御幸一也と約束した

 夏が終わった。暦の上ではあと何週間と猛暑が続くだろうが、それでもこのように表現せざるを得ない。高校最後の、野球部員としての使命が終わったのだ。それも『敗北』という形で。悔しさしかなかった。もっと夏が続けばと、涙に目を腫らした。それでも、実際に甲子園で戦った選手たちの悔しさは計り知れない。結果としては世に誇って支障のないとはいえ、もっともっと勝って欲しかった。頂点に、辿り付いて欲しかった。このチームならそれができたはずだ。人の欲に果てはない。思わずそんなことを考えてしまうのだった。

 けれど、そんな夏の亡霊をいつまでも引きずってはいられない。すでに新チームが始動し、新しいキャプテンの元、秋の大会に向けて動く始めている。自分たちも立ち止まってはいられない。受験──将来──そんなものを考える時期に、なってきたのだ。プロ、セレクション、残念ながらマネージャーにはそういった道はない。進学ならば勉強を、そうでなければ就職を、真面目に考えねばならない。普通の受験生なら予備校やら塾に充てていた時間を部活に注ぎ込んだ凪沙たちには、少々気の重い話だった。時間は有限だ。悩んでいようがいまいが、選択の時間は刻一刻と迫ってくる。せめて今月中には決めなければ、そんな思いで卓上カレンダーを見ていた凪沙は、あっと息を呑んだ。



***



「御幸くん、久しぶりー」

「つっても数日ぶりだろ」

 夏休み最後の週、恋人たる御幸一也から『この日、暇?』という雑な連絡を受け、凪沙は制服を着て青道高校へ向かった。指定された時間は既に日が傾く時間帯。校門にはジャージ姿の御幸が立っており、普段通りといった体だ。

「今日の後輩指導はもういいの?」

「顔出しすぎても、あいつらやり辛いだろ」

「なるほど、一理ある」

 新チームの始動は、いつだって十全とは言い難い。敗戦を乗り越えねばならないのなら、尚更だ。去年御幸たちも立ち上がりに散々苦労した。だが、何とか乗り越えた。後輩たちもきっと大丈夫だろうなんて、根拠のない自信──もとい、信頼があった。去年の先輩たちもこんな気持ちだったのだろうか。なんて思い出しては、くつりと笑みが浮かぶ。

「何笑ってんだよ」

「ううん。もう一年経ったなんて信じられないなあ、って」

「それって部のこと? それとも、俺らのこと?」

「あ──えーと、」

 靴を履き替えて、校舎内を歩く御幸がそんなことを言うもんだから、ぽっと顔に熱が募った。そう、今日は二人が付き合いだして丁度一年が経過した。去年この日の夜、御幸は凪沙に告白したのだ。

「……どっちも、かな」

「だよなあ」

 一年。たった一年で、数えきれない思い出ができた。野球部のこと、御幸のこと、自分自身のこと、色々なものがこの胸に降り積もった。御幸と付き合わなければ今頃どうしていたかなんか、想像すらできないほど。

「ここでいっか」

「……御幸くんのクラス?」

 そうして御幸の背を追ってやってきたのは三年B組の教室。人はおらず、遠くから吹奏楽部やら軽音楽部やらのパート練習、運動部たちの大きな声が壁越しにも聞こえてくる。けれど夕日差し込む教室は、不思議と言い表せないような張り詰めた空気があった。

「御幸くん席どこだっけ?」

「今はここ」

「うわー、後ろの子可哀想」

「なんで?」

「御幸くんの背中で黒板見えなさそう」

「あー、背中丸めろとはよく言われるわ」

「座高も考慮して席順考えるべきだよね」

 そんなことを言い合いながら、御幸は自席に、凪沙はその後ろの席を拝借する。結局、三年間御幸とは同じクラスにはならなかった。クラスが同じだったら、こうして彼の背中を見ながら勉強することもあったのだろう。勿体ないなと、凪沙は思う。

「御幸くんと同じクラスになりたかったなあ」

「一緒に授業受けたり、課外活動行ったりしてな」

「御幸くんの背中になら板書遮られてもいいや」

「なんだそりゃ」

 机に突っ伏す凪沙の髪を、そっと撫でる優しい手つきに肩が震えた。だけど、もう人目を気にする必要はないのだと気付く。もう自分たちは野球部を引退した身だ。そりゃあ所構わず、というほど恥は捨てていないが、これくらいなら許されるだろうか。

「それで?」

「ん?」

「話、あったんじゃないのかなって」

「ただのデートって可能性は?」

「いくら何でも時間と場所が不自然すぎるよ」

「それぐらいはお見通しってわけか」

「彼女ですから」

 夕方の学校に呼び出しておいて、ただのデートとは思い難い。別れ話、なんてネガティブな考えは流石に浮かばなかった。そんな可能性は万一にもないことぐらい、御幸の目を見ればすぐ分かる。だが、人目を盗むようにこんな場所に連れてきた意味は、未だ計りかねている。凪沙がゆっくりと体を起こすと、御幸の手は素直に引っ込んだ。椅子ごと後ろを向けて、一つの机を挟んで向かい合うように座る二人。

「俺、さっき、さ」

「うん」

「プロ志望、出した」

「!」

 はっと目を見開く。御幸の顔は真剣で、息が止まるかと思うほどだ。そうか、彼はついに決断したのだ。もともとプロへの願望は強かった御幸だ──尤も、部員たちに気を遣って言わないようにしていたようだが──、そうだろうとは薄々思っていた。だが、その一方で進学も視野に入れているとぼやいていた。どちらにしてもいずれはプロの道に進むのだろうと、御幸一也ほどの選手がプロにならずして誰がなるのかと、凪沙は思っていたのだが。

 けれど彼は、十七という若さにして決断したのだ。自らの将来を。進学ではなく、社会人として生きることを。既に見据えていたその未来に、手を伸ばしたのだ。

「天城には、一番に言っときたくて」

「うん」

「……まあ、一番っつっても、親や先生以外でって話だけどな」

「それでも嬉しいよ。ずっと、聞きたかったから」

 いつかはプロに行くのだろう、凪沙だってそれぐらいは理解していた。そのいつかが二年後なのか、四年後なのか、はたまた半年先なのか、それだけの違い。それだけ──なんて、どの口が言えるだろうと、凪沙は自分自身に呆れた。

「……ついに、決めたんだね」

「ああ。進学と迷ったけど、野球で食ってくならこの方がいいからな」

「親御さんは、なんて?」

「『お前の人生だ、お前が決めればいい』ってさ」

「あらら、なんかデジャブ」

「そ。お前と同じこと言ってんの、親父」

 いつか負傷した御幸に、凪沙が言ったセリフほぼそのままだ。嬉しそうに語る御幸を見ると、凪沙もまた同じように笑みが零れる。彼の考えを尊重する家族の存在が、嬉しい。そんな家族を慈しむ御幸に触れることも、喜ばしく。そんな家族と同じ言葉を告げた自分自身もまた、御幸に肯定されているような気がして。

「そっかあ、プロかあ。御幸くんが、プロ!」

 んひひ、と気味の悪い笑みが浮かんでしまう。彼が自分の夢を叶える。それを、こんなにも幸福に満ちた表情で告げている。その事実だけで、凪沙は我がこと以上に嬉しかった。

「お前も、応援してくれんだな」

「勿論!」

「……反対、しないんだ」

「するわけないよ! なんで?」

 御幸の言葉は意外だった。彼の父親が言ったことを、凪沙はそっくりそのままぶつけてやりたかった。御幸の人生なのだから、御幸のしたいようにすればいい。凪沙の考えは、今も変わらない。けれど、御幸はそうじゃないとばかりにかぶりを振る。

「──俺の人生、だけの話、じゃない、から」

 一瞬、脳が言葉を処理できずに固まった。どういう意味か。単純な解、その言葉がかかっているのは、凪沙自身。ならば考える。凪沙の人生に、御幸が関与する。今だってそうだ。では何故彼は、こんなにも真剣な眼差しで、震える唇をかみしめながらそれを告げるのか。答えを予測できないほど、凪沙は決して鈍くはない。だけど、そこまで考えてなお、思考が追い付かなくて。

「応援してくれるって、それはファンとして? 恋人として?」

「み、ゆきくん」

「俺はこの先も、天城に応援してほしい」

「それは、もちろん、だけど」

「俺の、一番近くで、ずっと」

 机の上に所在なさげに置いていた右手に、御幸の大きな手が重なる。親指が手の甲をそっと撫ぜられ、鳥肌が立つ。逃げようと思えばいくらでもできるだろうに、その穏やかな愛撫から、逃れられない。

「プロ行ったら、きっと『普通』の生活はできない。ろくにデートもできねえだろうし、休みもまちまちだし、安定性があるとも言い切れない」

「……う、ん」

「お前のこと大事にしたい。でも、そうできる保証はない。俺の人生は多分、そういうのがずっと続いていく。だけど」

「うん」

「それでも、天城がいい」

 どこまでも真っすぐな、力強い眼差しが凪沙を捉える。いいや違う。そんなものなくとも、とっくの昔に。凪沙は。


「天城凪沙と──結婚したい」


 十七歳の少年は、静かにその願いを告げた。

 世間一般的に、高校生は子どもだ。十七歳もまた、同様に。御幸はまだ結婚できる年齢ではなく、また他人の人生を背負えるほどの経験もなければ、稼ぎもない。お互い付き合うのが初めてで、付き合い始めてたったの一年。これだけの材料を見れば、時期尚早過ぎると誰もが言うだろう。凪沙だって、クラスメイトが突然そんなことを言いだしたら、苦言を呈するだろう。何より凪沙にはもう一つ、懸念がある。

「──七年前、お姉ちゃんに同じことを言った人がいた」

 目を閉じると思い出す、姉の嘆き。生涯を誓い合った人に裏切られた姉を見て、幼いながら思ったのだ。『人の思いに永遠はない』のだと。故に、今日、明日、半年後、一年後、どうなってるか分からない未来に向けた約束なんて、意味なんてないのだ、と。

「……お前、それは」

「──なんてね。ほんとはさ、明日のことすら分からないのに、未来の自分に約束を課すのが怖かったんだと思う。その約束が果たせなかった時、私もお姉ちゃんみたいに苦しむんじゃないか、って」

 七年前の日々は、未だ昨日のことのように思い出せる。実姉の突然の懐妊、結婚宣言、家族会議の末の大喧嘩、家出、それから──突然の終幕。それでも明日はやってくる。苦悩する姉の腹は日に日に膨らんでいき、彼女は毎日泣いていた。そんな姉の姿を見て、当時小学四年生だった凪沙の情操にどれほど大きな影響を及ぼしたのかは、言うまでもない。人間の思いに永遠はない──周りは恋愛漫画やドラマを見ては、麗しい愛を夢見る友人たちに話を合わせながら、幼き凪沙はそんなことを考えていた。そしてその考えは、今も変わっていない。けれど。

「それでも、ね、御幸くん。こんな私でも、夢くらい見るんだよ」

「……夢?」

「そう。御幸くんと、生きる夢」

 夢──そうだ、夢を見るだけなら、自由だった。天城凪沙にとって御幸一也は身に余るほど素敵な恋人だった。だからつい、夢を見た。これから高校を卒業して、大学に行って、就職する。そんな自分の人生を、御幸と共に歩く夢。御幸の試合に大学の友達と行ったり、就職活動に辟易しながら御幸と人生を相談して、仕事の軌道が乗り始めたら、姓を同じくすべく役所に向かう。いつか子どもを授かる日が来たら、甥っ子のように素直で可愛い子に育つのを、二人で見守る。そんな途方もなくて、全く見通しのない未来を、夢に見た。

「でも、御幸くんは私の夢を、現実にしてくれようとするんだね」

 重ねられた大きな手に、左手を重ねる。凪沙にとって、御幸は夢だ。本来なら遠く、遠く、手の届かないほど遠くにいる人が、どうしてか凪沙が好きだと言って、凪沙もまた御幸が好きになった。そうして一緒に歩き出した日々は、まさに夢のようだった。未来を望まぬ凪沙でさえ、こんな日々が続けばと、夢見るほどに。けれど御幸は、そんな子どもじみたことは考えていなかった。将来を見据えて前へ進み、どんな明日が訪れるか分からないと言いながら、それでも凪沙との未来が欲しいと言う。凪沙が一番恐れる、未来。約束が果たされるかどうかも分からない、そんな『未来』を、御幸は現実にしたいと言う。泣き頽れる姉の顔が目に浮かぶ。だけど。

「だから私も怖がらず、自分に正直になろうと思う」

「……具体的には?」

「御幸くんと結婚するために、御幸くんがいなくても生きていけるようになる」

 恐怖はある。それでも、恐怖以上に湧き上がってきたのは、『歓喜』。その夢を、自分も現実にしてしまいたいと、欲が出た。だからこそ凪沙は、こう言わねばならなかった。御幸が奇妙なものを見るような目で、首を傾げたとしても。

「それ、矛盾してねえ?」

「矛盾してる、よね。分かってる」

 結婚。それは人生を共にすること。両親のように、寄り添いながら生きていくこと。当然、凪沙にもそれは理解している。だからこそ、凪沙は御幸がいなくとも生きていけるようにならねばならないと、決めていたのだ。

「御幸くんの人生は、これからずっと野球が続いていくわけだよね」

「まあ怪我とか不調が続かなきゃな」

「そうなった時、これから先、どれくらい御幸くんと一緒に居れるか考えたけど、まあ現役中はオフシーズンでもほとんど無理だろうなあと」

「……それは、まあ」

「御幸くんがいない家で暮らすの想像して、寒気がしたよ。きっと、寂しいだろうなあって」

「……」

「だから、私は私の世界をぐーんと広げようと思う」

 ぐっと重ねられた手に力を籠める。これは決して、悲観のための言葉ではないのだと、伝えるために。

「私は大学に行きたい。サークル入ってバイトもして友達と旅行して御幸くんの試合見に行って、将来のために勉強する。就職もするよ。満員電車乗って朝夜行って帰ってくたくたになりながら、自分でお金を稼ぐ。私は御幸くんが選ばなかった景色を見ながら、『ただの天城凪沙』を、生きる」

「……それが、俺がいないように生きていく、ってこと?」

「そう。私は御幸くんに依存しない。でも、御幸くんにとってその生き方はきっと面倒事しか生まないと思う。御幸くんの知らない友達もいっぱいできるだろうし、負わなくてもいい苦労やトラブルも発生すると思う。そしてそうなった時、御幸くんはきっと」

「傍に、いない?」

「うん。そうだと思う。それでも、私は御幸くんに依存することはなくなる。苦しいことも楽しいことも、家の外にあるなら私はきっと寂しくない。御幸くんがどんな未来を歩んでも、傍にいられる」

 これは、凪沙なりの学びだった。姉は恋人に依存した。愛に縋りつき、学歴も友人も、家族ですら切り捨てた。だから、凪沙はその逆を選ぼうと考えた。決して御幸一人に依存しない。学びも遊びも仕事も、友人も家族も全て手にする。一般人には手の届かないステージで戦うプロ野球選手をサポートするには、何ともお粗末な覚悟である。本来なら彼を支えるために他の全てを投げ打つ、ぐらい言わねばならないのに。

「私はきっと、プロ野球選手の奥さんには相応しくないね。たった一人のために他の全てを捨てる覚悟は、きっとできない。私は絶対に、お姉ちゃんみたいになれない。だけど」

 いつか姉のようになるのか、或いは別の生き方を見つけるのか、凪沙には未だ見当もつかない。長い人生の中でそれを見つけるのか、或いは模索していくのか、それすらも分からない。けれど、これだけは確かで、絶対なことがある。

「それでも私は、御幸くんを一番にする」

「……一番、って?」

「色んな場所に大事なものを作っても、御幸くんが一番。絶対、そこは譲らないってこと」

 それが──凪沙の覚悟だった。御幸との未来を夢見た時、それを『現実』にするためにはどうしたらいいのだろうと、皮算用ながらも模索した。その結果が、これだった。

「要はリソースの問題だと思うんだよね。人間一人のリソースが百しかないとしたら、御幸くんは、ウーン、野球に八十、その他二十って感じかな。その中の、五を、私に割けるとするじゃない?」

「流石にもっとあるだろ」

「じゃあ十で。その一方で、私は色んな場所に五ずつリソースを割く。勉強、仕事、友達、家族、遊び、全部に五ずつ割り振っていく。そんでもって、御幸くんには十割り当てる」

「──、」

「十以上の物は、私の人生に必要ない。必ず、御幸くんが一番」

 それが、約束を恐れた天城凪沙の覚悟だった。未来がどうなるか分からない。人の思いは移ろう。それはきっと、自分も例外じゃない。だからこそ、移ろぬよう愛を貫くための覚悟をした。凪沙の思う『結婚』は、謂わばそういう誓いが必要な儀式だった。

 そこまでしてやっと、凪沙は胸を張って御幸と並ぶことができる。

「……なんつーか、さ」

「うん」

「俺、多分、そこまで考えてなかった」

「うん。そう、だよね」

「天城と一緒に居たいってだけしか、頭になかった」

「それは、まあ、嬉しいんだけども」

「お前、ほんとすげえよ。そこまで考えるか、フツー」

「そこまで考えたい、相手だから」

 これがただの同級生で、口だけの約束なら凪沙も微笑ましく思うだけで済んだだろう。けれど、相手は自分より先に大人になる。将来の道を決めた相手だ。だからこそ、真剣に考えた。考えの果てに、凪沙は一つの覚悟を決めたのだ。まさかその覚悟を、こんなにも早くお披露目するとは、流石に思わなかったのだが。

「だからさ」

「なに?」

「時間が、欲しい。準備するための、時間」

「それは、何。『俺がいなくても生きていけるように』、ってこと?」

「そう。具体的には、『私が就職してから半年経つまで』、かな」

「なんだそれ、すげえ具体的だな。なんで?」

 大学進学を仮定すると、最短で五年と少し。御幸たちは二十三歳だ。結婚するには少し早い年齢と思えるが、野球選手としては平均的と思われる。その理由を、凪沙は胸を張って説明する。

「お姉ちゃんの件もあったし、結婚するならちゃんと自立してからにしたいんだよね。お父さん、ただでさえ心配性だしね……就職して、ちゃんと自分の力で生きていけるよって証明してからがいいな」

「じゃあなんで半年? 一か月でも三か月でも変わんなくね?」

「就職四月ならシーズン真っ只中でしょ、御幸くん」

 どこまでも見越したその発言に、御幸は言葉を失う。たった一言の願望のために、あれやこれやと言って、重かっただろうか、なんて後悔が今更過る。いいやそれを言ったらこの年でプロポーズだってどっこいどっこいに決まってる、なんて言い訳を胸に一つ。

 そうして手を取り合って向かい合うこと数秒、御幸は大きなため息を吐きながら机に崩れ落ちるように突っ伏した。

「お前ほんとさあ……かっこつかねえよ、ほんと」

「それは、その、ほんとにごめんだけども」

 確かに、少しばかり可愛げがなかったような気もする。後先考えず、嬉しいと頬を染めるぐらいの淑やかさは身に着けておくべきだった。姉の一件がなければ凪沙だってそれくらいは素直になれたかもしれないのに、と飄々と笑う姉の顔が今はほんの少しだけ憎らしく思えた。

「『俺がいなくとも生きていける』──か」

 そう諳んじる御幸は、穏やかな笑みを浮かべている。安堵したような、柔らかな笑みが一瞬だけ窓の外を向いて、それから凪沙に戻される。

「俺が故障しても、不調になっても、お前は俺と生きてくんだ」

「そうだよ」

「俺が、死んでも?」

「そうだよ。傍にいなくても、ずっと一緒」

「そっか。そりゃ、最高だな」

 もう片方の手が、凪沙の頬に添えられる。緩やかな瞳が徐々に近づいてきて、凪沙は肩をこわばらせながらも目を閉じた。やがて柔らかな唇が重ねられる。ちゅっ、と、軽いリップノイズと共に、唇が離れる。額がくっつくぐらいの距離に、御幸の端正な顔が見える。頬を撫でる手のひらは、驚くほど温かい。

「多分、俺らが想像するよりずっと大変だぜ」

「そうだね」

「俺、お前ほど心広くねえし」

「私だって、御幸くんほど強くないよ」

「それでも、」

「そうだよ。それでも、私も御幸くんがいい」

 御幸一也でなければ、こんな荒唐無稽な未来図を描きはしなかった。どこまでも高みへ向かう御幸だからこそ、凪沙もまた腹を括ることができたのだ。姉の姿が、今尚脳裏から消えたわけじゃない。けれど、二人ならと、思ってしまう。どんなにすれ違おうとも、どれほど喧嘩しようとも、付き合いしたことすら悔いるようなことがあっても、凪沙は絶対に『その先』を手放すつもりはない。

「御幸くんと一緒に生きるために、私は何一つ諦めたりしないから」

 どんなに辛くとも、この手を放す気は毛頭ない。何よりこの笑顔を、一番近くで見れる権利を、どうして諦められようか。けれど再び唇を重ねられ、思考はぴたりと一時停止。清濁飲み込むような力強いその口付けは、まるで誓いのキスのようだと思った。

(未来を約束するお話/3年夏)


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