、思いの外冷静な判断の元だったらしい。しかし、そんなことを言われても、というのが凪沙の本音だ。

「き、気になるなら、本人に聞きなよ……」

「いや、お前それは、」

「少なくとも、今日の渡辺くんは普通だったよ。真剣に試合を見てたと思う」

「思う、って──」

「だってそんなの、私の主観でしかないよね。本当に辞めたいのか、本当に部活に嫌気がさしたのか、今日の試合を見ながら不安や恐怖に苛まれていたのか、本人にしか分からないでしょ」

 御幸の話を聞く限り、渡辺は自らの口で『部を辞めたい』と言ったわけではない。迷いがあったのかもしれないが。前園の言うように、辞めたくないから御幸に話を聞いて欲しかった、という意見も概ね正しいように思う。ただ、どれもこれもが推測でしかない。渡辺の本音は、もしかしたら、渡辺自身ですら見つかっていないのかもしれない。御幸も前園も、結論を急ぎすぎる。

「倉持くんの問いには、答えられないよ。渡辺くんがどうするか聞きたい、とだけ」

 不安や恐れは、何も自分たちの中で全て言語化できるわけではない。だから渡辺は御幸に相談を持ち掛けたのだ。キャプテンとして、選手の主柱として、これほど頼りがいのある相手もいないだろう。だが、渡辺は相談相手を見誤った。相手は、『御幸一也』なのだ。そういった不安や恐れ、或いは迷いなんて曖昧な物を抱えることはない。すぐに自らの答えを見出し、そこへ向かって進んでいくだけの強さが備わっていた。そうだ。彼は普通の悩みや相談事を引き受けるには、あまりに精神が出来すぎていたのだ。

 だが、そんな凪沙の抵抗を物ともせず、倉持はめんどくさそうに舌打ちした。

「じゃ、お前の主観でいーよ」

「……なんでまた、私に語らせたがるんでしょうか」

「お前、話聞いてても焦ってもねえし、黙々と仕事してっし、逆に不自然なんだよ」

「……う」

「天城なら、ナベちゃんの心情に心当たりあるんじゃねえかって思ってな」

 鋭すぎる。その観察眼は渡辺本人に向けて欲しい。クラスも違うし、あまり交流はないのだろうか。ぐっと言葉に詰まる凪沙を、今や食堂中の部員たちが穴が開きそうなほど見つめていて。

「──意識の差を感じる、って、言ったんだよね」

 渡辺は御幸に語った、数少ない彼の言葉。推測でもなんでもない、その一言だけは間違いなく渡辺の本音だ。甲子園を目指そうと、秋大を制すると、新チームは敗戦を乗り越えて前へ進みだした。一軍の人間は誰もが先輩たちの影を超えようと、チームの力になりたいと日々走り込み、投げ込み、バットを振るい、ボールを追いかけた。勝利のために。或いは監督のために。また或いは、自分自身のために。そんな姿を見て意識の差を感じる──であれば。

「みんなは、自分の存在がチームにどれだけ影響するか考えたことある?」

 周りを見回す。皮肉にもこの場には、ほとんどベンチ入りしている者ばかりだ。きっと、彼らには理解ができないだろう。だって、ベンチ入りするほどの実力も、熱意も、精神力も、彼らには備わっているのだから。

「例えばさ、うーんと、みんなで富士山登ってるとする。一生懸命頂上を目指して登るんだけど、登山て結構しんどいよね。最初は山登り楽しかった人も、しんどくて、諦めたくなっちゃって、もういいやと思って足を止める。でも登山中の人からしたら驚くよね。一緒に山登ってた人がいなくなったら、どうする? 場合によっては登るのやめて、いなくなった人を探し始めるかもしれない、よね?」

「……」

「えーと、つまり、なんだろう。富士山登るのがしんどくなっちゃって、でも黙って足を止めるぐらいなら『先に山降りるね』って前もって声かけておけば、みんな探さずに済むよね? なんだろう、そういう、ことじゃないかなー、なんて……」

 じっと、食堂中の目が凪沙を向く。はっとしたように見開くものから、イマイチ理解ができないとばかりの目まで、様々だ。

「意識の差って、結構響くよ。自分にも、周りにも。だってみんなが『富士山登頂目指そー!!』ってなってるとこで、『いや私は五合目でカレー食べられればいいや』なんて言えないし! そういうのって隠し通せないよ、絶対バレるし! だったらみんなにあれこれ影響与える前に、そういう意識レベルが違う奴は一歩引いた方がいいんじゃないかとか、そういうことをだね……!」

 ハッ、と凪沙は息を呑む。理解に努めようとしていた視線の数々が、呆然とした物に変化している。ついつい力説してその場から立ち上がってしまった凪沙は、俯きがちに椅子に座り直す。

「か、完全に私の妄想だよ!? でも、今の話を聞いて、そういうことじゃないかなって思ったの! だから、渡辺くんがどうしたいかを聞かなきゃ意味ないよねって話で!」

 変な注目を集めて恥ずかしくなって、凪沙は気を紛らわすためにPCの傍に置いていたペットボトルに手を伸ばす。ぱきりとキャップを捻り、中身を一気に呷る。中身は至って普通の麦茶──だが。

「……ひょっとして、お前が女バスや陸部に入らなかったの、それが原因かぁ?」

「──ゲホッ、ごホッ!!」

 倉持のぼそりと呟かれたその一言に麦茶が喉奥から逆流し、口元を押さえながら噎せ返った。あわやPCに麦茶を吹きかけてしまうところを寸でで堪えたが、口元から膝までびちゃびちゃになってしまった。ジャージから制服に着替えていたおかげで、太ももが冷たいだけで済んだのは幸いだった。

「何、急に!」

「動揺しすぎだろ」

 スクールバッグからタオルを引っ張り出して口元を拭う。だが、倉持はようやくいつもの憎たらしげな笑みを浮かべるだけで。

「私のことはいいじゃん! 渡辺くんの話でしょ!?」

「ヒャハハッ、そんだけ言うってことは、お前自身に思い当たる節があるってことだろ?」

「べ、別に──わ、私は──」

 ちらり、と助けを乞うように周りを見回す。だが、全員が全員先ほどの剣呑な空気を忘れ、興味深々とばかりに凪沙に目を向けている。

 天城凪沙──ただのマネージャーと思いきや、その実そこらの運動部員より光る身体能力の持ち主なのは、少なくとも同学年以上であれは周知の事実だ。昨年の体育祭や球技大会、或いは体力テストの結果がそれを雄弁に物語っている。勿論、そういった身体能力が高校生になって突如芽生えたはずもない。だが、実際彼女は中学から文化部で、高校は野球部のマネージャー。中学の頃運動部に入らなかった理由を、彼女はいつだったか『家庭の事情』と言っていた。だが、今は問題ないのだという。あれだけ動ける能力がありながら、運動部を避ける理由が──家庭事情以外にあるのだとしたら。それは。

「……私は、渡辺くんとは、逆だから」

 ついにその視線に耐え切れず、PCをどけて食堂のテーブルに突っ伏す凪沙。そうして、記憶の奥底に封じていた日々を、無理やり引っ張り出す。

「小学校の頃、ミニバスやってたの。毎年地区大会やってるような、ちょっとしたクラブ。そんなに強いチームでもなくて、身長も年齢も性別も関係なく色んな子がいた」

 語るのも苦々しい思い出が、口から出ていく。当然、小学生の頃から天城凪沙の運動神経は冴え渡っていた。男子含めても、クラスでトップレベルに足が速かったし、毎年運動会ではリレーの選手に選出されていた。そんな凪沙はミニバスでもエースだった。凪沙の手にボールが渡れば、必ずや得点ボードが動いたほど。そんな凪沙は当然ながら、チームの中心だった。けれど。

「私は、バスケができればよかった。みんなでバスケするのが楽しくて、試合に勝てるかどうかは、正直、言い方悪いけど、どっちでもよかった」

 そりゃあ勝てば嬉しかったし、負ければ悔しいとは思った。だけど、凪沙にとってはそれだけだった。次は負けない、頑張ろう、ああ楽しかった。敗戦を前にそう晴れやかに思うのが自分だけだと気付いたのは、大会で敗退して号泣するチームメイトを見てからだった。

 たかだかスポーツ、なんて言うつもりはない。だが、最初はバスケが好きだった者たちが、いつしか『勝利』だけを見据えるようになった。そしてその負荷は当然、天城凪沙に重く圧し掛かる。バスケ自体、ある程度のワンマンプレイが効くスポーツだったのも大きい。彼女にボールが渡れば、得点が入る。彼女にパスを回せば、突破口を開いてくれる。チームメイトたちは次第に、そんな風に考えるようになった。そうして天城凪沙を立てるのが上手な子ばかりが試合に出て、全員が全員試合に出れなくなった時、凪沙は心底バスケが嫌になった。みんなとバスケがしたいから、クラブに入ったのに、と。思えばそれは、凪沙一人の我儘だった。それでもその我儘が通ったのは、クラブの主軸は凪沙だったからだ。凪沙が一番バスケが上手くて、凪沙が一番リーダーシップに溢れていて、凪沙が一番バスケが好きだったからだ。だから、たまには他のメンバーが試合に出ればいい。そんな風に考えて、ゼッケンに袖を通さない日もあった。けれど。

「私が試合に出ない日は、途端に勝てなくなった」

 当然の結果である。天城凪沙を主軸にした練習や試合を行ってきたのだから、天城凪沙が試合に出なければ負けるだけ。そうして負のサイクルは加速する一方。凪沙は試合を強要され、チームメイトはそれを担ぎ上げ、試合に出れない子はバスケを辞めていく。大好きだったスポーツが全く楽しめなくなった。あんなに大好きだったバスケをプレイするのが、しんどくなったのだ。

「……言ったでしょ、逆なんだって」

 誰もがかける言葉を見つけられずにいた中で、凪沙は苦い顔に無理やり笑みを浮かべていた。結局、凪沙は小学四年生まではチームに所属した。そして周りの望み通りに試合に出て、欲しくもない勝利を掴んだ。そんな苦汁の日々が突如として終わったのは、家庭の事情が変わったからだ。所用があり、朝や放課後にバスケに行く時間が無くなってしまったのだ。まさに渡りに船だった。そうして惜しむ数多の声を振り払って、彼女はようやくバスケから離れた。

 後悔はなかった。あんなチームにしてしまったことに対しては責任は感じてはいたが、自分なりの責任は果たしたと思った。だからクラブを去った時、やっと解放された、とさえ思ってしまった。あんなに大好きだったスポーツが、嫌になった自分に驚いた。その後も、家庭事情を理由に中学も運動部に入らなかった。でも、それは結局逃げただけだった。本当に運動部に入りたければそれもできただろうに、そうしなかったのは『意識の差』を見せつけられるのが怖かったからだ。

「勿論、今は違うよ。夏負けて悔しくて泣いたし、自分にできることなら何でもしようって思ったぐらい、野球が好きだよ。でも……自分がプレイヤーになったら、多分違う。私はスポーツは好きだけど、勝利に執着できない」

 それが、凪沙の思い当たる『意識の差』だった。勝ちたい者達の中で、勝たなくてもいいという思いが、結果的にチームの輪を乱した。だからなんとなく、凪沙には渡辺の気持ちが分かるのだ。

「『試合に勝つ』という意識以外に、渡辺くんはきっと違うものを感じてたのかな。それが『背番号が欲しい』なのか『練習が辛い』なのか、それ以外の何かかは分からないけど、何にしてもみんなと見てる部分が違ったんだろうね。だから、『意識の差』なんじゃないかな、って」

「……別にンなもん、部活に限った話でもねえだろ」

「そうだね。でも渡辺くんは優しくて、真面目で、鵜久森の試合からあれだけの情報を持ち出す観察眼を持つ人だから、当たり前にあるはずの『摩擦』に苦しんだんじゃないかな」

 摩擦──自分で言って的を射た発言だと思った。二つの意識の中で、こすれ合った最中に生まれた痛み。かつての凪沙もそうだった。バスケを楽しみたいだけの自分、勝ちたいだけのチームメイト。ざりざりと、二つの意見がぶつかり合って平行線を辿るだけ。その摩擦に苦しんでいるのは自分だけの筈なのに、その痛みがまるで毒素のようにその乱れはチーム全体に広がった。凪沙はそれに気付くのに時間がかかった。けれど賢い渡辺はすぐさま察知したのだろう。だから。

 誰も、何も言えなかった。いつものほほんと笑んでいる、何故か運動だけは異様にできるマネージャーにこんな過去があった等、誰も知らなかったからだ──当然、凪沙にとっては苦い思い出なのだから、誰にも話したことはなかっただけなのだが──。試合に負けてもいい、勝利への執着しない、楽しめればそれでいい、そのどれもが野球部員たちには理解できなかった。野球が好きだ、野球は楽しい。確かにその思いはある。だが、ほとんどの部員は『勝利』を見据えている。彼らにとってスポーツとは得てしてそういう物だったから、凪沙のような考えは常軌を逸しているとしか思えない。だからこそ凪沙には分かるのだろう。周りとの『意識の差』というものを、幼いながらに肌で感じていたのだ、と。

「──って、私の昔話を勝手に重ねちゃってただけだから! 真相は分かんないよ!? ちゃんと解決したいなら、本人と直接話しなよ!!」

 凪沙はそんなことを言いながら、PCを片付けて立ち上がる。そうだ、結局のところ真相は渡辺本人にしか分からない。否、本人でさえ分からないのだ。だったらなおのこと、当事者以外があれこれ言うべきではない。これは渡辺と、そして御幸自身の問題だ。

「それとも──私からフォローした方がいい?」

 じっと、凪沙は御幸を見つめる。誰にも告げられない関係を築いた二人は今日この日初めて目が合った。居心地悪そうに泳ぐ目は、きっと恥じらいだけではないのだろう。にこりと微笑めば、御幸はますますばつの悪そうな顔で頭をかいた。だが、おもむろに首を振ったのだった。

「……いや、いいよ」

「りょーかい。そしたら、私そろそろ帰るね。当番の人、誰だっけ?」

 そう言って、凪沙は何でもないように帰り支度を始める。今日の送り当番は麻生だった。入り口で待ってて、と言って鞄に荷物を詰め込む凪沙に、話の終わりを悟った彼らは一人、また一人と食堂を後にして練習場や寮の自室へと戻っていく。そしてついに二人だけになったその時、御幸は一声投げた。

「お前が『摩擦』で苦しんでた時、誰かに何か言われたら救われてたと思うか?」

「──……」

 ぴたりと動きを止めて、御幸の方を見る。投手陣を手玉に取るのは得意なのに、こういったフォローアップは不得意らしい。きっと彼の人生に、そんなフォローは必要なかったのだろう。だから他人に施せないのだ。難儀な人だと思いながら、凪沙は静かに首を振る。

「自分を救うのは、自分だよ。他人の言葉はきっかけに過ぎない。もしそれができると思ってるなら、傲慢だよ」

 恋人として、或いはマネージャーとして、かけるべき言葉ではないという自負はある。御幸も御幸なりに苦心しているのだから、それを肯定するなりサポートするなり、手はあったはずだ。それでも、問われたのは『凪沙の考え』だ。だからそれに対して、御幸を気遣って嘘を吐いたり下手な誤魔化しをするのは、却って失礼だと判断した。例え冷たく突き放したように思われても、正直でいることが凪沙なりの誠意だ。だからこそ──御幸はその言葉を受けて、ニッと笑うのだ。

「──だよな」

 結局のところ、御幸の意見も前園の意見も正しい部分もあり、誤った部分もある。凪沙の意見もまた然り。問題の解決は極めて困難だ。だからこそ彼の胸には、前キャプテンからの言葉が燦然と輝く。そんな御幸の強さが分かっているからこそ、凪沙は大した心配もなく自分の仕事に取り組めるのだ。

「大丈夫だよ。御幸くんの誠意は、伝えられる」

「……誠意、ねえ」

「言葉にするのが苦手なら、他の方法で示せばいいよ。きっと御幸くんは、そっちの方が得意だろうしね」

「……」

「じゃあ、また明日。あ、食堂の電気どうする?」

 荷物を抱えて入口から見回せば、気付けば食堂には御幸一人。このまま残るつもりはないだろうと声をかければ、御幸はのろのろと立ち上がる。やり切れなさは残ってはいるが、ひとまず切り替えられたのだろう、どこか吹っ切れたような目だ。相変わらず惚れ惚れするようなメンタルだと思いながら見つめていると、すれ違いざまに御幸の唇がかすかに動く。

「……サンキュー、な」

「いえいえ。マネージャーですから」

 何度となく彼に告げたその言葉を残し、またねと手を振って寮の入り口で待っている麻生の元へと向かう。二人で先ほどの前園と御幸の話をしながら、雨降って地固まればいいな、と暗い空を見上げながら思ったのだった。

(Act1の31巻ののお話/2年秋)


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